ある晴れた日の午前の後半、まだ気温の上がりきらない、そこそこに快適でそこそこ貴重な時間のこと。フェレス卿はわさわさと毛足の長いご自慢の犬の姿で、日課となっている散歩を遂行していた。その日は、時期にしては奇跡ともいえるからりとした快晴で、日頃のべたべたと纏わりつく空気にほとほと辟易していた卿は自然ご機嫌な足取りで邸宅の芝を踏む。しばらくこの天気でいてくれたら毛並みが汚れなくても済むんですけれどねえ、などとえらく所帯じみたことを考えながら卿はふ、と目線を青々とした芝からフェレス邸の白々とした壁面へとうつした。晴れ晴れしい空色を背負った今日も今日とてうつくしい乳白色の建築のうち、二階の大きく設えたバルコニィに弟の覇気のない気配を感じ取ったのであった。その弟は卿の視線の先、白色ペンキの眩しいバルコニィの打ちっぱなしの床にべったりと仰向けになって、じつに珍しいことに、文庫本を読んでいた。あまりの珍しさに、メフィストは思わず二度見を強いられた。本当に読んでいるのか疑わしく、しばらくじとりと観察していると、なるほどたしかに不規則な間隔で頁をめくっている。文庫本にはどこで仕入れたのか、縮緬染めのブックカバーまでかかっていた。
 メフィストはこれはどうにも興味深い、と一時散歩を中断することにきめた。ぼふん、と軽快な音とともに人型に戻る。ここでようやっと兄の存在に気付いたのか、アマイモンはぴくり、と肩を揺らして本を顔からずらした。
「お前が読書など珍しい、」弟はゆっくりと卿へと目線をやる「実に不気味だ。世界の終わりのにおいがする」
 兄の大仰な暴言に対してもアマイモンは例の無表情で、さも、たったいま、自分が本なんてものを読んでいたことに気がついたかのような顔して文庫本にちらっと目をやって、ああ、と声をもらした。炭酸の抜け切ったサイダーのような声であった。
「ハア、退屈しのぎです、こんなもの」
 ボクにはちっとも理解できませんね、と弟は心持ち憮然としてこたえた。
 アマイモンは、文字は、読める。単語単語の意味も問題なく理解もできる。ただ、文字列の真意と背景とその行間がまったく読めないだけで。ジャスト、オンリー、ただそれだけ。メフィストはなんの得にもならぬ皮肉を脳みその内で遊ばせた。弟と会話していると他言語の逐語訳で話しているかのような、喉につっかかるような、齟齬を感じるのはそのせいである、とメフィストは思う。
「はて、では何を読んでいたのだ」
 弟はしばし手中の文庫本と兄の顔を見較べて、それからぱたんと本を閉じておもむろに立ち上がった。バルコニィからいささか芝居がかった動作で白色の太陽に向かってその痩せた右腕を差し出した。

「おお、兄上、あなたはどうして兄上なのですか」むろん、棒読みである「あなたがボクを想うのならば、兄上であることをやめてくださいな。そうしたらボクもボクでなくなりましょう」

 メフィストは大いにげんなりし、そしてしばし呆然とした。手中のその文庫が漫画やいっそ学術論文の類であったらまだ救われた気がした。
 だども、じっとこちらを見つめる弟の死んだような視線をすげなく無視するにはメフィストの遊び心はいささか過剰すぎた。メフィストは渋々ながらも記憶の中にラインをさぐる。あなたに一目会いたくて、そう、たしかそんなかんじ、と。
「おまえに一目会いたくて、」弟に向かって左腕を差し出す「あの儚い月にさそわれここまできたのだ」
次いで昼間の薄白い半月を指差す。アマイモンはバルコニィの欄干に手をかけ、かるく身を乗り出した。ああ、と単調な嘆息をこぼす。
「どうしてこんなところまで、誰があなたをご案内したので」
「愛が」よもやこの台詞を自分の口から発音する日がくるとはとメフィストは軽い眩暈を感じた「愛が私を導いたのだ」
「ここにいてはきっと殺されてしまいます」
 弟は両の手で口元を覆うしぐさをした、が悲壮感は微塵も伝わってこなかった。
 メフィストは、暗闇が、と言いかけて白昼堂々の現状を思い出し機転を働かせる。光が、
「このまばゆい日の光が私を覆い隠してくれよう、それよりもむしろ」メフィストはできるかぎり悲劇的に目を伏せる「ここでお前の愛が得られないのであれば私はいまここで殺されてしまいたい」
 そこでアマイモンはその場でくるりと半回転をし、西の方に目線をやった。メフィスト卿も上げていた左腕をおろし、そしてどうにも我慢ならぬといったふうに噴出した。ぼうっと空を眺める弟を尻目にしばらく笑い続け、弟の大根役者ぶりをひととおりなじり終えたころには腹筋の痛みが限界に達していた。
「ああおもしろかった、じつにおもしろかった」
「ボクはとりたてておもしろくはなかったです」
 やはりアマイモンはどこか不貞腐れつつこたえた。
「ではなんでこんなこと仕掛けたのだ」
「暇だったからにきまっています」
 人間だって暇じゃなければこんなもの読まないでしょうに、と弟は左手の文庫本を忌々しいといわんばかりにとバルコニィから投げ捨てた。メフィストはとっさに手を伸ばし掴みとる。興味なさそうに爪を噛み始めたアマイモンから暫し目をはなし、ぱらぱらと捲ってみるとアルファベットがずらり並んでいた。原文であった。メフィストが目線を向けるとアマイモンはいったん爪噛みを中断してこたえた。
「ボクは日本語の迂遠な言い回しが苦手なんです」
 それに戯曲の翻訳なんて読んだって仕方ないでしょう、などと一丁前にいって、再び爪をがしがしやりだした。メフィストはなにやらどっと疲れた。
「私は暇ではないのだがな」
 あと本を投げるな、と忠告して、散歩に戻ろうかと踵を返すと、背後で弟が小さくつぶやいた。
「兄上の役者は板についていましたが、」「いささかアイノコクハクが本気っぽくて気持ち悪かったです」
ざわざわしました、と続く台詞が終わぬうちに、メフィストは振り向き様にアマイモンに向けて文庫本を投げつけた。まんざら、本気で。

[ ドラマチックは右肩下がり ]





(お礼は現在一種のみ)(コメントの返信は365にて)



ついでに一言あればどうぞ(拍手だけでも送れます)
あと1000文字。