※これだけばさらじゃない
※drrr。
※静帝だったり帝杏だったり娘だったり女子中学生だったりラジバンダリ。

私、小さいころからちゃんと知ってた。
私が女だってこと。
私がパパとママの子供だってこと。
太陽も月も結局は星だってこと。
恋をすれば傷つくこと。

つまり、尾を振る犬ほど打たれるってことなんでしょ?


美香ちゃん、って私はママの友達をちゃんづけで呼ばなきゃいけない。
お ばさんって言葉は美香ちゃんにはまだ向けられるべきじゃない言葉で、でもおじさんのことは誠二さんって呼んじゃいけなくて、絶対絶対ぜえったい、おじさ んって呼ばなきゃいけない。さもないとスコップよ、って私のほおをつまんでにこって笑った美香ちゃんの爪はきらっきらのラメラメで、私のほっぺたにほんの り食い込んで痛かった。
水曜日はお迎えが美香ちゃんの日で、ママが走って帰ってくる日。ただいま、ってドアを開けて、髪の毛をほっぺたにはりつか せて、ごめんねごめんね今週も遅くなっちゃったねって私の事ぎゅってして、ご飯にしましょう、ってちょっと疲れた顔で笑う日。テレビを見ながらご飯とか、 わがまま言っても許される日。パパが私が寝るのに間に合わない日。
その翌日が、木曜日。

「しずおにいちゃん」
「おう」
しずおにいちゃんは男の人なのにりぼんつけてる、パパの知り合い。金色の髪で、サングラス掛けてる。ゆり組のみんなもばら組の子もひまわり組の子もみんなしずおにいちゃんの事怖がってるから、しずおにいちゃんに走ってって飛びつくのは私だけ。
「おそいよ」
「悪ィ悪ィ」
しずおにいちゃんは私の頭を撫でる。私はしずおにいちゃんの指を捕まえる。しずおにいちゃんの指は長いから、私の掌で掴むと指がはみ出てウインナーロールみたい。
「かえろ」
私 はしずおにいちゃんの指を握ったまま腕をぶんぶん振る。しずおにいちゃんははいはい、って笑って立ち上がる。トトロの映画の夜にわっと伸びる植物みたい に、一気に遠くなったしずおにいちゃんの顔を見上げて私はねえ、って声を上げる。ばかげたピンク色をした格子縞のスモックの裾をつまみながら。
「わたし、女の子なんかに生まれなければよかったわ」

なんて夢を見て朝起きたら胃もたれでした。

昨 日の餃子だ。確信しながら布団の中で寝がえりを打つ。溜息ついたら口の中臭いしあーやんなっちゃうやんなっちゃう。朝からテンションだだ下がり。しかも今 日とか日直で、もーほんと二度寝したい、けどもう一回寝がえりをうってもぞりと起き上がる。くっさい息のあくびをする。
「あーあ、やんなっちゃう」
口に出したらますます気分がくさくさした。

幼 稚園の頃、静雄さんの髪を引っ張っても癇癪をぶつけても理不尽な事を言って困らせても静雄さんはなんでも笑って許してくれた。他の子にするみたいにある程 度までは我慢しても最終的には睨んだり立ち上がって振り落としたり、そういう拒絶は私に対してだけは向けられなかった。さくら組にもちゅーりっぷ組にも、 年長さんにも年中さんにも年少さんにも、私ほど静雄さんに許される子はいなかった。公然と特別扱いされて、私は有頂天で静雄さんにまとわりついて暴虐の限 りを尽くした。手を引いて土手に連れ出して泥まみれにしたり草の汁をなすりつけて笑ったり、山ブドウを潰して回ったり、私の手が静雄さんを離すことはな かった。離れる事を許したことはなかった。
静雄さんを所有物として暴れまわって小学校を経て、中学校に上がった。
友達がいくら出来たって、私が静雄さんを離すはずもなかった。
誰だってそうだと思う。だって、暴君でいられる世界を手離せる子供がいる?私は我儘を許して欲しいなんて大人だって口にする率直な欲望の奴隷だったし、静雄さんはそんな欲望を当然の顔でかなえてくれる私の奴隷だった。
私が幼稚さを捨てた今でもそれは同じ事で、どんな暴言でも許されるのも依然として変わらない。
私は静雄さんに何をしてもいい。
静雄さんなら絶対に許してくれる。
たまに常識って建前で私を叱るけど、怒ってないのなんかまるわかり。
私は女の子だから。
パパとママの子供だから。

