それは幸せなエピローグ
青く繁る木々や葉が窓の外に透けて映っていた。
レースのカーテン越しに、ラングランの午後の柔らかな光が差し込んでいる。身だしなみに気を遣うことを忘れてはいないのだろう。彼が常用している甘い麝香の香りが漂うベッドルーム。いつも通りのうららかな陽気の中、チカに呼び出されたマサキはシュウの許を訪れていた。
「お互い歳を取ったよなあ」
ベッドに横になっているシュウの細くなった腕を取りながらマサキは云った。
「あなたは相変わらず壮健そうですがね」
「云うなよ。あちこちに肉が付いたこと、これでも気にしてるんだ」
「いい歳の取り方をしていると思いますよ」
還暦を過ぎて、老いが隠せなくなってきた顔に深く刻み込まれた皺。白髪がそろそろ髪を覆い尽くそうとしている。自らの容姿の衰えを自覚しているマサキは、昔より大分太くなった自らの腕に浮かぶ肝斑をじっと見詰めた。シュウとは対照的な肌。歳月を経ても尚白いシュウの肌は、けれども昔と比べると弱々しさが目立つようになっていた。
「サフィーネたちはどうしたんだ」
「昨日、別れを済ませましたよ。随分と泣かれましたがね」
風がそこまで強くないからだ。鳥の囀りだけが響いている。
最後まで主人たるシュウに殉じるつもりでいただろう、サフィーネとモニカ。今尚独り身でいる彼女らをシュウがどう思っているのか、マサキはシュウの口から聞いたことはなかったが、感謝をしているのだけは確かだった。彼女らがいなければ、私は自由を手に入れることは出来なかった。いつだったか、そうとだけ口にしたシュウ。既に家庭をもって久しいテリウスを含めて、彼らはシュウに付き従い続けた。その選択をマサキは間違っているとは思わない。
「だろうなあ」
「とはいえ、いつかはしなければならないことですからね。ここまで延ばしたことを感謝して欲しいぐらいで」
「お前のそういうところは変わらないな」
「いずれ慣れるでしょう、私がいない生活にも」
過ぎた歳月の分、仲間としての絆を密にしていったに違いない。自らもまた仲間との絆を固めてきたマサキだからこそ理解が及ぶシュウの内心。理を説くときに饒舌になる彼は、肝心なところで口下手なままだったからこそ、いつまでも誤解ばかりをされていた。
マサキに対してもそうだ。
感謝の言葉を述べるのが苦手とみえる。有難うと口にされた回数など、両手で数えられるほどしかなかった。ましてや、愛していると聞いたのは数えるほどばかり。けれども、つれない男に恨み言を云うつもりはない。そうした男を選んだのは、マサキ自身であったのだから。
「彼女らにはもう充分時間を割きました。だから、最後ぐらいは自分が望む時間を過ごしてもいいでしょう」
「お前らしいよな、そういうところも」
シュウの頼りない気の残り火に、いよいよその時が近付いているのだと、顔を見た瞬間に悟ったマサキは、けれども悲しいというより、これでようやく――といった気持ちの方が強かった。
――やっと、現世でのしがらみから解放される。
一線を引いて久しかった。
魔装機神で世界各国を回った若かりし日々はとうに過ぎ去り、後進の育成に身を粉とする生活。飽きてはいなかったが、わずらわしい人間関係のしがらみは増えた。一時期はともに暮らしていたシュウの許からマサキが去ったのには、少なからずそうした事情も影響している。ラングランの剣術指南役として数多くの弟子を抱えるマサキの許には、ひっきりなしに彼らが訪れてきてしまったからこそ。
それは静かな生活を好むシュウには耐え難い生活だった。だからマサキはふたりの在り方を変えた。若かった頃のように、気紛れに、そして身体が空いたときにシュウを訪ねていこうと……。それが難しくなってしまったのは、マサキが他人の期待に期せずして応えてしまう人間だったからだ。
一線を引いたところで、魔装機神の操者であった事実は消えない。世界の存亡の危機に備える立場となったマサキは、自分が戦場に向かう立場から、如何に弟子たちを戦場で死なせないかに心を砕くようになっていった。足を遠のかせるつもりはなくとも、彼らに目を掛けた分だけシュウとの時間は減った。そこにマサキの慢心があった。シュウとの付き合いが永遠に渡るものであると確信していたマサキは、だからこそシュウとの時間を後回しにしてしまった。
そうした自分の行動に、マサキは多少ならず後悔をしていた。
歳を取り、お互いに隠遁生活を送る頃ともなれば、ふたりだけのゆっくりとした時間が取れる。そう信じ込んでいたマサキに良くない報せが届いたのは、今から三か月程前のこと。シュウの顔色が良くないことには気付いていたが、研究に熱が入ると不摂生になる男だ。いつものことと見過ごしてしまった。
シュウが自宅で倒れているのを発見したのは、サフィーネとモニカだった。
