ピアニッシモな東海道本線と京浜東北線
ラズベリーメンソールをどうして選んだのかと、これは聞く気がしないので、敢えて聞かない。彼のそんな可愛げを未だにどこか嘘のように捉えているので、或いは罠かも知れないが、まあこの際そこはなんでもいい。問題はそこではない。
これが洒落たショットバーならばともかく、場末の立ち飲み屋だからいけないのかもしれなかった。否、だからこそ近いのも良くない。結局のところは、東海道はひとつ溜息をついた。そう、結局のところ、つまらない我慢は、くだらない。くだらないけれども、かといって踏み込むのには多少憚られる。
先に酔ったものが勝ちだというような、そういうルールは何処にもなかったと思うのだが、とろんとした目つきで、空色の目は濡れて輪郭を誤魔化していた。普段とは逆、うつむきがちな視線がいっそ卑怯なくらいに直線的だった。肘から下は殆どぺたりと机につけて、うん、それは卑怯だ、勝ち組だ。
しかしここで最も卑怯なのは、そのビジュアルではないのだと思う。彼は何も言わない。何かを要求してくるわけではない。ただ、見ているのだ。東海道のことを試すように、じっと見ている。
「帰るか?」
「何処へ?」
ごく普通の、ありきたりな言葉を、彼の疑問がまるでいやらしい誘い文句のように化かしていく。だがそれは本望かも知れなかった。何も言わないならば、引き出されるのはこちらの方だ。そして、彼はきっと、全て言葉を東海道に選ばせるだろう。
待たされているのはこちらだろうか、否、焦らされているのは彼なのだろうか。たまらない時間、東海道は思わず彼が手元に置いていた鮮やかな桃色の箱を振った。当然のように空洞の無音だけが帰ってくる。そう、おしまいだ。
「お勘定」
東海道はまず、亭主に声を掛けた。着たままだったコートのポケットに、空き箱をねじこんだ。京浜東北は、何も言わず、ただカウンターの下で東海道の腿に触れた。僅かに傾いた頭、髪の先から甘い香り、酔い潰したのはさて、どちらであるのか。
東海道は笑った。
「お前が一番好きな男の所だよ」
「君ってほんと、ろくでもない」
文句を垂れる口は、あとで塞ぐことにする。だって、それはたぶん、甘いので。
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