ってなわけで迎えに来てほしいな、と昼休みに電話。
「五時間目は数学だから貧血をおこしちゃうと思うの、きっと。」
電波の向こう側で静雄さんは苦笑。だけど甘いもの好きだから、付き合ってくれる。これは確信。
「だけどミルキーウェイでパフェ食べたら治ると思うのよね」
屋上は風が強い。ベルトでひざより5cm上に上げたスカートがばんばんはためく。誰もいないから特に押さえないで、ぱんつ丸見えのまま静雄さんに声を張り上げる。
「だから、ね、2時に校門で、待ってる」
耳元で風がびゅうびゅう唸ってうるさかった。静雄さんの返事を掻き消したがってるかのように。

屋上の重たい扉を閉めたら静寂。友達が固まってる階段を見下ろして私は乱れた髪を手櫛で梳いて耳にかける。
「あ、ねえなっちのシュシュさー、すっごいかーわいいよね」
振りかえって私を見上げた友達がそう思うよね、と歯を見せて笑う。
「うん、私もそう思ってた。……どこで買ったのか知りたいな」
歯が浮く。誰がお菓子柄のシュシュなんか欲しがるもんか。ストライプのシュシュで髪をまとめながら私は階段を下りる。スカートの下の下着はみんな、見られることが前提だ。

さんざん迷って選んだパフェはおいしい砂糖と脂肪の味がした。一時間をかけてたいらげ終わった頃には、交差点を同じ制服が群れをなして歩いてく。
誰か知りあいいないかなって見てたらぽろりとこないだの金曜ロードショー見てた時にふ、と思いついた事が口からこぼれ出た。
「船が沈んだら」
「え?」
静雄さんは煙草を我慢してる。私がいるから。反射でたずね返す声がそわそわしてる。明らかなやに切れの症状。
だけどそんなの私の知ったことじゃない。
「……静雄さんと一緒にタイタニックに乗ってても私は女で子供だから一番先にボートに乗せられるのよ。……ママもそうね、女の人だから私の後にボートに押し込まれるわね。」
むちゃくちゃにやさしくしたいのに無闇に凶暴になる自分を私は持て余す。
「タイプライターはもちこまない方がいいけど私は欲しいわ。……見た?ヒッチコック。」
映 画なんて静雄さんが我慢できないの知ってて口にした。私と一緒に見たディズニーアニメだって胡坐かいた上に私乗せて大人しくできてたのは最初の30分だ け。あとは飲み物だお菓子だなんだって私のためって名目付けてあっちこっちうろうろして、膝の上がいいのって我儘言ってもそわそわして貧乏ゆすり。とても 見られたもんじゃなかった。
パパとママは最初はにやにや、最後は笑い出しながら私たちを見てたけど、2人が笑ってても静雄さんは情けない顔してたから私は不満だった。いつもなら私と静雄さんがじゃれてるの見てパパとママが笑ってたら幸せになれるのに。って、不機嫌な自分にも腹を立ててた。
そういう事は今でもある。黙って首を振った静雄さんの目が窓の外に向いて、私はとっさに静雄さんの足を蹴り飛ばしたくなる。思いとどまった後でめっちゃくちゃに、金切り声をあげたいくらい苛つくのだってよくあること。
「見てないの……パパ好きなのに。私は嫌いだけど。」
だから私は意地悪を言う。意地悪を言って、こっちを向いた、って笑う。
「……何言いたいかわかんないって顔してる。」
眼下の交差点で信号が赤に変わる。
汚れたパフェの容器をウェイトレスさんが片付けていく。静雄さんが軽く頭を下げる。
水を一口飲んで、私は口を開く。
「みんなで一緒に船に乗っててその船が沈んだら、私とママは絶対先にボートに乗せられて、パパと静雄さんは後回しで取り残されるのよって」
車道の信号が青になって、トラックが走りだす。乗用車がそれに続く。
「なんでもないわ、それだけよ。」
氷の溶けた水は甘味に染められてた口の中を通り抜けてまろやかにぬるく喉を滑り落ちていく。
テーブルの上にぽつんと取り残されたスプーンにこびりついた生クリームの残骸を見下ろして、私は目元だけをほころばせて笑う。

