拍手ありがとうございます。以下42小話。ちょっと注意。
揺らぐことのない愛-3★★
「できたぞ。冷める前に食っちまえ」
申し訳程度に揃っていた貧相な皿も、料理次第でこうも見栄えが違うのか。ついそんなことを考えてしまう程度には見事な出来栄えだった。
冷める前にだなんて、ドイツ人のくせに、と。すっかり彼に馴染んだ昼夜を問わない温かな食卓の一端をジェットも担うことができているのかと思うと、一日中付きまとっていた鬱屈とした気持ちがいくらか和らいだ。
けれどその気持ちを払拭してくれたハインリヒからは、鍋を見張っていた時と同様の雰囲気を感じてしまう。いっそなにかしら口に出してみようかと思案はするものの、どんなにおいしそうな夕食が目の前に現れ気分が晴れようとも、名状し難い落ち込みの原因を饒舌に語る術を得たわけではない。
かといってここまできて気にするな、と言えるわけもない。そしていっそ蓋でもしてしまおうかと思う厄介な気持ちにジェットがきちんと向き合い言葉にしようとするのは、ある意味でジェットなりのハインリヒへの愛情でもある。
わかっているのだ、心配させてしまっていることを。ハインリヒが部屋に来てからのあれこれでジェットが口に出した戸惑いにではない。あの親子を前にして、ジェットが彼から呼びかけられた名前に、驚きとともに言葉のない戸惑いをすべて晒してしまったことに対しての。
「ハインリヒ」
「……いい。ほら、先に食え。鍋にまだ残ってるから、足りないなら入れてこい」
せめてこのもやもやとした気持ちを抱えていることだけでも伝えようと名前を呼ぶと、少しの間じっと目が合い、それからふっとハインリヒの纏っていた空気が和らいだ。
気遣ってもらったことにも、ちゃんと気づいている。
「―サンキュ」
ならばそれに対する感謝だけでも伝えたい。そうして口にした言葉に、すっと目を細めて気にするなと伝えてくれる優しさに、原因でありおそらく答えでもあろう気持ちが眠るジェットの胸がそっと熱くなった。
ジェットの綺麗に伸びた背中が猫背気味になっているのは自分のせいだろうと、ハインリヒは気づいていた。心配をかけていると申し訳なさそうにするジェットにも。いっそあのまま、とつとつとでも胸の内に燻るものを吐き出させてしまってもよかったとは思っている。けれどハインリヒがそうしなかったのは、心配する気持ちの裏側に巣くう、今日一日出ずっぱりな子供じみた感情のせいだ。
だってそうだろう、と心の中で言い訳がましくいつの間にか染み着いた温かな夕食を口に運んだ。
あのとき向けられた瞳に対しての隠し切れなかった動揺も、いったいなにがあったと問いただしたい気持ちも、それを心配する気持ちも、なにも嘘ではない。嘘ではないけれど、部屋に入ってから、料理を始めてから、それから―とかく、やっと、本来得たかったものを一身に受けていたのだ。昼間の買い物でのひと時や帰り道の会話程度では足りるはずのないものを、やっと。ほぼ一日親子に譲ったのだから、少しくらいいいだろう、と。
それでも皿に盛られたトマトベースのスープで柔らかく、けれど煮崩れをしないように気を配ったロールキャベツを前にした途端に元気になったジェットを見ると、乾いていたものがいくらか、少なくとも子供じみた感情を隠せるくらいには潤ったのだ。
ただ空腹だったからかもしれない、なんて。思わなくもないがとどのつまり理由はどうだっていい。ハインリヒの作ったものでジェットの気が晴れた。それで十分なのだ。
とりとめもない感情を言葉にしようとする様も、はにかみながら言葉を紡ぐ様も、すべてハインリヒのために向けられたものなのだから。
聡いこの子に気づかれるなよと、大人を気取る心の内で暴れる子供も少し大人しくなったような気がした。
そのまま二人でとりとめもないことを話しながら鍋の中を空っぽにした。食器はジェットが洗うから、とそのまま任せ、先にシャワーを借り、そのあとに続いてジェットもシャワーを浴びた。
買い換えたばかりのスプリングのよくしなるベッドに腰掛けながら、隣でごろごろと寝そべり新しいベッドにご満悦なジェットを横目でちらりと見遣る。
期待をしていなかったわけではない。ハインリヒもジェットも、会うのは久々なのだ。言葉だけではない繋がりだって欲している。けれど、とハインリヒは思う。おそらく今夜の彼はそういう気分にはならないだろうと。
シャワーの順番を考えておけばよかった。後から入れば、例えば彼の濡れて色味を濃くした髪だとか、拭き取れていない水が輪郭をなぞる様だとか、水を玉にする瑞々しい肌だとか。そういったものに気を取られても、どうとでも処理することが出来たのに。さすがにもう一度シャワーを借りるなんて言い出せば、伝わってしまうだろう。
どうしたもんか、と思考を巡らせる。見なければいいと思う反面、そう再々何度も会いに来られるわけではない恋人の姿を今見ないでいつ見るのだと詰め寄る自分もいる。
「なあ、ハインリヒ」
そんなふうにぐるぐると考えていたものだから、じっとハインリヒを見つめる瞳にも、にゅっと伸びてきた長い腕にも気づくことが出来なかった。
「っ、ジェット?」
「しないのか…?」
