BBJのウィタ・セクスアリス


「よ、ちゃんと飯食ってるか?」
 まるで挨拶のようなその声に、席についてパソコンに向かっていたバーナビーは眉を寄せた。
「余計なお節介だと云いませんでしたか? おじさん」
 我ながら棘のある物言いだと思うが、返さずにはいられない。
 顔を合わせるたび、虎徹はそう云うのだ。まるで、こちらが放っておくと、食べるに事欠く幼い子供であるかのように。
 そして、彼は気づくとしょっちゅう何か食べている。デスクワークのときは、さすがに口に含むキャンディやチョコレートだが、ふいと立って休憩とばかり廊下に出ると、自販機や自分で買ってきた袋をがさごそ探って、やっぱり何か食べている。
 驚いたのは、虎徹の要望に対しては、もっぱら吝嗇なロイズが、彼の望みを容れて、自販機を3台もヒーロー事業部の廊下に置いたことだ。売られているのは、どれもハイカロリーな食べ物ばかりで、体重と体型維持が気になるバーナビーとしては、どちらかというとありがた迷惑だった。
 それだけではない。虎徹は、入社してからの短期間のあいだに、アポロンメディアの食堂やカフェテリア、果ては自社ビルの軒を借りている露店や屋台、近くのダイナーや雑貨店の食べ物にまで精通していた。その能力をもう少し、一方の本業であるデスクワークに費やしてほしいと思うぐらいだ。
 しかも、しょっちゅう買ってはもぐもぐやっている。食べないまでも買い込んでは、机の抽斗にためこんでいるのだ。冬眠前のリスのごとく。抽斗内のものが腐るようなことは一度もなかったので、一応は新陳代謝しているのだろう。
 ――何なんだ。
 無関心であろうとしても、そこまで見てしまうと気になってもくる。
 幼いころに欠食した過去がトラウマになり、いまでも食べ物を抱え込まないと気分が安らがない戦時派か。しかし、いくらなんでもそんな年齢ではないだろう。
 だが、やがて虎徹がそれほど食べ物に執着する理由を、バーナビーは身を持って知ることになる。


「あれ……?」
 出動が終わって、トランスポーターに帰ってきた直後だった。
 昇降口のステップを昇ったところで、急に膝に力が入らなくなった。文字通り、かくんとバネが外れたように。そのまま立ち直れずに、がくりと膝をつく。さらに、その姿勢を保つこすらできず、ころりと床にひっくり返った。
「おい、バニー、どした?」
 すぐ後ろにいた虎徹が、いまだ認めていない呼び名で自分を呼び、かがみこんでくる。
 緑の目を見瞠って、バーナビーは覗きこむ男を見上げる。無様なさまを見せてしまったということよりも、自分の身体が、自分の意のままにならないことにショックを受けていた。両親の仇を討つと決心したときから、心身ともに鍛え、体調を維持し、体幹を鍛え、身体の不良などほとんど起こしたこともないのに――
「か、身体が動かないんです……なんか、力入らなくて……」
「あー?」
 さっきまで焦っていた虎徹の声が、理解したといわんばかりに、トーンを下げた。
「……おまえ、ちゃんと朝飯食った?」
 スーツのまま器用にうんこ座りした虎徹が、バーナビーに問う。
「ちゃんと……食べましたよ」
 いつものビタミン剤とジェル状の栄養補給食品。
「えー?」
 珍しく眉を寄せて、虎徹が抗議する。
「――そんなんじゃ身体もたねーだろ」
 バーナビーは、むっと唇をひん曲げた。身体に力は入らないのに、負けず嫌いの精神だけは首をもたげる。
 虎徹は立って、フェイスメットを脱ぐと、テーブルに置き、吹き出す汗を拭うように前髪を掻き上げながら、専用の冷蔵庫を探った。虎徹が駄々をこねんばかりにロイズにいって着けさせたもので、そこにも冬眠前のリスよろしく、いつも何かしら食べ物が仕込まれていた。
「とりあえず、これ飲んで食っとけ」
 持たされたのは、なんてことはないミネラルドリンクと、チョコバーにナッツバー。虎徹がバーナビーの背を支えて起こしてくれる。