「地盤沈下と液状化の違いみたいなもんだわ。」
言葉を切る。顔を上げたら静雄さんは、サングラスの奥からまじまじと私を眺めていた。
不意に居心地が悪くなってやっぱりなんでもないわ、と早口で言って私は足もとの鞄の紐をひっつかむ。
立ち上がったら椅子がガタンと音を立てて、まるで蹴立てて立ったみたいになった。視線が一瞬私に集まってすぐに散る。
「学校終わったころだし友達に会いに行く」
「あ、おい」
「パフェのお金はパパにもらって」
腰を浮かしかけた静雄さんを制して踵を返す。階段を駆け下りながらHARUTAのローファーは床に叩きつけるととても小気味いい音を立てるから好きだと思った。規則正しい私の足音を、静雄さんの合皮の革靴は追いかけてこない。
そりゃそうだ。追っかけたって何も出ないもの。
地下鉄の通路まで駆け込んで、肺の底に残った空気を思いっきり吐き出して肩を下げる。
握りしめた携帯にメールが一通。
知らないよ、ひとり言と一緒に涙がにじんだ。
どうせ迷惑メールだ。思って開いて、その通りだったのにどうしてか携帯を地面に叩きつけたくなる。どうせ私の力じゃ望むように粉々にもなりはしないのに。
齧りつくようにしてメールを打った。合流した友達と一緒にピンク地にマフィンだのなんだの、お菓子柄の散ったシュシュを買って髪を結わえた。何もかも次々に爆撃されて壊れちゃえばいいって思うぐらいむしゃくしゃしてた。

帰ったら髪の短い母親にシュシュが可愛いと褒められて苦い塊が喉の奥にせりあがる。出来かけの晩御飯はハンバーグ。オムライスに並ぶママの得意料理。
パパは晩御飯の時間ぎりぎりに帰ってきて間に合ったって笑う。静雄さんは1人で晩御飯だ。きっと。ファーストフードを1人で食べるんだ。
じゅっと肉汁の染みでるハンバーグを噛みながらざまぁ見ろと思う自分と今すぐ泣きだしたい自分がいて目の前の両親の会話も晩御飯の献立も遠のく。機械的に白米を口に運んで、無意識に何度も噛んで不意に噛み締めたでんぷんが甘くなってる事に気がついて吐き気がした。
両親は目の前で笑っている。睨んだらどうしたの、と驚いた顔。善良な2人。普通の2人。なんでもないよと吐き捨てて御馳走さまと箸を置く。
食器を流し台においてシンクに手をついて覗き込めば、髪の毛がカーテンになって周りを遮断する。
涙が出そうで出なくって、何がつらいのか分からない。
とにかく、この世から消えてなくなりたい。

乾いたネガティブに耐えきれなくなって、まだ食事してた両親に気分悪いから横になると告げて2階に登る。
携帯を開けて短縮一番。コール音を聞きながら自分の部屋のベランダに出る。どうした、と低い声。
「ねえ静雄さん」
晩 御飯は何を食べたの、とは怖くて尋ねられなかった。下の階からTVの賑やかな音が耳に飛び込んできて慌てて室内に戻る。無神経!両親は何も事情を知らない のに、舌打ちをするほど罵りたくなる。電話口で静雄さんは沈黙している。かなしいほどの沈黙。私はてんぱった挙句余計なことを口走る。あのね、今日の液状 化の事なんだけど
「原理もなんもかんも違うけど、飲みこまれる人間にとっては足もとがすっかり変わっちゃう事以外の違いなんて……静雄さん?」
たっぷりの沈黙。
「……帝人、そこにいるのか」
「ううん。パパは一階だよ……多分、TV見てる。」
「そうか」
低く、笑う声。やっと一粒だけ出てきた涙がほっぺたを伝う。
「ごめん」
素っ頓狂に謝っていた。
「ごめん、ごめん静雄さん。切るね」
親指一本で繋がりを切って、私はしばらく立ち尽くしてた。ママにどうしてもってねだって買ってもらったジェラートピケの部屋着に包まれた背中が冷えていく。
甘やかされた娘でいたかった。ずっと。溺愛されて伸びやかに我儘を言って、叶えてもらった上に頭を撫でてもらって笑うような娘で、ってずっと思っていたし今までずっとそうだった。そうだって知ってた。
知ってたけど私、どこで落としてきちゃったんだろう。
恋をするには娘じゃだめだって知っていたのに、どこで取りこぼしてきちゃったんだろう。
ここまで。

