拍手ありがとうございました!
ひとつだけSSを置いてみましたが、以前無配で配ったものです。
うっかり支部にUPしてたり本に収録してるものだったらすみません。

【水面の恋 ~みなものこい~ 】


シュテルン帝国の王都シュテルンビルトは身分の応じた三層に別れ、それぞれに宿屋や酒場が数多く居をかまえる。

この日、シュテルン帝国第五皇子の正妃であり唯一の妻という地位をもつワイルドタイガーこと虎徹は、シュテルンビルト初の診療所の出来具合を視察に行った帰りにふととある人物を発見した。

普段よりはいささか質素な外套を身に付けてはいるが高貴さは隠しきれず、明らかにお忍びの貴族の若者でしかない青年の名はバーナビー。
太陽に煌めく金糸の髪と陶磁器のごとき白皙の頬、すらりとしているが軟弱な印象を受けない均整のとれた身体をもち、類稀な剣の腕を誇る上に頭脳明晰で民からの人気も高い、天上の神々に三物も四物も与えられたシュテルン帝国の皇子であり虎徹の年下の夫その人だ。

そのバーナビーの最近の密かな趣味は身分の隠しての市街の見回りであることは、虎徹をはじめアントニオやイワンやパォリンなど、主だったアポロン宮の面々には周知の事実だ。なんでも、皇子であることを隠した姿で市街を見れば、皇子として巡視する時に見えるものとはまた違った真実が見つかるらしい。
更にこのお忍びは、正体に気付く民らにも好意的にとられているらしく、古今東西、高い身分をもった権力者がお忍びで市井にでることは市民にとっても心楽しいものらしい。某暴れん坊な将軍様とか某刺青入った町奉行とかの番組昔好きだったなあ、と思う虎徹も今は『高い身分をもちながらお忍び』をしている一人なわけだが、その辺りは自覚の薄い虎徹である。

自覚は薄いが、

「バーナビー様のお忍びは明らかにタイガー様の影響ですよね」

との溜息をつきつつ忙しい合間に影からバーナビーを守る護衛の手配をしていたイワンには、さすがに、なんかごめん、と謝りはした。
一人歩きを好まれるようになるだなんて、とアントニオにも苦い顔をされているがまあ牛はどうでもいい。

「ん?」

イワンに胃にやさしいものでも作ってやろうかな、と算段しつつ、虎徹はふと首を傾げた。

虎徹の視線の先、お忍びバーナビーは何故か先程から動きを止めていて、じっととある一点を見つめていたのだ。

「なにしてんだ、バニーのやつ」

シュテルン帝国広しといえど自分だけに許された名称で夫の名を口にして、虎徹は首を傾げる。

はて、と思いつつバーナビーの視線を追えば、小さな人工の泉がそこにはあった。

王都シュテルンビルトには、火災などの火急時に備えて様々な場所に人工的に水物を造り置いてある。

そこに何か注目するものでもあるのだろうか。

だがしかし虎徹がいくら目を凝らそうが、人工の泉の周囲には水遊びをする子供たちや、休憩をして泉を囲む浅い石垣に腰を落している者、誰かと待ち合わせをしているのだろう若者たちがちらほらといるだけだ。

だから、その泉をバーナビーが注視している意味が解らない。

泉の垣根の交換を考えているのだろうか、それともそこに集う人々の中に見知った人物がいるのだろうか。

年下の美貌の夫と泉とを交互に見やってから、虎徹はややって、一つの可能性に気が付いた。

「……………」

逡巡したのは僅かな間。

次の瞬間には虎徹は年下の夫へと足を踏み出した。

「バニー」

雑踏の中、周囲にお忍び貴族の正体がばれないよう潜めてよべば、果たしてバーナビーは、はじかれたようにこちらをむいた。

「虎徹さん」

バーナビーの翡翠の瞳が、虎徹の大好きな優しい色でこちらを映す。

「こんなところでどうしたんですか、虎徹さん?今日も供をつれていないんですか」

「お互い様だろー。それよりバニーさ、何見てたんだ?さっきから泉のほう見つめてて」

問いかけてから、先程逡巡した事を、虎徹は口にした。

「あ、もしかしてバーナビーお前さ、あそこで待ち合わせしてる女の子の中に好みのコがいたんだろー。お前、俺のごたごたに巻きこまれる前はかなりお盛んだったって聞くし、なんなら―――」