じゃれて絡んでくる時とは違う、緩やかだけれど明らかに熱の籠った腕や指先の動きだとか。いくらかは恥ずかしいのだろうか腰回りにぐりぐりと額を押し付けながら、準備してきたンだけど、と紡がれる言葉だとか。
―いろいろと、よろしくない。
「ジェット」
「ん?」
「そうは言うが―お前さん、集中できるか?」
今だって、触れてくる腕の心地よさに容易く気を持って行かれそうだというのに。求める相手が上の空だというのは、さすがに堪えてしまう。
「……ええ?」
「ええ、って……ずっと考え事してるだろうが。そんなのでちゃんとできるのかと聞いてるんだ」
きょとりとする顔にハインリヒは念を押すよう、いくらか語気を強めた。途端にうろうろとするジェットの視線にそらみたことかと自分に言い聞かせる。ジェットに対してではなく、あくまで自分に、だ。
しかしそんな葛藤を知ってか知らずか、ハインリヒの考えとは少し違った方向からの答えが返ってきた。
「なんか、さあ…その、シュウチュウするとかちゃんとできるかとか改めて言われると結構、あの」
答え辛い、と腰回りからくぐもった声が聞こえたかと思うと、普段は白い耳朶までが濡れて大人しくなった赤毛と同じように真っ赤になったジェットがいた。
それを見て、自分の口走った言葉を省みるよりも先、そこから食べてしまいたいと思ってしまう程度には―余裕なんて、持ち合わせていないのだ。
マットレスを買い替えたばかりの、そう広くはないベッドで目が覚めた。不快さはないものの多少の異物感と重だるく感じる腰の(サイボーグのくせに、と思わなくもない)原因は、目の前で眠る銀髪の男のせいだ。
誘ったのは間違いなく自分だけれど、なんだか昨夜はいつもよりもねちっこかった―とジェットはぼんやり思う。日の下ではとても言えないような、ものすごいことも言わされたはずで。うっかりあれもこれも、と思い返すと体がかっかと熱を出すような気がするけれど、それでも悪い気はしない。
たとえば自分の抱えているよくわからない感情だとか、昨日のことだとか、心配を掛けさせてしまって悪いとは思うけれど―そういったものに振り回されているのはジェットも同じなのだ。そして彼がジェットを欲しいと思うのと同じように、ジェットも彼を、ハインリヒを欲しいと思っている。
それだけに、昨夜のどこか切羽詰まったような、わかりやすく貪欲にジェットのことを欲しがったハインリヒを見られたことが嬉しい。
ねちねちと執拗にあれやこれやと好きにされてしまったけれど、嫌な気はしないのはそういうわけだ。わかりやすいのは―彼の言葉を借りるなら―「嫌いじゃない」。
まだ朝には少し早い時間、薄青い光に包まれた部屋でぽやぽやとそんなことを考えていると、眠っていたハインリヒも薄らと目を開けた。
買い物は済ませてしまったし、せっかくアメリカまで来てくれたのだから彼を連れてニューヨークの街を出歩くのもいいかもしれない。けれど昨日ばたばたとしてしまった分、今日はのんびりと、少し怠惰だけれどずっと抱き合ったままでもいいな―と寝ぼけ眼を見つめながらジェットはくるくると思案した。
部屋を包む光よりも淡い色の瞳がまだ眠たそうにぼんやりとしているのを見ていると、こちらまでうとうととしてきてしまう。
「ハインリヒ、まだ寝てていいぜ」
やっぱり、もう少し寝ていよう。ジェットの思考の天秤が惰眠を貪る方に傾いたとき、そっとハインリヒに告げた。するとハインリヒの二本の腕がぐっとジェットを抱き寄せた、のだが。
「え…ッ!」
感じてはいた。確かに。多少の異物感は感じていた。けれど、これは。これはまずいだろうとジェットは焦った。だって、こんな、こんな。
「このままがいい」
「ちょ、このままって」
身体を重ねるうえでの上下関係こそあれ、ジェットもいっぱしの男だ。恋人のぽやぽやと柔らかな声で紡がれるわがままは叶えてやりたいと思う。甘えるようにぎゅっと抱きしめてくるのも、かわいいと思う。
けれど、今はだめだ。一度意識してしまったら、そんなに強く抱きしめられたら。
抱き合ったままでもいいと思ったことだって嘘じゃない。ある意味今はそれが叶っている。でも、でもこれじゃあ。
「ハインリヒ……あ…ンッ…」
きゅうっと締め付けてしまうのも、ゆるゆるとそれが芯を持ってきていることも、それがたまらなくなってしまうのも、しょうがないじゃないか。自分のものだって緩やかに芯を持ち始めていることくらい、気づいている。
少しずつ白んでいく部屋の中、ばかみたいに心臓がどきどきしている。ハインリヒとは激しいばかりでもなかったけれど、なかなか会えないことも相まって結局は盛り上がっていた。今までこんなにゆっくりとしたことは一度もなかったのだ。
しかし初めての事態に焦るジェットの心とは別に、身体のほうは覚醒しきっていないときのとろりとした眠たさにも似た、蜂蜜のような心地よさに侵されている。
気持ちよくて、同じくらいもどかしくて、けれどあんまり穏やかに抱かれるものだから、催促するのも気が引けて。じわじわと溜まる熱を逃すこともできないまま、やがて強く抱かれた腕の中でジェットは小さく震えた。
当時は入れる予定がなかったのですがせっかくなのでちまちまえっちも入れて行こうと思います。ごろごろ視点が変わる仕様です。原稿だと■□の記号で区切ってはいたのですがWebに載せるにあたり省いてみたり…しないほうがよかったかなあ。