UPPER CLASS(赤安ミラノ駐在本)
2018 Love Forgiven4 発行物の一部!





 降谷たちが選んだアパートは一階がパン屋になっている古い建物で、共用の螺旋階段の真ん中を、後付けされたエレベーターが貫いていた。
 二人の部屋はその建物の三階全部で広さは十分だったが、イタリアでは家具が傷むという理由で倦厭される南向きだったことが、現実的な賃料につながった。
 キッチンとリビング、それに寝室は、手すりの腐ったバルコニーを介し繋がっている。バルコニーからは、地下鉄の駅近くの、交通量の多い大通りを見下ろすことができた。
 バスルームはうなぎの寝床にように細長く、バスタブは前の住人の趣味か、猫足のものが持ち込まれていた。
 あちこち改築されてはいるが、もともとは一〇〇年以上前の建物だ。降谷たちがこの部屋に越してきて最初にしたことは、破れた水道管の修理依頼だった。水浸しになった部屋を掃除したあとも壁を塗ったり、はがれたタイルを少しずつ貼り直したり、しばらくはやることが尽きなかった。


 映画の趣味も音楽の嗜好も異なる赤井と一緒にいるだけで、降谷は常に新しい世界に触れられた。降谷のチョイスで薄暗いフランス映画を見た次の晩、赤井はわざわざプロジェクタとスクリーンを買ってきて、CGと粉塵まみれのハリウッド映画を上映した。
  前の住人には子どもがいたのだろうか。置き土産にチェスとカードがあったので、二人でよくお世話になった。それでなくとも競争が好きな二人は、何か(どっちがソファから立ち上がってコーヒーを淹れてくるかなど)に行き当たるたびペナルティを設けて、ゲームの優劣で物事を決めたのだ。
  中でも降谷と赤井のあいだで大流行したのが、ヒット・アンド・ブローという数当てゲームだ。ルールはいたって簡単で、一方が数字に重複のない四桁の数を用意し、もう一方がその数を当てるだけ。数字は1から9に限られる。回答者が出した答えに対し、出題者はその都度ヒット(正答と数字も桁も一致)とブロー(数字は当たっているが桁が異なる)の数を提示しなければならない。
  たとえば出題者が2573という答えを用意していた場合、回答者が1234と答えたときは、ヒットは0で、ブローが2ということになる。回答者が5678と答えれば、ヒットは1でブローも1だ。この時点ですでに4つ数字が出揃ったため、いずれの桁にも9が入る可能性はなくなる。
  続いて3456と回答すると、ヒットは0でブローが2……という要領で、いかに少ない回数で出題者の用意した数字を当てられるか競うゲームだ。
  一回目のノーヒントの状態で適当に答え、運良く正解する確率は5440分の1である。
  降谷たちは「五回以内に正答できなければ出題者の勝ち」とルールを設けたので、このようなほぼありえないラッキーを無視してみれば、ヒット・アンド・ブローは一回目の回答の結果、「いかにその後考えうる数値パターンを絞らせないか」という性質を持つ。
  全5440通りの数の組み合わせのうち、もっとも残存パターンが多いのがヒットは0でブローが1という事象で、実に1440通りもの答えがこれに当てはまる。出題者は過去の回答などから「相手が一回目の回答で答えうる数字」を予想し、結果が0ヒット1ブローになるようにする。
  もちろん、回答者が一回目に1234と答えると予想し、6789などを答えに設定するのはナンセンスで、0ヒット0ブローは逆に答えを360通りに絞られてしまうから注意が必要だ。ちなみに、普通に遊んでもつまらないので、降谷たちはこれをいつも口頭のみでやっていた。
「1234」と、赤井が言った。降谷が、出題者を務めていたときだった。
「げ。1ヒット1ブローです」
「5678」
「0ヒット2ブロー」
「じゃあ1456」
「……0ヒット3ブロー」
 赤井は少し考えて、「8154ならどうだ」と言った。
「1ヒット2ブローです」
「なるほど。4は下一桁目に確定だな。すると1は四桁目でも三桁目でもない。5はもう三桁目しかありえないから……7514でどうだ」
 正解だった。
 降谷は溜息をついて両手をあげた。
 カウンターから身を乗り出した赤井が、ご機嫌をとるように眉の上にキスを落としてくる。
「一桁目に4があったのはサービスだろ」
「定石なんていままでほとんど打ってこなかったくせに」
「それもこのゲームの面白味だ」
 軽く睨みつけてからカウンターを回って、降谷は白く清潔なキッチンに入った。
 換気扇の下でたばこを吸っている赤井に後ろから寄り添い、ぴったりと体を押しつける。
 赤井が小さく笑った。
「俺の三勝二敗だな」
「あなたの得意なゲームばっかり」
 三勝のうち二勝は、分解したAK47モデルガンの組み立て競争だった。拳銃の組み立てならたまに降谷が勝ち越せるのだが、ことライフルとなると話は別だ。自分のプロフェッショナルな分野を持ち出してドヤ顔するのはずるい。
 今度、コードの先に目覚まし時計をつないで爆弾解除ゲームでもやってみようか。別にそれだって降谷の専門分野ではないけれど。
「暇つぶしにはなっただろう」
「……まあ。雨もまだ止まないし」
 思ったより湿っぽい声が出た。

