今日もまた人がやってくる。
 船に揺られて川を越えて、人が――いや、人であった者達が戦々恐々とやってくる。
 その人であった者達の列は長く、その渋滞とも言える列の先を見ると、其処にはそれなりに整えられた館があった。
 扉をくぐり、廊下を抜け、一室にたどり着くと、椅子に腰をかけ、机の上にある書類を丁寧にめくる少女と、
その左右に背を伸ばしすくっと立つ卒と、少女の前で神妙に佇む人影があった。

「一時の楽をむさぼる事を悪とは言いません。しかし度が過ぎれば薬も毒となるように、
楽も享楽となって身を蝕むのです。酒は百薬の長と言っても飲みすぎる物ではありません。
特に、それが原因でここにくる事となった貴方には身にしみて分かる事でしょうが」
「……はい」
「その、とりあえず返事を返しておこうというのも良く在りません。吟味して、理解し答えは返すものです。
貴方はまだ悔いていないと私は思います。ですので、一度しっかりと話し合う機会を得ましょう。
禊です。それなくして、貴方の今後を決める事は出来ません」
「……」
「……では、後ほど通達いたします。隣の部屋で暫く待って下さい」
「はい」
 少女――この土地、幻想郷のヤマである映姫にそう言われた死者は、項垂れて隣の部屋にとぼとぼと足を向けた。
 それを見送ってから、映姫は自身の少し後ろに居る、影にひっそりと潜む書記に声をかけた。

「佐々木重蔵、一時保留です、その様に」
「畏まりました」
 映姫の鈴のような声に、同じく涼しげな鈴を思わせる声が応じる。
 一室を照らす蝋燭の火が風に揺れたのか。
 少しばかり光源が揺蕩い、映姫の後ろに控えていたその姿が仄かにてらせれた。

 長く黒い髪と、煌々と光る紅の瞳と、雪のように白い肌と。
 そして、真っ黒な服。
 それは、喪服にしか見えない着物を纏った稗田阿弥だった。



《うちの阿礼乙女がうんたらかんたら》
 とあるいちにち



 机に置かれた数十枚の書類を一度まとめ、阿弥は両手でそれを持ってトントンと机で叩いて揃えた。
 美しく整ったそれを一瞥してから、阿弥は自身の前の席に座る、背を伸ばして姿勢正しく映姫に声をかける。
「映姫様、お疲れ様です」
「いえ、阿弥こそお疲れ様でした」
「その場合はご苦労様といって下さいませんと」
「貴方は一時的な官吏です。部下では在りません」
「お堅い事ばかりですと、いつかひびが入りますよ?」
「最も柔軟なものが最も堅いものを自在に出来る、と言ったのは老子でしたか……」
「はい」
「その様に生きるならばその様にすればよいのです。ですが皆がそうあっては世は回りません」
 映姫はそう答えてから席を立ち、阿弥に顔を向けた。
 その映姫の姿を見つめて、阿弥はもう一度口を開く。

「一時保留、思ったよりも多くされましたが、映姫様の能力を使えば――」
「ええ、使えば何事も白と黒が分かれるでしょう。
ですがその間にある百か千か万か……その色を見ずして何が決められましょう」
 矛盾といえる。
 白黒、善悪、それらを明確に分ける事に特化した身でありながら、彼女はそれを良しとしないらしい。
「まぁ、最近は多少余裕があります。ゆっくりと人を見るには良い時期なのですよ」
 僅かばかり片方の口元を歪ませて映姫はゆっくりと呟いた。
 冗談であるらしい。
 珍しい事だが、なるほど、冗談が言えるほどに余裕があるのは確かであるようだ。

 阿弥は目を丸めて数度瞬きし、ふわりと微笑んだ。
「そうですか。では少しばかりお茶にいたしましょうか?」
「えぇ、そうですね」
 映姫はいつも通りの顔で頷いた。
 それでも、その顔に少しばかりの喜色が混じって見えたのは、阿弥の気のせいであったかどうか。

