夜を見る子供





 アサコにとって、夜は苦手なものの一つだった。

 景色が黄昏に染まり、藍色に攻められていく度に不安が募る。また、あの暗闇がやってくる、と。

 もうすぐ高学年に上がろうという年齢になっても、それは変わらなかった。

 夜が怖いなど、同級生に言えばきっと笑われてしまうだろう。だからアサコは誰にもそのことを言わなかった。

 母親には心配させたくないから。同級生には笑われたくないから。祖母には同情されたくないから。

 家に帰って誰もいないことにも慣れたのだから、夜にもきっとその内慣れる筈なのだ。

「今日も帰りが遅くなりそうなの、ごめんね。先にご飯食べて、お風呂入って寝てて」

 電話越しに聞こえる母の声に、アサコは見えないことも忘れて殆ど反射的に小さく二度頷いた。

 観たいテレビもないがとりあえず点けて、画面も見ずに夕食の準備をする。

 一人分の食事をテーブルの上に運び、垂れ流しのテレビの音をなんとなく聞きながらご飯を口に運ぶ。

 楽しいはずのテレビの音には、夜の気配が混ざっている。閉じられたカーテンの外には、暗闇が潜んでいる。

 温かいはずなのに、冷たい空気を吸うような感覚に、アサコは身震いした。こんな時は、早く眠るに越したことはない。

 慌てて食事を終えると、そのまま食器を洗い、用意していた下着と寝間着を持って風呂場へと急いだ。

 湯船には浸からずにシャワーだけで済まして、髪をさっと乾かすとベッドに潜り込む。

 電気を消してから眠りが訪れるまでの間、この間が彼女にとって夜の間でも一番苦手な時間だった。

 夜の暗闇を一番感じる時間。

 その間、アサコは外から聞こえてくる騒音に耳を澄ませる。それを聞くことができれば、世界に一人きりだという錯覚から逃れられるのだ。

 けれど、この時はいつもの様にうまくいかなかった。

 車が走る音も、酔っ払いが外で騒ぐ声も聞こえてこない。

 たちまち抑えていた寂しさが込み上げてくる。

 お母さん早く帰ってきて、といつもは心の中でも思い浮かべないようにしている弱音で胸がいっぱいになった。

 その感情を押し込める様に、目蓋をぎゅっと閉ざす。

 この少しの時間を我慢すれば、また朝がやってきて、いつもの様に母を起こして共に朝の準備をする時間がやってくる。

 けれど、嫌な時間ほど長く感じてしまうのはどうしてだろうか。朝はやってこないのではないかとさえ思ってしまう。

 くすくす、と笑い声がした。

 それはすぐ近くからだったので、アサコは驚き目を開けた。

 笑ったのは、枕元に置いていたウサギのぬいぐるみだ。確か、母がドイツに行った時にお土産で買ってきてくれたものだった。

 その兎がぐっと首を横に曲げた。おそらく首を傾げているつもりなのだろう。

「かわいそうなアサコ、さびしいのね」

 兎は愛らしい少女の声で言った。

 アサコは何も言い返すことができずに、ただただその兎のぬいぐるみを見つめた。

 兎の声には聞き覚えがあった。一体誰の声だっただろうと思い出そうとするが、思い出せない。

「おかあさんなんて、さいしょからいなければよかったのにね。そうすれば、こんなにさびしいおもいをすることもなかった」

 兎の言葉にアサコは眉を顰める。

 お母さんが最初からいなければよかったなど、考えたこともなかった。想像しただけで途方も無い寂しさに襲われるのに。

「そんなことないよ。お母さんがいてよかったと思うことの方がたくさんあるから。お母さんがいて、うれしいと思うことの方がいっぱいあるから。そんなこと思ったこともないよ」
 
 かわいそうにかわいそうにかわいそうにかわいそうに。

 兎はアサコの言葉も無視して、壊れたレコーダーの様にその言葉を繰り返した。

 アサコはぞっとしてその兎から身を遠ざける。とんっと、背中に柔らかいものがぶつかった。

「私のお人形さん。あなたは一人きりじゃないといけないの」

 耳元で囁かれた声に、アサコはぎゅっと目を閉ざす。目蓋の裏に潜む闇が、アサコの体を包み込む。

 とろりとしたその暗闇は、あてどなく、いつもの夜の寂しさとほんの少しの懐かしさがあった。

 目を開けても誰もいない。あるのは豆球に照らされたアサコの部屋だけだ。

 いい子ね、と褒められたい。負担をかけたくはない。母の為に自分でできる限りのことはしたい。

 けれど、この暗闇からは逃げ回りたい衝動に駆られる。それでもどこまでも続く夜から逃げられないことは知っているから、ベッドの中で丸まるのだ。

 耳鳴りの様に少女の声は響く。

 防ぐことはできないことを知りながら、アサコは両手で耳を閉ざした。



 *



 凹凸のない闇を見つめながら、アサコは目を開けることができないでいた。

 先ほどまで見ていた夢の余韻が体中に纏わりつく様だ。

 夜の静けさに、慣れているはずの家の中にまで怯えていたのは、いつまでのことだっただろうか。

 中学生になる頃には慣れて、その感情はあまり出てくることはなくなっていたのは思い出せるが、小学生くらいの頃の記憶は少し曖昧だ。

 けれどその寂しさは時折思い出すことがあった。

 それは今の様に夢の中だったり、例えば食事をしている時に、何かに誘発されるわけでもなくふと浮かぶことが多かった。

 アサコが目を閉じたまま夢の中で感じた寂しさを打ち消そうとしていると、彼女のすぐ傍で小さな声が聞こえた。

 その声でアサコがようやく目を開けると、彼女の目の前に蜂蜜色の髪があった。

 寝惚け眼でアサコはそれを暫く見つめたあと、ほっと息を吐いた。

 いつも否定はするが、夜中にふと目覚めてしまった時、彼の存在はアサコに少しだけ安心感を抱かせる。

 温かな人の体温に、静かな寝息、それがあれば闇に染まった広い部屋の中でも寂しさを感じることもない。

 アサコはイーヴェが目覚めない様にそっと体を寄せ、ゆっくりと目を閉じた。



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(夜の子供:本編から省いた挿話)



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