「太公望いるー?」 「……また来たのか、馬鹿王が」 「馬鹿王だなんて、相変わらず酷いね太公望! 君に会いたくて来たというのに! 喜んでくれたっていいんだよ?」 「帰れ」 「またまた、君は照れ屋だねー」 「嘘混じりけのない本音だが?」 「え、そうなの?」 はぁああ……、と深い深いため息が漏れた。 隣で姫発が「ため息ついてちゃだめだよ! 幸せが逃げてしまう」なんて芝居がかった動作と共に言うが、誰のせいだと思っている、誰のせいだと。紛れもなく、お前のせいだからな。……自覚はしていないだろうが。 「……ちゃんと寝てる?」 「は?」 「隈が凄いからさ」 「……自己管理ならばしている」 「そうかなあ……、天化が心配してたよ?」 「ほう、あいつは人の心配が出来るほどには余裕があるのか。今度大量の仕事を押し付けてやる、と伝えておけ」 「あはは、お手柔らかにね」 「考えておこう。……で、お前はやってきたからには、仕事をする気で来たんだよな?」 「え」 「俺の前でぐーたらするつもりだったなら、片腹痛い。執務をやってもらおうか、武王」 あえて王の名で呼んでやれば、あちこちに視線をさ迷わせた後に、観念した様子で「……やるよ」と首肯した。 呼び出した侍従に連れて行かれながらも、姫発は「ちゃんと寝るんだよ!」とやはり心配そうな顔で叫んでいたのだった。 「……太公望様」 「何だ」 「恐れながら、武王のおっしゃるとおりかと」 「お前も休め、というか……」 「はい。というよりは、城全体の総意かと存じますが」 「そんな総意など知らん。俺に回す仕事量を減らせるようになってから言え」 俺に回ってくるものが多い、つまり複雑な案件が未だ多いということだ。 しかも一件一件が神経を使うもの、且つ迅速な判断が求められるもの。……人間の体力ではとても処理に追いつかないだろう。例えそれ相応の能力を持っていたとしても、だ。だから、道士たる俺がここに居座るのはあまりよくはないのだが、緊急事態だからということでここにいる。 「……下がれ。明朝前には寝るさ」 「ですが……」 「さっさと寝かせたいならば、姫発の見張りでもしていてくれ。また来てもらっては困る」 「……承知いたしました」 窺うような視線が来たので、手を振れば、諦めたように一礼をして去っていった。 「……どいつもこいつも……」 心配してくれているのは分かる。 ……あまり寝ていないことがばれているということも、消失を仕事に没頭することで埋めようとしていることが周囲に知られていることも、その他諸々も。 荒れた自覚はある。 その分心配させたということも知っている。 だが、こればっかりはどうしようもなかった。 (茶が、欲しいな) こういう時に、図ったかのように茶を横に置く、無鉄砲で短絡的でだが有能な補佐官だけが、居ない。 自分の中で、一番重要で、尚且つ割合を占めていた、あの水色の髪をした女だけが隣に居ないのだ。 それはふとした瞬間に訪れる、喪失。 自然に息づいていたからこそ、日常に組み込まれていたからこそ、こうやって何回も何十回も何百回も失った事実を思い知らされる。 ――そして、忍び寄ってくるのは、ゆるやかな「喪失」だ。 今はまだいい。 鮮烈な記憶が、面影を、声を、出来事を、体中に刻み込んでいるから。 けれど、道士である俺には時間が余りあるほどある。それこそ何百年という生が後ろには控えているのだ。 その時の中で、俺はかの女を覚え続けていられるのだろうか。 そいつが「居た」ということは決して忘れない。あいつが嫌がろうが、なんだろうが、覚え続けてやる。だが、時と共に、会わない人物というものは、次第に薄れていくものだ。こればっかりは、俺にはどうしようもない。気合や能力でどうにかなるものでもないからだ。 そのための行く宛のない手紙なのだろうか、とふと思う。 自分の中で刻み込んでおきたいから、あいつへの思いを書きとめ続ける。棚に密かにつまれた紙達は、今はまだ薄いけれど、いずれあの棚を占拠するまでになるのだろう。 『忘れてもいいのですよ』 泣きそうな顔をして、あいつがそう言う夢を見たこともある。 どれだけ女々しいんだ、と自分の見た夢に頭を抱えたが、それでも仮初の逢瀬は幾らか気分を上昇はさせた。 「忘れるか、薄情者め」 俺は、忘れない。 ゆるやかな喪失にだって抗ってみせよう。 自らの生を諦めた俺を救ってくれたのがお前なのだから、今更諦めることができようか。 一度見捨てた生の先。 ならば、俺はその再び拾い上げた生の先で、お前と再び逢うことができることを、ずっと願い続けよう。 あいしているから。 |
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