                  ●

 稗田の家に生まれた者は、転生者だ。
 稗田阿礼を祖とするこの家系は、阿礼が転生して戻ってくる幻想郷の名家中の名家である。
 彼ら、彼女らは一度戻り、幻想郷の縁起を書き上げ、その三十年に満たない短い生を終える。
 自らの蝋燭が燃え尽きる前に転生の儀を行い、幻想郷のヤマの下に向かい、そこで次の命の準備が整うまでを過ごす。
 ただ過ごすわけではなく、準備が整うまでの時間を官吏として過ごすのである。
 彼ら、彼女らは人間の賢者と言われるだけあって書類関係には相当強い。
 ある程度の"個人差"はあるが、まず間違いなく有能であった。
 それは勿論、今回映姫の下にやってきた彼女にも当てはまる。

「ここは落ち着きますね」
 四方を本棚に囲まれた、書類や書簡ばかりが詰まれるそれなりに大きな一室で、
湯飲みを両手で持って阿弥は目を細めた。
 そんな事が出来る余裕があるのは、間違いなく目の前に居る彼女のお陰だ。
 映姫はこんな部屋で落ち着けるのはどうかと思いながらも、つい口に含んだお茶の適度な熱さに頷いてしまった。
 そして、思う。

「なるほど、ここは生前の貴方の部屋に近いのでしたね」
「私室ではなく、仕事部屋でしたけれども」
 つい零れた映姫の言葉に、阿弥は答えた。

「初めは嫌な部屋でしたが、其処に――書斎に行くと大抵彼がいたので、
最後のほうは自分から進んで行っていた様に思います」
「……確か、半人半妖の少年、でしたか」
「はい、拾いました」
「……そうですか」
 さらりと言ったその言葉に後ろ冷たさは感じられないが、普通に考えれば犯罪臭漂う言葉である。
 ヤマの前でさらりと言って良い言葉では決して無い。
 無いのだが

「膝小僧のまぁなんと美しかったことか……あれを幼年期と少年期の間に撫でつくせなかったのは、今でも心残りです」
 至極残念、といった顔で俯き零す阿弥に、映姫は無表情を貫いた。
 返事の返しようが無いからである。
「心残りといえば……」
 まだ続く阿弥の言葉に、映姫は少しばかり表情を常の物に戻し

「あの声変わりしかけの声で阿弥おねーちゃん大好きと言ってもらえなかった事も心残りですね……」
 至極無念、といった顔で俯き溜息を零す阿弥に、映姫は再び無表情になった。

 ――何故なのでしょう。

 持っていた湯飲みを一旦机に置き、映姫は眉間を軽く揉んだ。
 やって来る稗田阿礼の転生者は、有能だ。
 書に通じるが故に書記としては非常に頼もしい限りであるのに、どうにも皆どこかずれている。
 たとえば彼女の先代にあたる阿七など、映姫に連れられてこの部屋に――書類管理室にきた時など、

『よし! ここに秘密基地作ろうぜ!』

 満面の笑みでそう口走った。
 映姫の記憶が確かならば、なにやらサムズアップしていたような気もする。
 とりあえず反射的にシャイニングウィザードを顔面に叩き込んだ後虎王を決めた筈だ。
 映姫が。
 余りに痛かったのだろう。
 阿七は無様にのたうち回った。
 その後反省した面持ちで立ち上がった彼は、映姫にこう言ったのである。

『薄い本を隠す部屋にした方が良かったのか?』

 言うまでもないだろうが、映姫の膝がもう一度唸った。
 どうにも、どこかずれている。
 生の短さゆえ、己の欲求に素直すぎる所でもあるのかもしれない。
 ならばそれを正すのも自身の役目ではないかと映姫は思うのだが。

「あぁ、映姫様?」
「なんですか、阿弥?」
 映姫の思考をさえぎって、阿弥が微笑みながら口を動かす。

「この部屋に男×少年の艶本を数百冊紛れ込ましておきましたが、よろしいですよね?」
「事後……ッ! まさかの……事後報告ッ!!」
 映姫が目を見開いて肩を震わせるのも無理からぬ事であった。
「えッ……あぁ、申し訳ありません」
 察したのだろう。
 阿弥は瞳を伏せて口元に手を当てると

「少年×男の方がよかったんですね?」
「なんという……ッ 腐脳……ッ!!」
 映姫はきりきりと痛み出した胃をどうにかしようと一所懸命だった。

 "ならばそれを正すのも自身の役目ではないか"
 なんという思い上がりであろうか。
 映姫は知らず震えた。
 稗田の者達がずれていたとはいえ、これは余りに余りだ。
 これに比べれば灼熱地獄でバーベキューをやり始めた阿七など木っ端に過ぎない。
 いや、そうでもないか。
 そう言えばさらにその前の阿夢は衆合地獄で何度も何度も、
嬉々としてナンパをやらかして映姫の胃を痛めつけていた訳だが。
 なんという自由人の血脈であろうか。
 いや、全員下を正せば阿礼に行き着くわけであるから、血脈もなにも同一人物とも言えるのだろうが。

