『月夜の猛獣』(紫龍・春麗)


 しっかりと錠のかけられた扉のまえで、紫龍は腕組みしてしかつめらしく言った。
 「春麗。今朝のことはきみが悪かったと理解したんだな?」
 「・・・・・・はい」
 やや間があって、扉の向こうからしおらしくうなだれた声がした。
 紫龍は、錠のあたりに視線を定めながら、さらに念を押すようにことばをつづける。
 「もうこれからは、軽率な行動に走らないと約束する気になったんだな?」
 「・・・はい、約束します」
 「・・・・・・」紫龍はひとつため息をついて扉に言った。「じゃあ、もう開けてくれ。きみが篭城する理由はなくなったんだ」

 その日の朝、紫龍は春麗と喧嘩をした。
 そんなことはめずらしくもないので、彼はそのまま、くさくさしながら用事で街に行ったのだが、すっかり日が落ちてからようやく帰宅したあげくに、自分が家から締め出されていたことが分かったのだ。

 喧嘩の原因は、大したことではなかった。
 決して大したことが原因ではないのに、ときに巨大な嵐を巻き起こすというのが、人間の感情なるものの妙ではある。だが、煽りを食ってしばしば家から閉め出される紫龍にとってはたまったものではない。
 それでも、紫龍にはいつも戦いのときに春麗に心配をかけているという負い目があったし、春麗に家出をされるほうがよっぽど彼の精神に悪いので、甘んじて締め出されているのではある。――が、そうかといって、この状況が楽しいわけでもうれしいわけでもない。
 畑仕事やら雑用やらさまざまではあるが、どんなことにせよ、紫龍が自分が家から閉め出されていると知らされるのは、たいていするべき仕事を終えていささかの疲労とともに帰ってきたときなので、腹立たしさと脱力感もひとしおだった。

 ともあれ――本日のことについては、すでに決着がついたらしい。
 ようやく家に入れるとほっとした紫龍は、足もとの地面に置いていた荷物を持ち上げると、扉が開かれて、春麗によっておずおずと屋内に通される瞬間を待った。
 ところが、事態はつねに思わぬ方向へ急展開する。さいぜん聞かされたしおらしい反省の弁にすっかり油断していた紫龍の横面を張りとばすように、その日は彼のために扉が開かれる代わりに、なかから三日ぐらいたった餅みたいな固い声がとんできたのだ!

 「いや・・・・・・!」

 「なんだって!?」紫龍は――彼にしてはそうあることではなかったが、思わず面食らってすっとんきょうな声をあげた。
 「わたしが悪かったのは分かったわ。だけど、いつもあなたの言うとおりで、なんだか悔しいんですもの。いまあなたの顔を見たら、また頭に血が上って、わたし、あなたにひどく噛みついて顔を引っかいてしまいそう・・・・・・!」
 「ちっとも反省していないじゃないか!」
 「反省しているわよ! あなたの言うように、かっとなって軽率な行動に走っちゃいけないから、気持ちを落ち着けるようにって、いまだってすごく努力しているわ!?」
 「・・・その努力が実るのはいったいいつになるんだ?!」
 彼の問いかけに、扉の向こうから、いささか自信なさげな声が返ってきた。

 「・・・お月様が沈むころには・・・・・・」

 「・・・・・・」
 彼は、自分の足元に濃く短くのびる影に視線を落とし、ついですぐさまようやく南中しかかっている満月を仰ぎ見て、思わず唖然とした。
 ドアを蹴破って屋内に入ったとしても、春麗に爪で引っかかれた顔では、さすがに村にも下りてゆけない。かといって、春麗というかわいらしく凶暴な猛獣を押さえつけるためには、聖闘士として鍛え上げた彼の力はまったくといっていいほど役に立たないのだ。あの細い腕は、それから繰り出される強烈な攻撃をやめさせるために、紫龍がちょっとでも不用意な力を入れたら、簡単に折れてしまうだろう。
 彼は、おのれの不甲斐なさをいまは亡き彼の師にわびた。
 同時に、彼女の養父であった師に、彼の子育ての方針について詮のない繰言を述べた。

 月はいまだ、中天を目指していやになるほどゆっくりと航行中だ。

 紫龍は、頭上にこうこうと照る満月から、それが沈むはずのはるか西方の稜線へと、ほとんど恨めしげな視線を移行させて、またひとつ深いため息をついた。脳裏には、子どものころに読んだ西洋のホラー小説の一遍が浮かんでいる。
 それは、満月とともにオオカミにすがたを変え、朝日とともに元にもどる男の話だった。
 (俺は長いこと、自分がいつオオカミになってしまうかと不安に思っていたが・・・・・・)彼はげんなりと考えた。(何のことはない。オオカミは彼女のほうじゃないか・・・・・・)

 しかも、月が沈んで彼女がやっかいな猛獣からいつもの彼女にもどったとしたら――紫龍はいよいよため息をついた。

 ・・・・・・それは春麗の努力ではなく、はたまた月の魔力でもなく、単に時間のながれだ。



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