ありがとうございました!


感謝SS



「しようよ。」「つけてよ。」のその後のふたり
中途半端に悠貴の誘いをかわし続けるりっちゃんの理由。








 艶やかで豊かな黒髪がふわりと目元にかかる。
 指先でまつ毛に触れそうなそれを横にながしてやると、悠貴はくすぐったそうに、嬉しそうに笑った。
 
 悠貴は、俺のすることを全部受け入れて、抵抗しない。
 あまりに無防備で、俺は時々めまいがしそうになる。
 

 母親は友人とコンサートに出かけ、雨の土曜日の午後は悠貴と二人きりだった。
 マンションの窓から見る空は灰色に濡れている。
 悠貴が最近気に入っている繊細な美貌の女優が出演している映画を一緒に見ていたけれど、抒情的に淡々と進む物語に悠貴はいつの間にか眠り込んでいた。悠貴の体温を感じて暖かかった肩に重みがかかり、フワフワの髪が俺の頬を撫でる。
 俺の肩に凭れてすやすやと寝息を立てている悠貴からは甘いようで爽やかな香りがした。悠貴の使うシャンプーの匂いだ。
 少し顔を悠貴の方に傾けて、悠貴の髪に鼻先を埋めた。

「しようよ」
 とはっきり言葉にして悠貴から誘われ、とても可愛い口づけをもらったのが数週間前。
 悠貴の痛いくらいにまっすぐに向けてくる透明な想いに、俺はいつもグラグラしている。
 悠貴が可愛くて、大切で、本当は今すぐにでも全部俺のものにしたい。
 留学で離れていた1年間は気が狂いそうになるほど悠貴が恋しかった。何度も寮の部屋で悠貴を想い、一人で自分を慰めた。
 達する瞬間はいつも脳裏に、「抱いてほしい」と懇願し、涙を見せた悠貴の姿がよぎった。
 悠貴が恋しいあまりに悠貴と似た髪質と似た背格好の女子学生や、たまに男子学生とも何度かデートをしてみた。けれど当然ながら悠貴とは違っていて、俺は結局誰にも手を出すことなく「リツは紳士だ」「日本人が紳士なんだ」「いや、リツは不能なんだ」と学校や寮の仲間たちから様々な言われ方をされていた。
 俺は紳士でもなければ不能でもなく、相手が悠貴じゃなければその気にならないだけだ。
 帰国してこうして悠貴と毎日を過ごしていると、感じる。
 悠貴がどれだけ俺を高ぶらせるのか。
 そしてその一方、悠貴の持つ透明さが眩しすぎて、俺は最後の一線を越えられずにいる。そんなのはすでに関係ないくらいに、散々悠貴の身体に触れているにも関わらず。
 悠貴の透明さは、俺が抱える全てをあっというまに粉砕してしまいそうで、俺は正直悠貴が怖い。
 悠貴のまっさらな未来の可能性を、俺といることで強引に特定の一つへと捻じ曲げてしまっていることが怖い。

 肩にかかる重みが増し、悠貴が本格的に寝てしまったのが分かったので、そっと悠貴の上体を抱きかかえるようにして頭を俺の太ももの上に載せた。寄りかかっているソファの上から、母が使っているミントグリーンのひざ掛けを取り上げて悠貴の身体の上にそっと広げる。
 夏とはいえ、雨の日は少し寒い。
 小さなころから抵抗力が弱く体調を崩しやすかった悠貴を見ていたからか、大人になりすっかり健康になっている今でも俺は悠貴の事が気になってしかたがない。
 周りの大人達が病弱な悠貴を心配して構うから、彼の兄はそれに反発するように悠貴をほったらかしにして一人で外に遊びにでかけ、どんどん強く逞しくなっていった。
 最初は兄の方とずっと一緒に遊んでいたけれど、外に飛び出していく兄を寂し気に半開きのドアの内側から見送る悠貴が気になって、いつしか俺は悠貴とばかり一緒にいるようになっていた。
 長いまつげに縁どられた黒目の大きな瞳がじっと俺を見上げ、「りっちゃん」と舌足らずに呼ぶ声がいつしか何よりも大切になっていて、俺は自分が悠貴の実の兄でないことが悔しくて、悠貴の兄に本気で嫉妬していたのだった。
 悠貴の柔らかい髪は緩やかなクセがあり、毛先がくるんと丸くカールする。俺の足の上で眠る悠貴の髪に指をからめて遊びながら、リモコンを操作し映画の音量を下げた。窓の外から遠く雨の音が聞こえる。俺の注意は当然ながら映画ではなく悠貴に向いていて、きれいに整った白い寝顔に見惚れていた。


