幼い頃、戦地から戻った父と買い出しに行ったことがある。

 里はまだ戦火の中にあり、物資もそれほど潤沢とは言えなかったが、それでも戦場とは食べ物の質も量もかなり違っていたので父は淡々と買い物籠に商品を詰めていた。

 当時の俺は修行と任務の日々であり、その時が初めてのスーパーマーケット体験だったと記憶している。

 人々がもみくちゃになりながら、ごろごろとした野菜や笊に入った魚などを品定めしては買い込んでいく。

 また、トイレットペーパーや石鹸などといった日用品もぽつぽつと置いてあり、まるで夢の国だった。

 そんな”生きるためのものが全て揃った場所”の中を、父とはぐれないように小走りで追いかけていた俺は、調味料の並ぶ棚の隣にある奇妙なものに突き当たったのである。

 練りからしを吟味する父の肩程度の位置にある、テラテラと蛍光灯の灯りを反射する三角の物体。

 ソレが何に使うものなのか想像もつかなくて、父の服の裾を引いて訊ねた。

「ああ、それはな」
 父はやけに嬉しそうにソレの用途を説明し、「そういえばもうすぐ誕生日だな。欲しいか?」と問うてきたが、あまり興味が湧かなかったので、「それよりも太った秋刀魚が食べたい」と答えた。可愛げのないガキだ。

 あの時の父は、今思えば少し寂しそうだったかもしれない。

 それでも任務の合間に海まで漁に出掛け、一週間三食秋刀魚という滅多にない経験をさせてもらえた程度に、俺は父に愛されていた。

 本当は、可愛げのないガキにあの三角を頭に載せた格好で秋刀魚を食べて欲しかったのだろうか。

 今となっては分からない。







 二十九回目の誕生日は、某国の幹部を二人、その家族を七人、警護の忍びを三十五人殺した。

 見せしめの意味を込めろとの依頼だったので、むごたらしくなるように血がいっぱい出るように殺した。

 子供も、女も、頭を砕いた。自分の欲望のために国民を捨て駒扱いしていた幹部二人は、油女の一族の者に体内を昆虫大行進させるよう命じた。

 帰りの道中で獣に襲われないように、極力返り血は浴びないようにしたが、それでも床を流れた体液を踏んでしまったらしく、鉄の錆びつく臭いが鼻の奥に留まる。

 血みどろで阿鼻叫喚の空間を作り上げ、里に戻ったのは夜も大分回った頃だった。

 小隊を門前で解散させ、一人で受付所に向かう。

 暗くてよかった。すれ違う人もいないし、いたとしても表情まで判別できないだろう。どこかに受けてしまった血液の痕に眉を顰められることもない。

 夜を居心地良く感じるのはそのせいだ。

 先程踏んづけてきた数十人の体液が、里の地面と接し、吸い込まれていく。

 里の利益のために働いてきたのだが、結果こうして里を少しずつ穢している。

 拭い切れない後ろめたさを振り払うべく、報告書の提出の前にアカデミーの校庭の端にある水撒き用の水道で、手と靴の裏を洗うことにした。

 取り外した手甲をすんと匂うと、鼻の付け根がもにょもにょと不快感に襲われた。

 今日はもうこれを着けるのはやめよう。

 腰に回したウエストポーチに無理やり押し込み、蛇口を捻る。

 猛暑は過ぎ、夜は外気も涼しい。蛇口から流れる水も、昼間の太陽の熱を忘れたようにひんやりとしていた。

 ちゃぷちゃぷ、ぱちゃぱちゃ、ぴちょん。きゅっ。

 タオルを取り出そうとして、手甲と同じ場所に入ってることを思い出した。数秒悩んで、無気力に手を振り水分を飛ばした。

 汚れは落ちたかもしれないが、目に見えない死の残滓は依然としてへばりついている気がする。

 まあいい、蛍光灯の下に晒されても平静でいられる準備はできた。

 窓から漏れる灯りを頼りに、さっと報告書に目を通す。感情など排除した、出来事だけ記した文面。大丈夫。

 靴の裏を水で流したせいで土が泥となり、一歩が粘ついている。明日また洗って庭で乾かそう。

 二日与えられるはずの休日の過ごし方を考えていたら、いつの間にか報告書を提出していた。

 俺が見下ろしているのは、ぴょこんと生えた黒いしっぽ。

「あ、イルカ先生だ」

 顔が上がる。不思議そうな表情だ。

「カカシさん、先程も……」

 そしてハッと何かに気づいたように、汗をかきながら「何でもありません。お疲れ様です!」と妙に大きな声を出して頭を下げた。誤魔化すのが下手な人だ。ぼーっとしてるのなんて誰にでもあるのに。バレバレの気遣いをするところが彼らしくて、少し顔の筋肉が和らいだ。