虎徹の言葉が最後まで続かなかったのは、バーナビーがおもむろにこちらを見たからだった。

「虎徹さん」

「はい」

虎徹はバーナビーに少女たちの話を向けたのはそれほど深くない理由があった。

熱心に彼女らを見つめるバーナビーが突然酷く不憫に思えてしまったからだ。

バーナビーを知る、バーナビーの兄妹であったり兵士たちであったり周辺にすむ貴族だったりシュテルンビルトの民だったりに話を聞くにつけ、虎徹が知る前のこの青年は数多くの女性と知り合っていたようだった。
皇族なら妻が複数いるのは当たり前で、それは皇族にとっての嗜みでもあるのだと。

しかしバーナビーには自分しかいない。

バーナビーが「貴方だけがいればいい」と言ってくれたからで、そんな風に言ってくれたことを虎徹はいまのいままで単純に喜んでいたわけだが、…ふと。

ほんとうに、ふと、思ったわけだ。

こいつ、あの誓いを守ったとしたら、すごい数の女の子と遊んでたくせにもう二度と女の子のやわらかい身体で抱きしめてもらえなくなるんだよなあ、と。

少女らを見つめるバーナビーを見て、思ってしまったのだ。

こんなにいい男がそれでいいのか?

いや、いいわけがない。

俺も男なら、ここは若くて将来未来もあるこの青年のために、勢いで正妃なんかになってしまった年上の男妻として、年下の夫が女の子を愛でることを容認する度量の広さを示さなくては。

そんな風な思考順序でバーナビーへと話しを向けようとしたわけだがしかし。

遮られた言葉の先を待ってみれば、なんとバーナビーが示した先は少女たちではなく、その近くで赤ん坊を抱いた妙齢の女性でもなく、

「あそこの青年ですが」

泉を一心に見つめている男を示した。

「へ?」

我ながら非常に間抜けた声を虎徹は出す。

「………。………いや、えーと、バニー?お前さんの好みをどうとか言うつもりはねえけどさ」

俺はやわらかい女の子がお前に必要かなって思っただけで、と激しく複雑な気分になりながらもごもごすれば、ごく真面目に、年下の夫はのたまった。

「あの男は何をああ熱心に泉を覗きこんでいるんでしょうね」

「……うん?」

思いもかけないその言葉に虎徹がまばたきを三度ほどする。

これにやはり真面目にバーナビー皇子殿下は続けて見せた。

「いえ、女性がいつまでも身繕いをするために鏡や水面や硝子を覗きこむのは解るんです。男もまあ多少の体裁は気にしますし、僕もいでだちには気を配っているつもりです」

「あ、うん、そうだな」

気を配ってるというかバーナビーの場合使用人や奴隷たちがすべてを整えてくれるわけだが、まあともかく、虎徹は彼が何故あの男を見て、というか観察していたのかが予測できた。

案の定。

「ですがあの男は、僕が半刻程前に泉の前を通った時からずっと泉を覗いているんです。身支度にしては長すぎる、では泉の中に何かあるんでしょうか。けれど王都のどの泉にも火急時に邪魔にならないよう異物を投げ込むことは禁止されています。もしかしてあの中に毒でも仕込もうとしているんでしょうか」

「――――――」

真剣に腕組みまでして考えるバーナビーに、虎徹は苦笑した。

「虎徹さん?」

「いや、あの顔つきはそんなんじゃないと思うぞー」

この年下の夫が、その生い立ちから多くの人と密接に接してこなかったことを虎徹は知っている。

様々な性格、性質、嗜好を世の人間があわせもっていることは承知しているだろうが、それはきっとあくまで知識だけのものだろう。

一方の虎徹は、大人数での集団生活を送ってきた学生時代や他国の同職種らとの交流の為に交換留学に出向したりと、異文化に触れる行為はかなり多いほうだった。

だから呆れるでなく、虎徹は説明してやった。

「うっとりして泉をずっと覗いてる。あの男のあれは、多分、水面の恋じゃねえかな」

「?」

明らかに理解していない表情のバーナビーに、さもありなんと虎徹は素直に納得した。

「水面の恋、ですか…?」

「おう。んーと、例えばさ、お前や俺が水面とか鏡とかに姿を映す時は、バニーがさっき言ったみたいに、身だしなみを整える時とか、強い風で髪がぐしゃぐしゃになったときとかだろ」