 冬のミラノは雨がちで、一日中降っているのもざらだった。雨どいの腐ったバルコニーには滝のように水が溜まっていて、一層外出する気を失くさせた。
 今日の夕飯はあり合わせでどうにかなるし、わざわざ準備をして、いつ見ても陳列棚がガラガラな向かいのスーパーマーケットに行く必要もない。二人揃って、他に急ぎでやらなくちゃいけないこともない。
「……ペナルティは?」
 降谷は、レースカーテンに透ける灰色の空を見ながら言った。
 ゲームを面白くする秘訣は、やはり、相応のペナルティを用意することだ。
「ああ、考えていなかったな」
「じゃ、早く考えて」
 言いながら、赤井の紺のニットの襟口に鼻をうずめた。
 朝なんだか夕暮れなんだかわからない明るさの中で生きていると、ほとんどはじめて体験する怠惰な時間にのまれてしまう。
 赤井の、短く揃えた襟足の下には、男っぽい頚椎がひとつひとつきれいに浮き出ている。
「なんでも聞いてあげますよ」
 たまらなくなって、熱い呼気を服の上から赤井の肌に植えつけた。
「いいのか、ダーリン」
 嬉しそうな赤井の声が、振動となって直接伝わってくる。
「何なりと。僕のピーナッツ」
「…今日は、一本多めに吸っても?」
「んー、今日だけですよ」
「BGMの選択権は」
「それはもっとも重要」
 唇を頸にくっつけたままでいると、わずかな振動で、赤井が本当の願望に行き当たったのがわかった。
 降谷はそれが放たれるのをじっと待つ。すると、
「明日の夕飯は君のつくったボロネーゼが食べたい。チーズがたっぷりのっているやつ」
「へ……」
 予想外のお願いに、拍子抜けしてしまった。
「そんなんでいいんですか」
 声が裏返った。この微妙な雰囲気をどうしてくれる。そんな意味で言ったつもりだった。 
 ところが、
「これ以上の贅沢があるのか?」
 赤井が子どもみたいに目を丸めたのを見て、降谷は唐突に頬の奥に熱を覚えた。
 なんだか完全にそういう気分だったのを躱されて、自分ばかりガツガツしていたみたいで恥ずかしい。

 この野郎。気まずさを掻き消すように紺のニットに額を押しつけると、 赤井が明るい声で「たのしみだ」とつぶやく。

 この野郎。
 今日の、って言わないところが好きだ。


#おうちにいる赤安




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