窓をぴしゃっと閉めて携帯をベッドに叩きつけて1人で泣いた。パパとママは寝る直前まで私のところに来なかった。
今日のMステには私の好きなアイドルグループが出るって朝から楽しみにしてたのに。
窓を近所に響くくらいぴしゃって閉めたのに。
それが悔しくってまた泣いた。全世界に見捨てられた気がして。
10 時過ぎ、ママの控えめなノックの後でパパがおやすみの声をかける。目覚ましちゃんとかけるのよ、ってママの声。うん、って反射的に眠そうな声を装って返事 をして、顔の形にへこんだ掛け布団に頭を預ける。床は私の足のせいであったまってしまった。ベッドに突っ伏して泣くって様式美に憧れたけど意外と首が疲れ るものだわ、考えていたらあくびが出た。眠たい自分に気が抜けた笑いがこみ上げる。
そうよ、その程度のものなのよ。
自分を罵って立ち上がる。開けた窓の外、夜中の住宅地はひたすらに静かだ。まだ明かりのついている窓に勝手な親和を抱いてベランダに素足で出る。冷たさが痛いぐらい。
溜息をついたところでもう春の初め、白く目に見えて濁るはずもなかった。煙草を吸ってる時の静雄さんを思い出す。
煙は私の体に悪いからって、遠目からしか見たことない仕草。子供の頃、居間で何度もガラス戸越しに見た景色。
パパがライターをつけてあげる。静雄さんが顔を寄せて紙巻きたばこの先を炙る。
うまそうに最初の一口を吸って吐いて、ベランダで肩寄せて談笑する2人に私は割り込めない。
悔しくって、私をだっこしてるママにぎゅうって抱きつく。ママは笑いながら私の頭を撫でてくれる。
優しい手つきで、何度も。

あそこにはママだって割り込めなかった。

「ねえ、静雄さん」
屋上は今日も風が強い。チャイムがいかにも伸びやかに響き渡る。五月の抜けるような青空。夏みたいな日差し。
「今日、家に行っていい?」
昼休みが終わるよと重たい扉を全身を使って押し開けた友達が声を張り上げる。
「いいよね」
返事を聞かずに携帯を切った。鳴動すればすぐわかるようスカートのポケットに携帯を滑り込ませながら振り向いて、ごめんごめんと笑って扉にかけよる。
スカートのポケットに入れた携帯は放課後まで一度も震えなかった。