「そうですね。女性も、その時間は遥かに異なるとはいえ、そもそもは身だしなみを気にする時にそうしていますし」

「そうそう、パォリンは滅多にないけど、カリーナは戦場の野営のときでも綺麗にしてるもんな。あれはほんとにすげえ」

しみじみと言ってから、虎徹は話しを戻す。

「ま、それはともかく、今はあの男の話だけどな」

「はい」

「男ってのは基本的にそんなに身なりに気を使わねぇのが多い。あそこでそわそわしながら誰かを待ってる小僧も、時々泉を覗いて髪を直す程度だ」

「ええ、その程度なら当然のことですね。僕だって貴方と顔を合わせる時は、寝所以外では常に完璧でありたいと思っていますから」

「…っ、……さくっとそーゆー話題だすのやめてバニーちゃん」

いい歳をしてうっかり往来で赤くなってしまいそうになる頬を押さえつつ虎徹はわざとらしい咳払いをした。

「んで、本題だ。ずっと泉を覗き込んでる、あいつは身だしなみを気にしてるわけでも、泉に毒を仕込んでるわけでも、ついでに底に穴をあけてるわけでも何かを隠してるわけでもない」

「では、なにを?」

虎徹のきっぱりした否定に、基本的に好奇心の強いバーナビーが興味を示す。

まさかこんなところから見られているとは思っていないだろう男はまだひたすら髪をいじって泉をみていた。

それを横目に、虎徹はどんな説明をすれば解りやすいかな、と少し悩みつつ、そういえば元の世界の妻が絵本にしていたある話を思い出す。
ギリシャ神話などに子供が興味をもつようにと書かれたそれは、ナルキッソスの伝説を元にしたものだった。

「恋を知らなかったすごく綺麗な男が、ある日、初めて好みの人間に出会うんだ」

ある国に、とても美しい男がいた。

男の理想は天より高く、多くの求婚者がいるにもかかわらずまったくそれに応じなかった。

しかしある日男は恋をする。

けれどその手は自分に笑いかけてはくれるけどどうしても触れられない。

なぜならその相手は泉の中に住んでいて、声さえ届かなかったから。

それが我慢できなかった男はある日、意を決して口付けようとした。

だが相手に唇が触れる寸前、男は泉に落ちて死んじまう。

死の寸前、男は初めて知ったのだ、その一目惚れの相手が、実は水面に映った自分だったということに―――。

「てことで、自分の姿が大好きで、いつも鏡や水面に映して自分に見惚れる自意識過剰男のことを、『水面に恋をする』ってんだ」

「なるほど」

得心がいったらしいバーナビーが頷く。

「とういうことは、泉や鏡に映った姿にしか、あの男の目には興味深く見えないということですね。しかも恋によって判断を誤り命を落とすなんて、なんて愚かしく無能な」

「知らずに水面に恋をするナルシストだから、状況を判断できないような直情型なんだろ。まーけど、その自意識過剰自分大好き男、そう呆れたものでもないと俺は思うんだよな」

「は?」

「いやだって、すごく一途で自分が死ぬかもしれないのにそれでも相手を求めるような奴だぞ。言い方変えれば、ある意味、命がけの大恋愛をしたんだぜ。なんか憎めないってか、悪い奴じゃないんだと思う。水面に映った奴が、その男にとっては何よりも愛しくて大切だったんだよ」

「…なるほど」

「んじゃ、納得したところで、知らない男の観察は止めにして、そろそろ宮殿帰んねえ?最近お前さんのお忍びが多くてイワンがやきもきしてんだ。たまには早く戻って安心させてや………、………バニー?」

