寄せた頬、抱かれた腕の下で唇を噛む。

ツォンは―――ツォンはいい奴なのだ。付かず離れず、時には部下の領域をも超えて長年仕えてきてくれた。よくぞまあこんな仕事を、と遠くで感心混じりに眺めながらもだからといって近くで見つめる己はその男を邪険に振り払うことは出来なかった。それがどこで違ってしまったのか。間違ってしまっているのは己だという自覚はある。
何時まで経っても子ども扱い。誰彼が傍にいないときは昔の延長である。お前何時までもこんな対応が許されると思うのかと憤りながらも、一方この距離が遠ざかるのを惜しく思うも嘘ではない。今では後者の方がよほど強く、前者は遠く掠れて萎んでしまった。ドサクサに紛れてかき回される頭だ叩かれる頬だ肩に回される腕だに随分と救われ。今では―――触れる度に跳ね上がる動悸が何というかなんて知っている。
だが決してツォンには伝わらないのだ。決してあの男は気づかない気づいてくれない。だってあんなに平然と触れるのだ。俺がどんな思いを抱いているかなんて知りもしないで。嗚呼少しでもあの男が動揺してくれるのなら。
汚い、汚い、と思いつつ。嗚呼、嗚呼、と嘆きつつ。
やってられるか、と天井を仰いだ。仕事の話だ。やってられるか。嗚呼そうだとも全くもってやっていられるか。あの薄汚い豚のような家畜のような糞ジジイ共の機嫌を取るなどと。やってられるか。不満は溜まりに溜まっている。不満を溜めるなど健康に良く無い。俺の健康を蝕む権利が一体奴らのどこにあるというんだ馬鹿どもめ馬鹿どもめ。ドカリと椅子に座りつつ、やれやれと大きく溜息を吐き両の手で顔を覆った。嗚呼疲れているな。どこか遠くでぼんやりと思う。疲れている。
はぁと口から長い長い溜息を付き、眼球をきゅうきゅうと押して擦っていたら、くしゃくしゃと髪を撫でられた。ツォンだ。こんな真似をするのはツォンしかいない。そもそもこの部屋に今いるのはツォンしかいないのだ。しかしこんな真似はツォンしかしない。親父だってしない。だからこの手はツォンだ。支離滅裂なのは分かっているだが俺は疲れている。徹底して参っている。俺にだって、こんな日もある。
だから、だから俺がこれからすることもきっと許されるのだ。俺は今猛烈に疲れているのだから。
薄っすらと、開いた指の隙間から覗いた視界に映った、ツォンのネクタイの見えるその胴部に。勢いをつけて椅子を蹴りそのまま抱きついた。当然予想できることながらツォンは床へと崩れた。まぁ当然だ。決して俺は可愛らしく可憐な少女ではあるまいし、勢いつけてぶつかればさすがのツォンでも倒れるだろう。しかしこうやって無防備に、ぶつかるように抱きつくのは久方ぶりだった。だからツォンが拒みはしないかと身を竦めていた。こうまで疲れて、勢いをつけでもしないと本当は俺はこんなこと。
顔を上げずに済むように、ぎゅうぎゅうと腕に力を込めた。徹底して参っていた。今だけだ。もうやらない。これが最後だ。嗚呼いつまでもこうしていられないことはとっくに解っている。
床に転がったまま顔も上げず声も立て無い俺に、ツォンはその腕を背中に回しぽんぽんと撫でた。ゆるゆると、気を抜けば震えるのではないかとさえ思われる息を唇から長く吐き出した。不覚にも、震える唇に吸い込んだ息を詰めてじっと唇を噛んだ。嗚呼いつまでもこうしていられないことは分かっている。嗚呼。
宥めるように、ツォンの指先は首筋を撫でた。柔らかいと昔ツォンが言ったこの髪先をその指先は擽った。嗚呼、少しでも。俺は思った。少しでもツォンが。俺が触れた瞬間に身を竦めるとか。動揺に撥ねるとか。戸惑いに遅れるとか。そんなことが一度でもあったら俺は言うのに。後頭部を撫でる掌の下で俺は思った。嗚呼、唇を噛み締め。俺は思った。少しでも、その指先が欲情に震えたのなら。嗚呼。頬を寄せ唇を噛み、祈るように思った。

嗚呼、俺は言うのに。ツォンの指先は震えてはくれない。



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