腹 が立つことに静雄さんの家には鍵がかかってて、しょうがなくて廊下に座り込みを決行。プリーツを崩さないように気をつけて鞄の上に腰かける。暇つぶしに メールしながら、ママに遅くなるわ、って電話。当然、心配するから、静雄さんと待ち合わせてるから大丈夫、ってわざとらしく笑って、何が大丈夫なんだか。 自分でも突っ込み入れたくなるのにママはあっさり、だったら安心だわって電話越しにも分かるふんわりした笑み。
いいの、ママ。
年頃の娘なんだよ。
もう生理も来ちゃってて、胸だってBカップあるんだよ。
下着洗ってるんだから、わかるでしょ。
他人なのに、どうして憂いなんて一つもないわって声で笑うの。
静雄さんと2人っきりになるよって言ってるのに、なんでそんなに安心した声出せるの。
全部押し殺して帰るときにまたメールする、って言って電話を切った。廊下から見上げる空は夕暮れ。
カラスでも、飛べばいいのに。言いたくなるぐらい金色でバラ色で輝いてて絢爛豪華。
「……遅いわ」
靴音。夕焼けを見上げたまま声を出す。見なくったってわかってる。それぐらいわかる。
「行くわよって言ったのに」
「杏里から電話があった」
「ママから?」
首をねじって静雄さんを見る。見上げる姿勢は変わらない。サングラスの内側は窺えない。
「そう……それで、パパからじゃなくてがっかりしたの」
立ち上がる。スカートからついてもいない埃を払う。背中を曲げてハイソックスを直す。
顔を上げて、静雄さんを見据えた。
「家に、入れてよ。……待ちくたびれて冷えちゃった」
「お前、」
「こういうとこ、パパにそっくりでしょ?よく言われるわ。美香ちゃんとか、正臣おじさんとかに。」
多分、言いたかった事を先回り。口を閉じたとこを見ると正解。表面上は虚勢を張って睨みつけながら内心安堵する。
一度でも外したら逃げられる。何言ってんだ、まだまだ子供だなって頭を撫でらるかほっぺたを軽くつねられてゲームオーバーだ。からっからの口の中から唾を絞り出して飲み込む。
「……入れてよ」
膠着状態に駄目押し。むっつり黙りこんだ静雄さんがポケットから鍵を出して鍵穴に突っ込んだ。パパが車のカギにつけてるのと同じキャラクターのキーホルダーが付いた鍵。鼓動が速くなってうるさくなる。指先が震えた。