この呼びかけは、年下の夫がまたもや名も知らないナルシスト男を見ていたから、ではなかった。

シュテルンビルトの町並みに数多くある店、その中で比較的高級な商品を扱うその建物は殆どが石造りで、店の中を外にアピールするために硝子の窓を導入している。

泉の向かい側、今二人が立っている場所もまさしくそういった店の前で、とん、と、虎徹はバーナビーに片方の肩を勢いよく押された。

「うわっ!?」

油断していたせいで押された勢いに負けくるりと身体を反転させられ、硝子窓へと顔を向ける形になった。

「バニー?」

バーナビーの行動の意図が解らず、硝子に映る自分の、その背後に見える年下の夫を硝子越しに睨もうとして。

「――――――――」

ぴたりと、動きがとまる。

じっと、硝子に映る自分の顔を、みつめるバーナビーの視線に気づいたからだ。

「………?おーい、バーナビーさん?」

「…硝子に映しても『水面の恋』というのでしょうね」

「ああうん、…多分?」

「貴方は水面の恋をする男を好ましく思ったのでしょう?なら、いま硝子に映っている僕の姿も、貴方は好ましく思うべきだ。僕は貴方の夫なのだから」

「は?」

えーと、と、虎徹は、あまり回転のよくない頭を懸命に回転させた。

まず、水面の恋とはなんぞや、を説明した。

説明の内容は、『水面に映った人物が自分と気付かずに恋をして命を落とす、そんな人間もいるんだ』というもの。

ええと、それから、自分は言った。

水面に映った姿が自分ということも気付かないくらい、それを求めることで死が訪れるかもしれないことに思い至らないくらい一途な恋をする奴は好ましい、と。

そして、水面にうつるように硝子に映った姿のむこうで。

バーナビーは、虎徹に言う。

水面に映る己の姿に懸想して死んだ男を好ましいと言うのなら、鏡に映る夫もまた好ましいと言うべきだ、と。

それはつまり、水面に恋して果てた男などを好ましいと思わずに、自分の夫こそを好ましいと思うべきだと訴えられているということで。

「………、……………、………っ」

とくに深い意味もなく示してしまった『水面に恋する男』への好意にバーナビーが嫉妬したのだと、虎徹は遅まきながら気付いて赤面した。

「バ、バニ…」

「貴方が好意を示していい相手が誰であるか、貴方は解っていますよね。それは誰ですか?」

「あの…」

硝子越しに見つめてくる、一対の翡翠の瞳。

店の中の店員や客らは自分たちの対応に忙しく、窓の向こうの景色など気づいてもいない。

商売繁盛で結構なこった、と、現状からの現実逃避に頭の中で呟いてみたりなんかする。

しかし窓硝子を隔てたこちらの現実は何ら変わることは無く。

「ねえ虎徹さん。貴方が好きだと言う相手は誰ですか」

一回り以上も年下の青年から示された嫉妬に、虎徹が上手く返せなかったのは、言葉を出し惜しみしたいからではなかった。

耳に囁かれる真摯で甘やかすぎる声に、不覚にも腰がくだけそうになったからだ。

見つめてくる翡翠に、ますます頬や耳が赤くなる。

嫉妬をしてくれるのだ、だなんて考えただけで火照る頬なのに、これでは動揺が増して抵抗どころかまともな対応さえできはしない。

する、と背後から腰を抱かれて、陽に焼けた頬を長く白い指がゆるりと撫でる。

「虎徹さん」

答えなくてはいけない言葉を促されて、必死に、虎徹は口を開いた。

「………バニー、だよ」

溜まっていく熱で喉がふるえたりしないように祈る。

「俺が好きなのはバニーだけだよ。物語の中のあの男が水面を焦がれて見つめるよりももっと、俺は俺のバニーのことを求めて、愛してるよ」

だから。

「お前につまんないことで嫉妬されて馬鹿みたいに嬉しくなっちまうくらいに、愛してる」

そう告げれば、硝子の中の美しく凛々しい夫が、花がほころぶように微笑んだ。

いや、花というには雄々しすぎ、花よりもなお美しいのだけれど。

「虎徹さん、僕の愛しい人」

バーナビーがそう囁く。

「もしも貴方に口付けをして、あの水面に恋をした男のように果てたとしても、僕はきっと口付けたことへの後悔はしません」

「バニー」

「けれど貴方を残して逝くことには大きな後悔をするでしょうから、水面への口付けではなく、今ここで、貴方の唇に口付けを捧げてもいいですか?照れ屋で可愛い貴方は人の眼のある場所での睦みあいを拒むけれど、貴方が不安にした僕の心を、貴方が救ってください」

