忍


 声になった寝言に、水をかけられたように焦って目が覚めた。見覚えのある、天井のクロス。
鼻に馴染んだ寝室の匂い、ベッドのスプリング。
間違いない、自分のベッドだ。


「ん………」


 すぐ傍で、忍が寝返りを打つ。使い慣れたベッドなのに、久々とあって「寝付けない」と言って
いたのに、案外あっさり寝入っていた。でも、キングサイズの余裕のあるベッドなのに、ぴたりと身体
を寄せて。また、突然自分がいなくなってしまうのではないかと思っているんだろうか。また知らず
去ってしまわないようにと、恐れているんだろうか。

 怖いのは、自分。不安なのは、自分。これだけ勝手なことをして、忍を突き放して、それで病気が
治って戻ってきて、元のさやにおさまろうなんて、こんな都合のいい話があっただろうか。このつけは
必ずどこかで返ってくる、そんな気がしてならない。



「なんだよ、なんでここに来るんだ?あんた、引っ越したんだろ?」
「ああ、引っ越した。―――隣の部屋に」
「は?!」
「以前、お前が住んでた、隣の部屋に。あそこ、間取り狭いくせに家賃結構高くて、買い手も借りてもつかな
かっただろう、だから。お前、絶対に離れないって言ったから、多少強硬手段とらないと、俺が、決心つかなく
なりそうだったんだ」
「………それ、なしだろ――――ありえねぇ―――」
「悪い、本当に、悪かった」


 慣れた、駐車場から、部屋への道。エレベーターに乗って、5階で降りて、そして今までの部屋よりほんの
数10cmだけの差、僅かに形の違うカギ。そして、詰め込むだけ詰め込まれた家具と段ボールの山。懐かしい
匂い。本の匂いと、今では遠い記憶になった煙草の匂い、でも何よりも、懐かしくて、そして手放しがたい、
隣にいる忍の姿。


「もういい、あんたが、生きてるなら――――それでいい。今は」
「後になったら、あれこれやっぱ怒るのか?」
「その時はその時だ――――今は、とにかく、前の時間に、戻ろう」
「元の―――時間」


 戻れるだろうか、戻っていいのだろうか。俺が与えた分の苦い時間を、忍は清算してくれるというのだろうか。
何の条件もなしに?それを「はいそうですか」と締めてしまったら、俺は大人として、あまりに忍に対して
傲慢すぎやしないか。
 一生懸命努力して、大人になろうとして、俺に追いつこうとして、俺に相応しくあろうとしている忍に、俺は
相応しい大人でいられているんだろうか。


「忍」
「なに」
「怒って―――いいんだぞ。もっと、責めてくれていい」
「――――なんで」


 忍は軽く息を吐いて、でも呆れるのでもなく、ウンザリとするのでもなく、でも少し困った顔をして、段ボールを
開き始めている。本の整理は、忍の役割みたいになっていたけれど、どう並べてあったのかは正直自分の本なのに
あまり覚えていない。でも忍には記憶に残っているのか、どこの書架のものなのかを、区分けしているようだ。

「俺がもっとキレて、一発位、あんたを殴りにかかるとか、思ってたの」
「殴られても仕方はないと思ってたけど、罵倒くらいされると思ってた」
「浮気でもして逃避行してたんなら、そうするかも。でもあんたは、ちゃんと俺のことを考えててくれたし、俺を
大事にしてくれた。キレる必要なんてどこにもない」
「言いたいこと、本当は、もっとあっただろう?」


 俺の勝手から始まったことだ。真実を忍にきちんと話して、病気が直ったら戻ってくると、そういうやり方もあった
のに、余裕がなかった。頭の中が真っ白で、ただただ、忍を巻き込みたくなくて。

「言いたいことは、一つだけだ」
「何だ、言ってみろ」
「―――あんたが、好きなんだ、ただ、それだけなんだ」
「忍」
「しつけーよ、俺がいいって言ったら、それでいいだろ?ほら、さっさとあんたも働けよ。これじゃ、いつまで片づけ
かかんだよ」


 いつも特攻かけて、玉砕覚悟みたいな勢いで行動していた忍が、ほんの少しの間に、大人になろうとして、でも言った
自分の言葉に、やっぱり耳まで真っ赤にして、照れ隠しに態度を苛立たせて、でも、俯いた顔は、どこか泣き出しそうな
位に強張っていて。本を片づける手が止まってしまったので、自分も膝を落として、そして、忍を胸に抱え込んだ。
 細い指が、やはりしっかりと腕を掴んで、頬を摺り寄せてきて、耳元で、悲しいくらいの我儘を言ったのだ。


「もう二度と勝手に――――俺から逃げるな」


 
 朝目が覚めたら、またいなくなるのではないかと、不安に思うのだろうか。男二人が寝ても余裕のあるベッドの上で、
忍は決して離れようとせずに、身体が触れる位の距離を保つ。前はもう少し寝相は元気だったのに、また自分が、忍に
眠る間も何かを我慢させているのだと、自覚する。
 だから


 だから

 
 お前が「もうどこかへ行け」と言うまで。お前の傍にいよう。どんな時も、どんな場所でも。


 お前の傍に、いていいその日まで。



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