 ストローを通して飲むドリンクは、ひどく甘く感じた。それからチョコバーは、これほどうまいものがあるのかと驚くぐらいだった。五分とかからずバーナビーは、完食した。
「まだ足りねーって顔してるな」
 虎徹はさらにロッカーを探ると、プラスティックのタッパーを持ってきた。
「これも好みに合うなら食ってみろ」
「何ですか?」
「ライスボウル。今日は照り焼き味だから、おまえでも食べられるだろ」
 ラップに包まれ、さらに黒い紙のようなものに包まれた米を握り固めたもの。彼が握ったんだろうか。ちらりと見上げると、虎徹は口をへの字に曲げる。
「ちゃんとラップにくるんで握ってるよ」
 だから衛生上問題ないということらしい。
 そういう意味で見たのではないのだが、と思いつつ、バーナビーはライスボウルを口に運んだ。甘辛いソースは、初めて味わう味だった。中に鳥のミンチを固めたものが入っている。それにも甘辛いソースが絡んで得も云えぬ味だ。
「うまいか、うまいだろう?」
 にいっ と得意げに虎徹は笑う。子どもみたいな顔で笑う、とバーナビーは初めて気づいた。
 バーナビーは、ほとんどしゃべらず、テニスボール大のライスボウルを四つ食べてしまった。
 今度はミネラルドリンクとは、別の水筒が差し出される。茶色くて、芳しい香りが少しだけコーヒーに似た茶だった。
「これ、何ですか?」
「麦茶。麦をこがしてんだよ」
「へえ」
 さきほどのライスボウルに合う。
「あと二〇分ぐらいしたら動けるようになるから」
 タッパーをしまいながら、虎徹は云う。
「ぼく……どうなってたんですか?」
「ハンガーノック起こしてたんだよ」
「ハンガー……?」
 バーナビーは、あっけにとられた。
「だって、あれは」
 いわゆる低血糖の一種で、激しく長く続くスポーツ、たとえば耐久レース、トライアスロンやロードレースの選手がなるものだろう。
「だから、俺たちもなる可能性高いんだよ」
 虎徹の口調は諭すようだ。
「五分のハンドレッドパワーの消化カロリー、おまえ知ってる? 多分ダイエット希望の連中が身を揉んでうらやましがる消費量だぜ。今日は立て続けに三回出動あったろ。ハイカロリーのもん食ってないとやばいんだって」
 何だか経験者面されるのがちょっと腹立たしかったが、今回ばかりは虎徹に分があった。
 確かに、三度続けての能力発動は初めてだった。
 時間を置いて、虎徹に肩を貸してもらい、トランスポーターのソファに腰をおろして、ようやく一息ついた。
「おまえが食ってるような、サプリとかミネラルゼリーってのは、消化吸収にはいいんだが、腹持ちはよくねえだろ? ああいうのはすぐに消化しちまうから、血糖値下がりやすいんだ」
 バーナビーは眉を寄せる。
 いままでは、自分の体型や体脂肪率から、遠からず太りやすくなると考え、なるべく高タンパクはとっても、ハイカロリーのものはとるまいとしてきた。筋肉量を増やしつつも、グラビアやCM受けを考えて、体型維持に重点に置いてきたバーナビーとしては、自分の努力が否定されたようで、かなり複雑だった。
 バーナビーの表情をどう読んだのか、虎徹がさらにタッパーを差し出す。
「もっと欲しいか?」
「え、あの……」
 断ろうと思ったが、あの甘辛いソースの味が口内によみがえってきた。
「……いただきます」
 残った二つのうち、一つに手をのばす。夢中だったさっきより、さらに味わえた気がした。
「おいしいですね」
 素直に云えた。
「だろ? いいぜ、欲しかったら最後まで食べちまいな」
 さすがにもう満腹だった。バーナビーが断ると、
「そっか」
と最後の一つは、虎徹が頬張った。
「ああ、うめー」
 バーナビーの隣に座って虎徹は声を上げる。やっぱり子どもみたいな顔で笑う。目尻に人なつこそうな小皺が浮かぶ。
