真夜中、船に乗って(オフライン再録).1







 ――――ねー巻島……

 目線を足元におとし、くちびるを尖らせて言いづらそうに呟く。
朱に染まるほっそりとした首筋と、組み合わせた指先をひっかく桜色の爪のかたち。
ずっと、欲しいと思っていた、きれいで、かわいいもの。かわいいこころ。

目の前に差し出されたときにはいったいどういう気持ちになるだろうと、ずっとずっと、想像していた。
 いつだって、想像の中の、ことだった。




(東堂の告白)



 箱学自転車部には夏中休みなどないが、オレたち三年はもう部活に関しては、引退とまではいかないが自主練扱いになっていて、夏休みはかなり自由がきくんだ。
 インターハイの翌々日のことだった。
 夏休み前に彼女が出来た友人に頼まれ、その彼女の友人と四人で映画を観に行くことになった。
 待ち合わせ場所についてみると、なぜか二人はおらず、初対面の女の子が、ひとりで待っていた。
 チケットは買ってあったしもったいないからと了承しあって、とりあえず二人で観ることにした。
 まずそれがひとつめ。
 映画だけ観るつもりだったのだ。本当に。
 だが観終わって映画館を出たら昼過ぎで、寮に戻るにしても何か食べてからと思って、それは彼女もそうだったし、そうしたら じゃあ、一緒にって、言うだろう普通。友達の彼女の友達だし、なんというか、まあひとつの親切心だ。
 それがふたつめ。
 相手が断るかと期待したのだが甘かった。これはまあ、オレの、美形ゆえの罪だ。
 といってもファーストフードだぞ。当然割り勘だ。食べ終わって店を出たら、向かいが本屋の入っているビルで、彼女が寄って行きたい、と言った。そこで帰ればよかったのだろうが、オレも欲しい雑誌があったのを思い出してしまった。一緒にむかったら、まあ、結局、別れるタイミングを逃してしまったというわけだ。
 本屋は八階で、会計を済ませてエスカレーターを下りながら、目についたショップにフラフラ寄っているうちに喉が渇いたからと、中のカフェに入った。
 これがみっつめだ。
 よっつめは、もう、本当に不覚というか、まったく想定していなかったのだが、ビルを出て駅へむかう道すがら……あ、まだ夕方にはなっていなかったのだぞ、とにかくそのときにだな、まあ、つきあってほしいと、言われたのだ。そこでやっと友人にしてやられたことに気づいたというわけだ。こればっかりはオレの、不徳の致すところというやつだな。

……ごめん、巻ちゃん。





   1



 照り返しのまぶしさに目を眇めながら遠く沖の方へ視線を飛ばした。
 吹きつける潮風にあおられた髪がぱさぱさと頬をたたき、視界が波うつ。
 駅から歩く道すがら、自動販売機でジュースを買って、堤防を越えた。小さな海水浴場はそこそこ混みあっていて、大きな波音がたつときには甲高い歓声が響きわたる。
 巻島は踊る髪をおさえて眩しげに目を細め、もくもくと白い雲がたちのぼる水平線を眺める。
 視界の隅にはビーサンを履いた足が垂れ下がっている。砂浜に落ちる真っ黒な影。
 コン、とかたい音がした。
 横目に視線をあげる。黒髪のカチューシャ頭は力なくうなだれている。伏せた瞼の隙間に揺らぐ瞳はふるふるとわずかに水をたたえ、今にもこぼれ落ちそうだ。
 Tシャツの袖がパタパタと小さくはためく。
 また、コン、と音がした。膝の間に落とした手に握られたジュースの缶がコンクリートに触れる音だ。
「すまん。うまく言えんが、オレが軽率だったのだ。……いろいろと、どうも……覚悟が足りん」
 巻島はまず鼻からふうとやわらかく息を吐き、それからゆっくり口を開いた。
「覚悟とか……クハ、大袈裟ショ」
 東堂は一瞬黙って、笑うな、とぽつりと言った。固い声だった。巻島は黙って前をむいた。
白くあわだつ波打ち際から風に飛ばされてきた飛沫がぱらりと降りかかる。風はとても強い。カラフルなビキニ姿の女性が数人、 きゃあと悲鳴まじりの歓声をあげ、目の前を小走りで横切っていった。
 太陽を遮るものはなにもなかった。おかげで頬骨のあたりがちりちりと痛み始めている。目にうつるものはどれも輪郭が際立ち、鋭角で、鮮明だった。
 見えすぎるというのも善し悪しだ、と巻島は思った。もっと、水で流したように境界があいまいに混ざり合っているような景色だったらいいのに。おかげでなんだか目が痛む。
「バカかよ……」
「なにがだ」
「……まァ、いいショ。わかった。もういい、この話は」
「いや巻ちゃん、わかってないだろう?」
「わかる気なんかねえよ」
 東堂の背中がぴくんと緊張するのを目の端に見て、巻島はやれやれと溜め息をついた。つくづく不器用だし言葉がうまくない。
 左手を髪に突っ込んでばりばりとかきまわす。
 だって、どう言えっていうんだ。何を期待してそんなことをいちいち告げてくるんだ。オレに何を期待してんだ。お前はオレの、なんだ。
 頭の中に渦巻く幾通りもの言葉を、そのままぶつけるのはすこし怖い。
 ひとりでいた頃はよかった。伝わらないもどかしさに憤ったなら、伝えない、という選択肢があった。ひとりでいることを選び さえすれば問題は消えた。人との軋轢に悩むより少しの孤独に耐えることの方が巻島には断然楽だった。
 けれど、だめだ。東堂にだけは、出来ない。
 だからといって、いいよ気にすんなオレも気にしねえ、という、おそらく東堂が期待している言葉をあっさり告げてやれるような達観は、体の中をいくら探しても見つからない。
「あー……」
 巻島はわずかに顎を上げて空を見た。空は、ふたりの隙間にうっすらとたゆたう重ったるい空気をあざ笑うかのようにつきぬけて青く、海は青緑とも灰ともつかぬ微妙な色合いで遠く彼方まで広がっている。
「巻ちゃん……」
「……なんだヨ」
 沖へと目をやる。真夏の水平線の、鮮やかな青。海上をすべる風。波に反射して生まれる太陽の礫が目に突き刺さるように眩しい光を投げかける。
 すん、と鼻をすする音がし、同時に指先にくすぐったいものが触れた。ふだんはブラケットを握る、シフターを操る、東堂のそのかたい指先が、巻島の指にかすかに触れている。握りはしない。労わるようなそぶりで許しを請うように。譲歩を引き出す手管のひとつとして、触れさせている。
 強く握り返したい衝動を胸に燻らせながら、巻島は応えず、そっと視線を泳がせた。
(卑怯……ショ)
 そろそろ行かんか、と、東堂が小さく、震える声で言った。


