大きな音を立てないよう、そっと蔵馬は歩を進めた。
その人は…机に突っ伏して眠っていた。上品なベージュの絨毯が、足音を吸収する。
長い黒髪を靡かせて…蔵馬は、白い指を伸ばした。
大きな窓の外には、春先のような温かな風が吹き、色づき始めた木々がそよいでいる。
葉の間から、陽の光が差し込んでいた。
それでも、その人は伏せた顔を起こさなかった。
広い机の上、積み上げた書類が、時折吹く風に揺れた。
「…コエンマ様」
しゃがみ込んで、小さく声をかける…起きないだろうと思いながら。
茶色の髪が、前に会ったときより伸びて、コエンマの耳にかかっていた。
それに手を伸ばす…。
…はっと、その瞳が開いた。
…瞬間、蔵馬の手は叩かれていた。
バシッと、音がして、蔵馬の身体が絨毯に転がった…。
ガタンと音がしたのは同時だった。
引き出しから取り出したのは…コエンマには不似合いな、小さな…けれど直ぐに
命を奪えるもの。
知っている。
蔵馬はこれを知っていた。霊界特製の、妖気と霊気を混ぜた、どんなものでも
殺せる、小型拳銃。銃口をしっかり侵入者…蔵馬に向けて、コエンマは拳銃を構えた。
「コエンマ…様?」
びくつきながら身体を起こし、蔵馬はコエンマを見上げた。
カタンと、拳銃が机に落ちた。
「あ…蔵馬…か」
鋭い瞳が消え、彷徨っていた焦点が、蔵馬を捕らえた。
黒髪を乱して、コエンマが突き飛ばした身体を抱きしめるようにして立ち尽くす蔵馬。
「…それ、は…」
「あ、ああ…」
カチャ、と、鍵を閉める音がした。引き出しにそれを仕舞い、コエンマは溜息を吐いた。
「あれ以来、休息を取るときには、直ぐに出せるようにしているんだ」
父を告発したあの事件からは数ヶ月経っていて…。
それは言葉に出来ない傷を、コエンマに残していた。霊界の中にも様々な派閥があり
企みがある事は、頭では分かっていた。けれど…今までより、きっとこれからは周りを
警戒しなくてはいけない。
誰を信じていけば良いのか分からず…きっと、今のコエンマに大切なのは自衛なのだろう。
そして現実的にも、それはコエンマに今必要なことだ。
「眠れ…ないんですか」
ゆっくり、蔵馬はもう一度近づいて、優しげに尋ねた。
その瞳には…どこか寂しげな光。
「蔵馬」
そう、と言って良いのか分からない。眠れないわけではない。ただ、心を解放して
何も考えること無く意識を無くすような時間が…ないのだ。
仮眠のような睡眠を繰り返し…。
ふらつきそうなコエンマの視線が、弱々しく蔵馬を見た。
「…俺を、見て」
いつの間にか、蔵馬はコエンマの机の前に立っていた。
蔵馬は、小さな手でコエンマの頬を挟んだ、暖かい、人間の身体の温もり。
霊界の、人より少し冷たい温度とは違う…。
目の前に、蔵馬の深い碧の瞳。蔵馬は、笑っていた。けれどその瞳には苦しそうな…
何かを押し込めているような…我慢しているような苦悶の色。
「忘れ…られる」
そっと、蔵馬の唇がコエンマのそれに触れた。
温もりからじわじわと広がる…緩く、柔らかな気。
ふらっと、コエンマの身体から力が抜けていく。…ゆっくりと、コエンマは顔を伏せた。
「大丈夫…」
眠りに落ちたコエンマの耳に…蔵馬はそっと囁いた。
唇から、嫌なことを忘れられる呪術をかけた。
意識を失ったコエンマの後ろから、蔵馬は熱く、優しくその背を抱きしめた。
「俺が、あなたを支える」
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