静雄さん家のソファーはふかふかしてる。だけど今日は座らないで、キッチンに背中を向けて静雄さんにさんざん枕にされた形跡が明らかなクッションを見下ろす。思ってる事を決行しようと、思うのにまだ、踏ん切りがつかない。
沈黙に耐えきれずに口を開く。
「ママは電話で心配してた?」
「杏里が?」
鼻で笑う声。私は決心する。踵を返す。
「……ねえ、うちの学校の制服って男の人に人気があるのよ。」
台所で静雄さんはインスタントのコーヒーにお湯を注いでる。
「何でか知ってる?」
知らねえな、と短い返事。
「セーラーのくせに前開きでチャックだから」
私は真後ろに立って逃げ道をふさぐ。スカーフの下に隠されてるファスナーの金具を親指と人差し指でつまむ。
振りかえった静雄さんの手からマグカップが落ちる。足にかかったコーヒーが熱い。けど私はそんな事には構わない。
ファスナーを思いっきり引き下ろした。学校でキャミソールを脱いできたから花柄の刺繍のブラが丸見えになる。
「馬鹿野郎!」
静雄さんが叫ぶ。恐怖に凝った顔。
「ママは心配しないわよね!だって静雄さんが私に手ェ出すなんてありえないもん!」
「お前、なに、今すぐ着ろ!」
「着せたいなら自分の手ですれば!?」
あらん限りの声でがなったら喉の奥が痛んだ。咳き込む私の背中に静雄さんは触ってこない。
「なによ」
いたたまれなくて胸元をつかんだ。寄せて上げるブラの谷間がやけにすうすうした。
「すきだっていったくせに」
口に出したら怒りが押し寄せてきた。
「なによ!パパの事すきだから私の事大事にするんでしょ好きなんでしょ!!」
顔をあげて噛みつく勢いで投げつける。言葉を。声を嗄らして叫びたてる。
だってずるい、こんなのひどい、なによなによなによ、私なんて、私なんてなによ、憤慨とみじめさと大事にされたい気持ちがないまぜになって洗濯機に突っ込まれた気持ち。ぐるぐる振り回されて溺れそうで絶叫したくなる。
「パパの代わりにすればいいじゃない!今までずっと私の事使ってきたくせに!!」
地団太を踏んだ足がまだ熱いコーヒーの海を踏みつける。ハイソックスに液体がしみ込んでじゅくじゅくになる不快感がまた怒りを煽って爆発。拳をぎゅっと握って息をするのも忘れてまくしたてる。
「パパの傍にいるために私の事大事にしてたじゃない、知ってるのよ、私の人生恋心のために消費して、私の人生にくいこんできたじゃない、今までずっと!!!!アルバムめくってみなさいよ。私の事抱いてるのは静雄さんかママばっかりよ。」
肩で息をする。睨みつける。叫んでも静雄さんが焦らないのがたまらなく腹が立つ。焦りなさいよ取り乱しなさいよなによなによなによ!!!!!!腹の中で怒りが暴れまわる。決定的に傷つけてやりたくってたまらない。
「私抱いてればパパのカメラのファインダーの中心におさまれるんだもんね。」
言い連ねる度にみじめになるのに他の傷つけ方がわからない。
「とびっきりのとろけるみたいな笑顔向けてもらえるもんね」
涙をこらえるために殺意を込めまくった目で睨んで怨嗟をひたすらに訴える。嫌いよ嫌いよ嫌いよ!!みんな!!!
ず、と静雄さんの白髪交じりの金髪が揺れた。仁王立ちで両足踏ん張って肩怒らせて、両手握ってぶるぶる震えてる私の目の前で床にしゃがみこむ。大きな手のひらが顔を覆う。両手で、いないいないばあをしてくれた時みたいに。
「なによ」
私の声は震えてた。涙がこらえられない。しゃがみこんで顔を覆って、かごめかごめの真ん中の子みたいに静雄さんが一人ぼっちで、自分がみじめで、やらかしてしまったって今更思って、色々取り返しがつかなくて、酸欠で眩暈。
「なによ……」
びっくりするぐらい熱い涙がぼろぼろ出た。目を見開いたままばたばた落ちてく涙見下ろして、だけど特に悲しくもなくて、無感動にコーヒーの海に落ちてくのなんか見ちゃって、あ、でもこういう時でも鼻水は出るんだ、なんて。
漫画みたいにドラマチックにはならないな、なんて笑えるのにやりきれない。胸が痛い。涙が伝う顔がかゆい。
「杏里がお前を産んだ時」
初めて聞くよわよわしい声だった。静雄さん、ってお兄さんの仮面は剥がれてた。私が引っぺがしたから。
「俺も分娩台の傍にいた。右手を握ったのが帝人で、左手を握ったのは俺だった」
長い指の隙間から涙が落ちていく。
「お前を最初に抱いたのも俺なんだ。首が座ってなくて怖かった。怯える俺を見て帝人も杏里も笑ってた」
声だけが明瞭だ。靴下にコーヒーがしみ込んでは冷めていく。
「へその緒を切ったのも、退院の日に抱いたのも俺だ」
嗚咽。大人の男の人が泣くのを初めて見た。男泣きっていうのをこういう風に言うんだろうか。
私もしゃがみこんでしまいたいと思う。壁に背中を預けてしゃがみこんで、顔を隠して泣く姿はあまりにも私が見たかった光景と違っていた。はあ、と息を吐いて呼吸を整えた静雄さんが顔から手を離す。しゃがんだまま私をまっすぐに見上げて口を開く。
「帝人は……俺にも杏里にも、」
「そんな目しないで。……知ってたわよ」
みんなで幸せ、になりたかったんでしょパパは。
「私とママじゃパパはあんなふうに笑わない。」
だから家庭第一で、だけどパパとママの寝室にベッドは二つで、静雄さんは私専用で、ママは働きながらも娘のために一生懸命で、優しさは絶対に揺るがなくて、完璧なママで、パパも優しくて、家庭が一番で、静雄さんは二番で
「静雄さんと私だからあんなふうにとろっとろのでれっでれの笑顔になるの、娘だもん、わかってたに決まってるでしょ!」
やり場のない怒りが丸ごと金切り声になった。また喉が裂けたみたいに痛い。
目を開けたら静雄さんがまた両手に顔をうずめてた。いかにも途方にくれましたって風情。
「……私が生まれて嬉しかったんでしょう。」
ほのかに笑って吐き捨てた。噛み飽きたガムみたいに。
「それも知ってたわ。」

小さいころから、ちゃんと。

『月も太陽もどうせ星』



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