「あぁ、これなんてどうでしょうか。『おい、やめろよ……人が見てるじゃないか』『気にするなよ、
俺達が愛し合ってるかどうかが一番の問題だろう?』」
「大問題です……ッ! いや、読み上げないで下さい……」
「その僅かばかりに逸らした目……興味が全くないというわけでもなさそうですね?」
「あ り ま せ ん」
「いえ、私には分かります。映姫様の反応は、かつて腐本を薦めたばかりの頃の女中頭にそっくりです」
「貴方は何をしているのですか」
「結果的に稗田の屋敷の女中の九割九厘がこっちに転がりましたが何か?」
「貴方は悔い改めなさい」
 無理だ。
 これは無理だ。
 映姫は弱々しげに首を横に振り、小さく、それでいて長い溜息を吐いた。
 おそらくこれは稗田の血の集大成なのだ。
 そうでなくては、次が怖すぎて生きているのが嫌になる。

 疲れ果てた映姫が顔を上げると、そこには阿弥のなんともいえない顔があった。
 先ほどまで浮かんでいた微笑も、楽しげな色も、何処にもない。
 本当に、言葉に出来ない、あえて言うなら透明な顔だった。

「……どうか」
 何か言わなければならない。
 映姫はそう思い、思っていたよりも小さく響いた声を一度飲み込み、
もう一度、今度は先ほどよりも大きな声を口から出した。
「どうか、しましたか?」
 それでもどこかに皹が入っているように聞こえるのは、自身の耳なのだけであろうか。
 映姫が弱いと感じた声はしっかりと阿弥に届き、阿弥は透明な相を消して小さく首を横に振る。

「気づかされるものですね……こういった会話を、よくこんな部屋でしていたと、そう思うと……戻りたいと思ってしまいます」
「なるほど」
 ただの少女の相だ。
 いま映姫の前に居るのは、稗田阿礼の転生者ではなく、稗田阿弥という名の少女に過ぎない。
 美しい貌も、東洋美人らしい細い体も、すべてただの少女の物だ。

「つくづく、悔やまれます」
「何を、ですか?」
 映姫の言葉には答えず、阿弥は目を細めた。
 口元は僅かにも歪まず、故にそれはどの表情にもなりえず、ただ恐ろしげな幽霊にしか見えなかった。
 なまじ色素がや人間としての匂いが薄い分、それはよく際立った。

 阿弥は映姫に一礼し、自身の前にあった湯飲みと皿を手に取り、席を立つ。
「少し仕事に戻ります。どうにも、これは良くない」
 これ、が何を指すのか映姫には判然としなかった。
 白と黒をはっきりと分けるとはいえ、人一人の億にも近い感情の色となれば分けられるとしても分けがたいものだ。
 まして、映姫自身少女である。
 実年齢はともかくとしても、彼女は未だその心を片隅には置いているのだから。
 そうなると、女は何時までたっても、女で少女だ。
 去っていく阿弥の背を見送り、映姫も戻ろうかと席を立つ。
 いや、立とうとしたその時、ふいに映姫の耳に声が飛び込んできた。

「我侭を言えば、困らせてしまうでしょうか?」
「……どんな我侭でしょうか?」
 誰宛の我侭かもしれない、その言葉の続きを映姫は待つ。
 寂とした時間はほんの少しで終わり、声は再び奏でられた。

「今度も、女で在ればいい……。それは、やはり我侭なのでしょうか?」
 答えも聞かず、阿弥は部屋から去っていった。
 浮きかけた腰をもう一度下ろし、椅子に座る。
 もうぬるくなったお茶を一度嚥下し、映姫は意味も無く周囲を見回し、

「最も柔らかいものが、最も堅いものを動かす……ですか」
 そうなのだろう。
 しかし、阿弥の言葉は堅い物で確かな皹があった。
 そんな言葉で堅い物が――規律が動くわけが無い。
 それでも、映姫は思うのだ。

「何もかもがそれでは、世は回らない物なのです、阿弥」
 そう、思うのだ。


――了



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