「出動のあとの、飯と酒は最高だよな」
「……ええ」
 バーナビーは、しぶしぶながら同意した。身体にまだ力は戻ってこない。だが、腹のあたりの空虚感がなくなっていた。虎徹の云うとおり、あと数分で力が戻ってくるだろう。
 自分一人だったら――大騒ぎして、病院に駆け込んでいたかもしれない。そしていい笑いものになっていただろう。
「サプリやらミネラルゼリーもいいが、これを機会にもうちょいバリエーションを考えてみたらどうだ?」
 虎徹は、すでにバナナを剥きながら云う。
「まあ、こんな連続出動なんて、そうあることはないが、そうあることはないことに備えんのが、この仕事だからな」
 確かに――今度こそ認めざるをえない気分になったところで、虎徹の手首にさきほどのライスの粒がついているのに気づいた。
「おじさん」
「ん?」
 バーナビーが指で示すと、虎徹はぺろりと舌をのばして、舐めとった。薄桃色の舌が、粘膜よりも濃い肌を這う。
 ぎくりと、バーナビーは息をつめた。以前から、時折、この年上の相棒の仕草に息を呑む瞬間があった。
 あまり深く考えてこないようにしてきたが、それがどうしてなのか、初めて理解できた気がした。
「どったの?」
 こういうときだけは妙に鋭い男が、首をかしげる。琥珀色の瞳がすご綺麗だ、そのとき初めて思った。なのに頬がリスのようにふくれている。
「……何でもありません」
 眼鏡をとりだしながら、いま自分が欲情しているのをはっきりと感じていた。わけがわからない。バーナビーは、顔を背けるのが精一杯だった。


「思えば、あれがぼくの初めてのウィタ・セクスアリスだったんですよね」
 うっすらと汗を刷いた滑らかな背中に頬を寄せながら、バーナビーは囁いた。虎徹の汗と肌の匂いがする。少しいやらしい、バーナビーを興奮させる匂いだ。
「あなたは、二度目?」
 聞けば自分のどこかが傷つく。わかっているのに聞かずにはいられない。彼には過去がある。美しい、決してバーナビーがかなわない過去が。
 でも、こうやって彼と繋がりながらなら、聞いても冷静でいられるだろう。あるいは軽い倒錯的な興奮に駆られるかもしれない。
 虎徹が物憂げにまなざしを上げる。
「ウィタ・セクスアリスって性欲的生活って意味だっけ」
「……そうですね」
 語彙に乏しい彼からすらすらと、そんな単語が出てきたのに驚いた。
「だったら初めてだよ」
 バーナビーはまばたきした。
 ――嘘、と呟く前に指がバーナビーの唇に触れた。
「バニーとすることは……俺にとっても初めてだ」
 行為に疲れた潤んだ瞳が告げた。色っぽかった。それで彼が亡くなった妻と、バーナビーをまったく別の対象にしていることがなんとなくわかった。
 それは嘘でもあるし、事実でもある気がした。
「ていうか、こういう半端なところで止めるのやめてくれ……」
 バーナビーに捧げられるように高々とあげられた腰、そこに深く入りこんだバーナビー自身も甘く締められ、思わず声が出そうになる。
「……バニー」
 声が掠れている。指がまさぐるようにして、バーナビーの指に絡んだ。その瞬間ぐいと手を強く繋がれた。間近に感じる虎徹の匂いがバーナビーから理性を奪う。
 バーナビーを。バーナビーだけを。
 それは紛れもない真実だ。
「仰せのままに」
 囁いてバーナビーは動きを再開した。連動するように虎徹の中に入ったバーナビーも歓迎されもてなされる。
 虎徹の乱れた息が、かすれた声に変わっていく。汗に濡れた髪、肌にくちづけながらバーナビーは夢中になった。
 確かにかれらのウィタ・セクスアリスは、まだ始まったばかりで、不安定でどこかで脆く、そして情熱的だった。
 だからこそ夢中だった。



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