■ハゲと煙草とキスの関係■

裏口の重い扉を開けると、ぶわっと熱気が顔を直撃した。もうそんな時期だということを一日中エアコンの効いたオフィスにいると忘れてしまう。
少々身体には堪える環境だけど、会社で許可されている場所はここ以外にない。
周囲に文句を言っても、返ってくる言葉は「嫌なら止めろ」の一択だ。

「ミトさん、お疲れさまー」
ため息を吐きながら後ろ手に扉を閉めると、先客から声がかかった。顔を確かめなくても誰だかわかる。
「お疲れ、いたんだ」
予想通り壁にもたれ掛っていたのは、6つ下の営業、葛城だった。

私の名前は「ミト」じゃなくて「三戸(さんのへ)」だ。
ニックネームが「ミト」になったのは、昔々、新入社員の時の読み間違えから。断じて昨今人気の女子アナからきているわけではない。今年入社の新人に勘違いされたのは地味にイラッとした。こちとらもう10年以上「ミト」って呼ばれてるんだぞ。
けれどそんなあだ名を使うのは親しい女性社員に限った話で、男性社員で口するのは葛城だけだった。

今にも火を点けようとしていたのだろう、口に煙草をくわえたまま薄く笑って見せる葛城とは、彼の入社以来仲良くしている。
といっても普段から飲みに行ったり食事に行ったり、なんてプライベートな付き合いをしているわけではない。

主にここ、喫煙所での話。

私が入社してすぐの頃は、皆当たり前のようにデスクの上に吸殻の山を作っていた。
それがまず会社の個人デスクから廊下のどん詰まりへと強制的に引っ越しを余儀なくされた。その時点でなんとなく嗜んでいたという連中の足は遠のいたように思う。
その後値段が上がるたびに同志は減っていき、それに伴って吸える場所もどんどん減らされていった。今や煙草を吸ってもいいのは来客用の応接室のみ。
当然だけどそこを利用できない私たちの居場所はなんと屋外。辛うじて小雨ならしのげる、裏口の庇の下だ。
まあ喫煙所といっても、灰皿が申し訳程度に置かれているだけというだけの場所なのだけれど。

健康増進法が施行されて早10年。受動喫煙防止という大義のもと、喫煙者の肩身は狭いどころか、今や存在しない扱いにまで追いやられている。
こちらとしても有害だという負い目があるのは間違いないので反論できないのも辛いところだ。
でもその分他の人よりも随分多く税金払ってるんだけどな。

夜の湿った空気がねっとりと身体に纏わりついてくるのに閉口しつつ、葛城と肩を並べて壁にもたれた。
地面を見れば僅かに濡れた跡が見て取れる。仕事に集中している間に通り雨でもあったのだろう。
道理で蒸すわけだ。
「あ、吸う前にこれつけた方がいいですよ」
言うなりこちらに向かって放られたのは、虫よけスプレーだった。
「準備いいわね」
「去年でっかい蚊に刺されてえらい目にあったんで。本当なら蚊取り線香炊きたいくらいです」
そういえば去年の夏、目の上を刺されてお岩さんみたいになっちゃって、あんまりにも見苦しいからって眼帯つけていたっけ。
昼間ならそこまで気にならないけれど、夜になると蛍光灯の明かりに引き寄せられてきた虫たちによって、ささやかな憩いのひと時はよく邪魔されてしまう。
夏の夜こうして追いやられた喫煙所に来るたびに「虫除け準備しておかなきゃ」と思うのだけれど、日が暮れてからここにお世話になるのは月に何日も無い。だからいつもころっと忘れてしまう。
ありがたく借りて半袖から覗く腕や首元、足に吹きかけた。喫煙所だからだろう、ちゃんと可燃ガス不使用のものだ。

金属音がして視線を向けると、葛城がオイルライターで煙草に火を点けていた。ふっと漂ってくるオイルの匂い、好き。だけど私のライターはコンビニで貰ったもの。なんかオイルライターって敷居が高い気がして中々手が出せない。
「ありがと」
「ん、もういいっすか?」
私が返した虫除けスプレーを煙草を咥えたまま受け取ると、葛城は人差し指と親指でつまんで一息に吸い込こむ。そしてぶふぅと勢いよく鼻から煙が噴き出された。
まるでコントみたいな吸い方。