 イルカ先生の赤鉛筆がチッチッとチェックを入れていく。手持無沙汰な俺は室内をぐるりと見渡した。今日の夜勤は彼だけのようで、他に誰もいない。

 ふと机の向こう側に、子供の書いた文字が羅列する紙の束が見えた。マス目の中に不格好な字が並んでいる。

「忍び文字の書き取りのテスト?」

 イルカ先生は赤鉛筆を走らせたまま答えた。

「そうなんですよー。もう三回目の補習で。まあ、ナルトに二十回付き合ったことを考えれば楽なもんですよ」

 そう言って、あははと笑う。今は里を離れ一流の師につく少年の存在だけが、俺と彼との繋がりだ。

 勉強嫌いのナルトが最低限の忍び文字を読めたのは、彼が二十回追試をした賜物なのかと思うとその努力に頭が下がる。

 イルカ先生が顔を上げた。備えつけのペン立てからペンを取り出し、報告書と一緒に差し出してくれた。

「すみません、カカシさん。ここに出立の時刻の記入をお願いします」

「あ、はい」

 今日は遅刻をしなかったため、定刻に里を発ったはずだ。

 依頼書通りの時刻を書き込んでイルカ先生に書類とペンを差し出す。

 イルカ先生はそれを受け取りながら、じっと俺の手元を見つめてきた。

「何か?」

 こびりついたままの死の残滓のことが頭を掠める。

 マナー違反じゃないの? と強めに視線を払いのけようとしたら、何とも邪気のない言葉を浴びせられた。

「カカシさんが手を露わにしてるの、初めて見たかもしれません」

「ああ……」

 ただの珍しいものに対する好奇心か。ほっとすると同時に何故か心に冷たい風が吹いた。

 イルカ先生はまたハッと何かに気づいた顔をして机の向こう側に消えた。背中がもぞもぞ動いているところを見ると、足元に置いてある鞄か何かを漁っているらしい。そしてガバリと起き上がったかと思えば、イルカ先生の表情は悪戯を思いついたナルトみたいにパァっと明るくなっていた。

「カカシさん、両手を出して瞼を閉じてください!」

 有無を言わさず手のひらを取られ、目を瞑らされる。少しでも開けたら怒られそうな勢いだ。

 指先が湿ったもので拭われる感覚。少し薬品の匂いがするから、きっとウェットティッシュだろう。

 不思議と、イルカ先生が拭ってくれているというだけで、死の残滓がしゅわしゅわ溶けていく錯覚をする。

 そして伸ばしたままのそこが、常温の何かで次々と覆われていく。

「さっき、『誕生日だけど仕事でした』って仰ってましたよね」

 覚えはないが、きっと言ったのだろう。

 誕生日に人を殺めたことが、心の片隅で燻っていたに違いない。

「目を開けてください」

 指にはめられたのは、合計十個の三角。

「ナルトにも許してない、と○がりコーンの全部はめです! 贅沢!」

 イルカ先生の手にはスナック菓子のお徳用袋。

 俺が呆然としていると、イルカ先生はおもむろに歌いだした。

 はっぴばーすでいとぅーゆー、はっぴばーすでいとぅーゆー、はっぴばーすでいでぃあかかしー、はっぴばーすでいとぅーゆー。 
 きっと夜勤のテンションだ。単調な採点作業が彼をそうさせたんだ。異国の発音なんて無視した彼らしい歌い方で、高らかと。

 背中と頬の肉がこそばゆくて、緩み切りそうになる。

 そこだけじゃない。目じりは下がろうとするし、口角は逆に上がろうとする。

 指には、蛍光灯の灯りは反射しないけど、何より眩しく見える三角。

 俺が一つを抜き取って頭に載せると、イルカ先生は楽しそうに声を上げて笑ってくれた。

 それが嬉しくて、ついに陥落した。



 そうか。父さんは、俺がこうしてはにかむ顔が見たかったのか。



イル誕後何から手を付けていいやら
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