「……な」

これ以上ないくらいに顔が熱くなったと、虎徹は自覚した。

ちょっと涙さえ浮かんでいるかもしれない。

「…………な、な…、なんだその気障な言いまわし!なんだそれっ!!声もエロいしっ!綺麗なくせに男くさいしっ!やらしい顔しやがってっ!」

「ふふ、恥かしがる貴方は本当に最高に可愛らしい」

「やかましい!おっさんに可愛い言うな!!」

がうっと吼えてから、虎徹は、おずおずと首を巡らせた。

赤過ぎる顔を見せたくはなかったが、このまま、硝子ごしに見られていても同じだし、すくなくともバーナビーをむいてしまえば硝子のむこうにいる人たちがこちらをむいても顔を隠せる。

それから、恥かしいことはとっととすませてしまおうとばかりに口付けようとして。

「ああそうだ、虎徹さん」

寸前で、バーナビーから言葉が紡がれた。

「そういえばさっき、貴方、僕に尋ねましたよね、泉の周りにいる女性たちのどれが好みかと」

「えっ」

「貴方以外に妻を持たない、僕は依然そう貴方に宣誓したはずですが、どうやら信じてくれていなかったようですね」

「えっ」

「しかもきっと余計なことを考えたのでしょう?僕に話しかけてきた貴方は自覚はなかったでしょうがどこか泣きそうで」

「え」

「僕を信じず一人傷つく貴方に、僕がどれほど怒りを抱いたか、――――宮殿に戻れば、思い知らせてあげますね」

「え」

「僕に嫉妬までさせたお仕置もこめて、今日は心行くまで、僕達の正しい夫婦像をたっぷりじっくり、話会うことにしましょう。いいですね」

「………え…」

思いもしない展開に赤くなったり青くなったりする虎徹は、これから自分の身に訪れるだろうあれこれに、いっそ水面の向こうに逃げ出したくなった。

けれど。

硝子から引き離されて、キスをされて、抱きしめられて。

ああこれでは例え水面の向こうに逃げようとしても引きあげられて捕まえられる。

愛しいと思うあまりに想いに溺れて、―――本当は嫌なのに、やわらかい女たちの癒しをバーナビーに与えようとした。

物解りのいいふりで、バーナビーにちゃんとした女の妃や妾を勧めようとして、けれどそうすることへの苦しさに知らず溺れそうになり、けれど当のバーナビーに呼吸を与えられて苦しさがすっかり消える。

苦しいけれど苦しくないそれはまるで人工呼吸で、人命救助なら俺の専売特許なのになんでこいつにレスキューされてんの俺、だなんて小さく笑って。

自分よりも遥かに上手いバーナビーのキスに翻弄されて力が抜けて、座り込んでしまう前に店の壁に腰を押さえられまた深くキスをされる。

バーナビーの肩越しに僅かに見えた泉にはまだ男が水面を覗きこんでいて、幸せそうに頬んでいる。

あの物語と異なり『水面に映る自分に恋をしている』ことを自覚しているだろう男は、きっと本当に幸せなのに違いない。

なにせいつでも恋人に逢えて、加減さえすれば口付けも交わせるのだから。

けれど。

「……………でも、大好きな奴を抱きしめて大好きな奴に抱きしめられる俺のほうがもっとずっと幸せだけどな」

「何か言いましたか、虎徹さん?」

「いや、………うん。バニ、愛してる」

睦言のようにキスの合間に囁けば、もう一度強く抱きしめられまた深いキス。

…このまま機嫌よくなって、帰って抱き合うのはまあともかく、お仕置のことは忘れればいいな。

ちらりとそんなことを思った虎徹だったが。

機嫌がいいからこそそれはもう楽しそうに旦那様にお仕置されて、これからは馬鹿なことを考えません、夫の愛を疑いません、それから夫以外の男に好感を持ちませんと百回以上誓わされた虎徹が泣きながら許されたのは、翌日の夕方のことだった。



なお、シュテルン帝国第五皇子とその正妃の城下町での仲睦まじい様子が多数の人に目撃されたその数日間、シュテルンビルトの神殿では情熱的な夫婦にあてられた適齢期の男女がこぞって結婚報告に訪れた――――ということを後日知った虎徹は、暫くの間はずかしさのあまり城下町を出歩くことができず、やりすぎた夫に不機嫌にあたったりしたのだが、それとは対照的にバーナビーはどこまでも楽しげに妻の機嫌を取り続けたと言う。






水面の恋/了




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