「相変わらずじじむさい吸い方するね。もう少し気を付けたら?」
「周りに合わせてるとついこうなっちゃうんですよねぇ」
肩をすくめながら葛城が自分の頭をひと撫でしてみせる。普通ならそれは髪をかき上げる仕草になるのだろう。だけど手はつるりと何も引っかからずに滑っていく。
彼の頭はおでこからてっぺんまで見事に禿げあがっている。かろうじててっぺんから後頭部にかけては髪が残っているけれど、ずいぶん短く刈り上げてあった。まあ長ければ落ち武者になっちゃうから、短くする以外にないんだろう。バーコードはもっと悲惨だしね。

それに、と葛城は続ける。
「俺が今更格好つけても仕方ないでしょ?」
「恰好つけるとか以前の問題」
確かに葛城は実年齢よりうんと老けて見えるけどまだ20代のはず。
葛城は顔は整っている方で身長だって高いし、仕事ぶりは真面目で営業成績も上々、上司の覚えも目出度い社内の優良物件だ。それなのに彼の周囲で浮いた話を聞かないのは、ハゲているからというよりは葛城が三枚目として振る舞っているからだと思う。
だってその頭でスキンヘッドがトレードマークになっている有名歌手のモノマネうまいとかもう反則じゃん。会社の忘年会で披露された時はその完成度に全社員が笑い転げた。
その他にもプロレスラーのモノマネとか超上手いらしい。私はわからないけれど他社の忘年会にわざわざ招待されるくらいだからすごいんだろう。特に40~50代からのウケは抜群とのこと。
普段からオジサマ連中に囲まれてたら、そりゃ同化しちゃっても仕方ないかもしれないけれど。

「まだ若いんだからシャンとしなさいよ。ほっといても年は取るんだから、
 今からわざわざ老け込まなくていいでしょ」

実際に年取ってから慌てて若づくりしたってイタイだけだぞ、とは言わないでおく。
年長者が何を言ったって、どうせ実際にその年齢になってみなきゃわからないのだ。
私だって、そうだったし。
もしかして私の対応もまずかっただろうか。頭の毛云々よりも彼が気安く話しかけてくれるから、ついつい自分と同じくらいの年齢のような気がしちゃうだけなんだけど。

案の定葛城は「そうですね」と曖昧な笑顔を浮かべた。
きっと説教ウザいとか思われてんだろうな。まあ、いいけど。
会話が上手く途切れたのを幸いに、私も本来の目的を果たすべくポケットから取り出した煙草に火を点けた。
吸い込んだ煙を大きく吐き出すと、強張っていた肩からようやく力が抜けていく気がする。
美味い、そう感じることこそがニコチン中毒の典型的な症状だってことは理解している。
でも美味しいと思うもの、例えば砂糖と脂肪がたっぷりのお菓子やこってりした食事、そのどれも身体にはあんまりよくはない。それと同じだというのは暴論だろうか。

「そういえばミトさん聞きました?」
「何?」
灰を落としながら葛城が口を開いた。
「ここの灰皿も撤去するって話出てるらしいっすよ」
「なんで!?」
会社の敷地内で許可されている場所はもはやここしかないのに!
「ちゃんと始末しないで吸殻散らかした輩がいたらしくて。総務の子がカンカン」
「ああ……なるほど」

煙草の不始末ほど言い訳のできないものは無い。下手したら火事になってしまうのだから。
結局喫煙者を追い詰めるのは嫌煙家じゃなくて同じ喫煙者なのだ。いくら私や葛城がきちんとマナーを守り、押し付けられたルールに従っていても、それを破る人がひとりでもいたら、連帯責任。
「誰だよマジで……」
思わず頭を抱えてその場にへたり込んでしまう。
「しょうがないっすよ」
涼しい顔して肩を竦めた葛城の様子にカチンとくる。
「いいわよね営業(あんた)たちは。車の中で吸えばいいんだから」
内勤の人間がこの場所を失ったら、敷地の外に灰皿持参で出て吸うしかない。そんなのみっともないことしたくないよ!

「そろそろ潮時なのかしら……」
煙を吐きながらぼんやりと呟いた。
1箱千円になっても吸い続ける覚悟で喫煙を続けて来たけれど、吸える場所が無いなら強制的に終了じゃないか。食事後と終業後の一服が、社会人として本当にささやかな楽しみだったというのに。
わざとらしくがっくりと項垂れて見せると、葛城が小さく笑いながら言った。
「とか言って止めないでしょ?」
「まあね」
こうなったら近くのコンビニに行ってでも吸い続けるだろう。残念な自信だけは満々だ。そう簡単に止められるものなら、もうとっくに止めている。



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