 映画の終わりとともに目を覚ました悠貴はしばらくそのままぼんやりとしていた。寝起きの悠貴はことさら可愛くて、俺は悠貴が驚かないようにじっと目覚めてから動き出すまでを眺めている。
 なんどか目を閉じたり開いたりして、やがて頭を俺の足に載せたままで少し身体を動かして俺を見上げた。
「おはよう、悠貴」
 囁くと、少し瞳を細めてやがて照れたように微笑む。そのままもぞもぞと動くと俺の腹に顔を押し付け、腕を回して腰に抱きついてきた。
「りっちゃん………好き」
 女の子から告白されることは時々あるけれど、悠貴が俺に毎日のように何度もくれるまっすぐな「好き」を聞きなれていると、他の誰の「好き」もまるで響かない。
「好き、好き………おはよう」
 しばらくの間「好き」と繰り返し、やがて満足したのか「おはよう」に変わってゆっくりと身を起こした。
 驚くほど白い肌は、今までに見た誰よりもきれいで、触れたくなる。
 悠貴の頬を撫でて「紅茶飲む?」と問いかけると気持ちよさそうに目を細めて「うん」とうなずいた。けれど床の上に座ったまま、起ち上がろうとした俺にもう一度抱きついて離れない。
 俺は悠貴の背中に腕を回してそっと抱きしめた。
「悠貴、もう一回寝る? 今度はベッドに行く?」
 まだ眠いのかと顔を覗き込むと、悠貴は上目に俺を見た。頬がほんのりと薄桃色に色づく。
「……ベッド、行く……けど、眠いんじゃなくて、もっと、りっちゃんに触りたい」
 可愛くて可愛くて、いっそこのまま本当に抱いてしまおうかという考えが頭をよぎる。
 毎晩のように悠貴が俺のベッドを訪問するたびに、頭の中で葛藤している。
「行こうか」
 秀でた額にキスををして、腕を取って立たせるこの瞬間も。
 手をつないで俺の部屋へと移動するこの瞬間も。
 閉めたドアに念のため鍵をかけるこの瞬間も。
 俺は悠貴といる間じゅう、悠貴の可愛い誘惑と戦っている。

 まだ女の子とも付き合ったことがない悠貴を、本当に道ならぬ道に引きずり込んでいいのか。
 今ならまだ冗談で引き返せるんじゃないか。
 過ぎた兄弟愛だと言って逃げられるんじゃないか。
 いつか、悠貴に好きな女の子ができた時のために――
 いつか、子供が欲しいと考え始めた時のために―――

 悠貴の未来を邪魔するようなものは、一つでも少ないほうが良いに決まっている。

 ああ、どうして俺はあの時、悠貴に手を出してしまったんだろう。
 悠貴の身体に触れてしまったんだろう。
 悠貴に「りっちゃんに触られると気持ちいい」という認識を持たせてしまったんだろう。


 なのに、そんな俺の人知れぬ迷いと後悔と苦労を、悠貴はいつもあっさりと壊していく。
「ねえ、りっちゃん。…………今日は、してくれる?」
「……………まだ、だめだよ。悠貴が大人になったらね」
 なけなしの自制心でなんとかそう答え、決断を先延ばしにしている俺は、ずるい大人なんだろう。
 でも。
 だけど。
「じゃあ、りっちゃんのを僕がしてもいい?」
 天使のような小悪魔の甘い誘いを振り切るのは、本当に至難の業だ。
「だめだよ、悠貴。……ほら、おいで」
 悠貴に触れられたら、俺の自制心なんて簡単に壊れちゃうから。
 可愛い悠貴をなだめ、キスをして黙らせて、服の上から背中を撫でる。
 可愛い可愛い悠貴。
 お願いだから、今日はそれ以上誘惑するなよ。

 心の中で語り掛けながら、悠貴の身体を抱きしめた。

Fin





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