マサキとシュウの関係を知って尚、シュウに愛を捧げ続けたふたりの女性は、マサキが多忙にかまけて足を遠のかせていることを責めなかったが、シュウの様子がおかしいことに気付いていながら何もしなかったことは大いに責めた。いつまで自分たちが若いつもりでいるのです。モニカの言葉に、マサキは緩やかな時間の流れの中で少しずつ進んでいた自分たちの老いが、ついに牙を剥く年齢になったことを悟った。
けれども遅かった。
余命三か月。医師の宣告に泣き崩れたサフィーネとモニカに、マサキは宙を仰ぐことしか出来なかった。取るもの取らずに駆け付けたテリウスが口唇を噛んで俯く。その中で、シュウだけが冷静だった。そんな気はしていたのですよ。穏やかに云い切った彼は、その場で延命治療の一切を拒否すると宣言した。
「やりたいことは全てやり尽くしましたからね」
シュウの返事に目が覚める。はっとなったマサキは、彼の腕を掴んだ手に僅かに力を込めた。
「未練がまるでないような台詞を吐くな」
「頭の中に必要な知識は詰め込みましたからね。これで精霊界に行っても暫く退屈しませんよ」
「俺も直ぐに行く」
マサキはシュウの痩せぎすな手に頬を寄せた。いつまで経っても、当たり前の温もりにならなかった冷えた肌。それが今日に至っては、よりいっそう冷たく感じられる。
「ゆっくり来なさい、マサキ。私は独りの時間を楽しんでみたいのですよ」
「俺が邪魔みたいじゃないか、それだと」
「このぐらいの距離感が一番良かったのですよ、私とあなたにとっては」
シュウのその言葉が、多忙なマサキを慮ったものであったのか、自身の気質を述べたものであったのかは、マサキにはわからなかった。けれども、放っておけば、研究に励んでばかりだった男だ。本気でそう思っている可能性はあった。
一緒に住んでいる間もそうだった。気が付けば研究室に籠っているシュウに、マサキは何度控えろと云ったことか。節度を保って研究に勤しむ分にはいいのだ。けれども彼は、マサキはおろか、日常生活までもを蔑ろにしてしまう。
その結果であるのだ。
マサキはじっと、シュウの顔を凝視めた。
もう顔を動かすのですら難儀であるのだろう。動くことのない頭が枕に沈んでいる。
「――窓を開けてもらえますか、マサキ」
天井を見上げたまま、シュウが云った。
「ああ」
立ち上がったマサキはベッドを回り込んで窓側に向かった。レースのカーテンを細く開き、窓を半分ほど開けてやる。同時に、草木の香りを含んだラングランの空気が、涼やかな風となって寝室に吹き込んできた。
「ラングランらしい気持ちのいい風ですね」
「そうだな」
「この風を感じながら眠りたかったのですよ」
「涼し過ぎないか?」
「有難う、マサキ。大丈夫ですよ。暫く窓は開けておいてください」
口を開くのも弱った身体にとっては負担だったようだ。黙って瞼を閉じたシュウに、「水でも飲むか」と、マサキは声をかけた。
返事がない。
「寝たのか、シュウ」
やはり、返事がない。
全てを覚ったマサキは、ベッドの脇に跪いて、気の消え失せたシュウの手を取った。脈のない冷えた肌の温もりが物寂しい。
「ゆっくり行くよ。だから、待っていてくれよな、シュウ……」
マサキはもう開くことのないシュウの瞼に口付けた。
つい先程のことであるのに、シュウの身体からはもう柔らかみが失われつつあった。だが、それを辛いこととはマサキは思わなかった。
自由を望んだ男は、苦難に満ちた人生を送った。教団に目を付けられたのが運の尽きだったのだろう。生涯に渡って自由を求めて戦い続けたシュウ。彼にとって真の安らぎは、死ななければ得られなかったものであったのかも知れない。
マサキはゆっくりと自らの手を離した。そして、出来るだけ音を立てぬように立ち上がった。
最後に静かに逝くことを選んだシュウに、せめてもの手向けを。
そうっと寝室を出たマサキは、そこでようやく泣いた。後悔が後から後から湧き出てくる。あの時に病院に連れて行っていれば……いや、それより前に、ふたりでの生活を諦めていなければ……そうすればシュウは自ら死に向かうような真似をしなかったのではないか? けれども、暫く泣くと涙が潰えた。シュウ=シラカワという男が愛するマサキ=アンドーは、決して彼の為だけに生きるような男ではない。それはシュウを最も間近で見てきたマサキにだからこその確信めいた思いだった。
――だったら俺は天寿を全うしてやる。
事後の手続きは多岐に渡る。シュウが築き上げた巨額の資産をどうするのか。膨大な研究資料や論文をどう処分するのか。サフィーネやモニカ、テリウスにセニアと、マサキには話し合わねばならないことが山ほどあった。
――泣いてる暇はねえな。
マサキはちらとベッドルームに続く扉に目を遣った。少し待ってろよ。扉の向こうで永遠の眠りに就いた男にそう告げて、そして諸々の手続きをすべく、その為の一歩を踏み出した。
こんな話を書いておいてなんですが、個人的にはマサキの方が先に死にそうな気がしています。
なんとなく太く短くがマサキで、細く長くがシュウであって欲しいと申しますか。
あれだけの目に合ってそれでも生きている白河って、何だかんだで豪運の持ち主ですよね。
だから、という単純な理由でもあります。