 途中でスーパーに寄って、今晩と翌朝の食料を買い込んだ。
 目指す先は岬から少し離れたところに建つ一軒家だ。巻島家が夏に海を楽しむ目的で使っている別荘だった。
周囲には民家も宿泊施設もない。一番近いコンビニへも徒歩で十分はかかる。沖からは、夜になればぽつんと小さな明かりがひとつだけ灯るのを見つけることが出来るだろう。
 インターハイが終わったらゆっくり会おうとずっと前から決めていた。海にしたのは、どちらかが強く主張してのことではない。なんとなくだ。東堂は自分の実家近くの海を提案したが、巻島が千葉へ呼んだ。
 別荘といえば大層に聞こえるが、亡くなった巻島の祖父が晩年に住んでいた家だ。少し古いが掃除はゆきとどいているし、地元はやや遠く、知った顔に会わずに済むというのも気楽だ。ゆっくり会うときには、とずっと頭の中にあった場所だった。
 海沿いの一本道に歩道はなく、通り過ぎる車が押しのける熱風をもろにうける。
 海岸を離れてずっと、東堂は言葉少なだ。ときどき目にしたものについて話しかけてき、それに巻島が二言三言答えると、すぐに会話は途切れる。巻島から話題を振ることはもともと少ない。
 買い物袋をガサガサいわせながら玄関のドアをくぐると、食材を冷蔵庫へしまうのは東堂にまかせ、巻島はまっすぐにリビングへ向かった。エアコンのスイッチを入れ、設定温度を一気に下げる。
 ふわっとかすかに音がして、送風口がゆっくりと開く。窓をからりと開けて、すこし風を入れるとすぐに閉めた。外は太陽の反射がきらめく青が眩しく、目を開けていられないほどだ。

――――ねー巻島、今度さ……、

 かげろうのように目の前に浮かび上がった光景は、一瞬のうちに海に溶けた。
 同時に、背後から手が伸びて腹に巻きつき、外気の熱をまとったままの体温がぴたりとくっついてくる。
「おい」
 背後の東堂は答えず、まわした腕に力をこめる。そして巻島のうなじに額を押し付け、熱い息を吐く。
 背中がぞくぞくと震えた。
「熱ィだろ」
「ん」
「くすぐってえ」
「……うん、巻ちゃん……」
 ふうふうと荒くなる息づかいを聞いているうちに、巻島の体温も上がってくる。エアコンからは冷たい空気が流れ始めていたが、室温は上がる一方のようで、噴出した汗がこめかみを伝った。
「ちょ……、離せ。離れろ」
 異を唱えるかわりに、東堂はさらに巻島の体を強くかき抱き、うなじに唇をおしあてる。
「東堂ォ……」
 東堂は脇腹を撫でていた手をTシャツの裾からそっと差し入れ、汗でぬめる肌にぺたりと貼りつかせる。その手を巻島は服の上から押さえつけたが、東堂は手を緩めず、じりじりとおろしていってジーンズの上から巻島のそこを覆い、指先に強弱をつけてゆるやかな刺激を送る。
 巻島は息をのみ、前歯を噛みしめ、手首を強く握って引き剥がした。肩をいからせながら振り返る。
 飛び込んできた東堂の表情に、目を疑った。
「と……」
「巻ちゃん……ごめん」
 くしゃっと顔を歪め、唇をきっぱりと引き結ぶと、涙をこらえる顔つきでうつむいて、歯を食いしばりながら言う。
「……巻ちゃん」
 そんな顔をさせたいわけじゃなかった。めったに会えない距離を越えて得られた貴重な時間を、こんなやりとりで消費するなんて、巻島だってまったく望んじゃいない。
 巻島はわずかに背を屈めると、俯いたその顔を救い上げるようにくちびるを合わせた。東堂がかすかに応えたので、笑うように唇を開いて受け入れた。そうしたら、不思議と胸につっかえていた重石のような感情が溶けだしていった。こういうのをキスの魔法だとかいうんだろうか。錯覚だろうがいっそありがたい。
 この日をずっと待っていた。
 二人で体をぶつけ合って山を駆け上がったあの日と同じくらい。
 謝るとか許すとか、そんな関係を欲しているわけじゃない。ただこうしてくっついているのがいい。それだけだ。欲しいのは。
 東堂の手が肩におかれ、するりと、巻島のほっそりと固い腕を撫でるようにくだっていく。
 ぺちゃぺちゃと口の中を舐めあっているうちに、心も体もゆるんで、いろんなものが解けていく。
言葉なんかいらなかった。巻島も東堂も、ずっと、そんなものはいらないと思いながら、二人で走ってきたのだった。



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