(今ごろ)五万打リク第三弾【1】




 まだ深く眠っているようすのガイをあとに、ルークは置き手紙を残してそうっと部屋を抜け出した。
 持ちものは剣と、剣帯に通して腰に下げられる小さな革鞄。中身は財布と数種類のグミなど、いつでも持ち歩くよう言われているものと、肌身から離し難い大切なものがいくつか。
 ルークが一人で出かけたと知ったら、ガイは自分を起せば良かったのにときっと言うだろうが、おそらくケセドニアの見納めとなる今日、ルークは誰に気を遣うこともなく一人で歩きたいところを歩き、見たいものを見たかった。

 ND2018、ルナリデーカン、ルナ、30の日。ケセドニアの中心地──夜明け前。

 最も広い通りの左右で、人々が一斉に露天の準備を始める。豊富な種類の野菜や果物を積み上げ、スパイスを山盛りにした素焼きの大皿を並べる。肉や魚を扱う店の横には、おこぼれを期待する野良猫や野良犬がすでに待機中だ。ほとんどがらくたに近い古道具屋の品の中には、時折とんでもない掘り出し物が眠っていることもあるから、絶対一度は覗きたい。金物を扱う屋台の隣には、茶葉の量り売りの店が、鶏肉を揚げている屋台の通りを隔てた向かいには、喉を潤す冷たいシャーベット売りが開店の準備を始めている。市にはきっちりした開店時間などはなく、品が整えばそのまま開店だ。準備中でも、品が出せる状態ならば、一声かければ売ってくれる。
 絨毯や布、高価な宝飾品や骨董を扱う店は屋根のある薄暗い通りに店を構えているが、ルークが見ていて楽しいのは、こういう青空の下に広がる庶民のための市場だった。
 ケセドニアで最も活気のある時間、場所。
 この原色で溢れ帰った力強い生命力に満ちた場所を、ルークは最後に目に焼き付けておきたかった。

 朝食に何を食べようかと食べ物を扱う屋台をあちこちのぞきながら歩いていると、大きな樽を何本も積んだ小さな荷馬車から樽が下ろされている屋台を見つけた。下ろされた樽が、そのままきっちりと並べられているのを見ると、樽ごと陳列するようす。ふわりと辺りに広がる香ばしい香りは、どうやらコーヒー豆だ。
 仲間には紅茶よりコーヒーだというものもいる。嫌いだ、という仲間もいないことだし、買って帰ってみんなに淹れてやろうかと考え、ルークはそちらに脚を向けた。








 船を降りると、船上よりも濃い潮のにおいが鼻を突いた。
 気温の低いグランコクマの港のにおいとはずいぶん違う。だがアッシュは外からここへ戻ってくるたび、人によっては悪臭だというかもしれないこのにおいに懐かしさを感じ、やっと自分が在るべき故郷へ帰って来たのだと安堵する。

 急な天候悪化のため、帰港は丸一日と少し遅れた。日の長いケセドニアでもそろそろ太陽が西の水平線に沈むころだ。
 にも関わらず、アッシュは頭に被っていた日よけの布の端を口元から首を覆うようにぐるぐると巻き付けた。この時間では少々怪しく見えるかもしれないが、仕方ない。日が落ちて少し経っていたらマントを羽織ることもできたのだが……。

 人目を避けるように俯き加減で道の端を足早に歩き、家路への道を辿る。一時間程度かかるので、本音としては港で何か腹に入れて行きたいところだったが、とにかく今は知人に見つかりたくない気分だった。
 ほとんどが露天を畳んだ市の隅に人だかりができているのに気付いても、視線もやらずにそそくさと横を通り過ぎたのは、ひとえに知り合いに見とがめられたくなかったからだ。アッシュはもうずいぶん長くこの街の人々と関わって来た。歩けば知人に当たるというほどこの街も狭くはないが、用心するに如くはないのである。

「──って! ここ──だよ?!」

 そのとき、焦りと、恐れと、そして苛立ちとを含んだ少年の叫びが耳を打った。思わず脚を止めてしまったのは、それが息子の声によく似ていると思ったからだ。

「迷子かねえ?」
「ケセドニアにいたはずだって言ってるんだが」
「あ? 何言ってんだ、ここじゃねえか」
「まだ子どもだし、酔っぱらっているようには見えないけれど……」

 遠巻きに騒ぎを見守っている人の話が耳に入り、アッシュは嫌な予感を覚えながら気配を殺してそろそろと騒ぎの中心に近づいていった。

「だ、大体、おれ朝市覗くつもりで宿を出て……!」
「もう日が沈んじまうよ、どんだけ寝坊したんだい兄ちゃん!」
 中心にいる少年が必死で言い募っているのを、髭面の船乗りが酒瓶から直呑みしながらからかうと、周囲からどっと笑い声が上がった。少年は違う、と首を振り、助けを求めるように周囲を見回した。気温が少しずつ下がっている時分に少年の顔は焦りで汗みずくになり、困惑と絶望に染まりかけた視線が確かにアッシュにも絡んだように思ったが、すぐに逸らされ、俯く。
「あの……違ってたらごめんね。あんたもしかして、アシュレイさんとこのご親戚か何かかい?」
 少年がぐるりと周囲を見回したことで、これまで見えない角度にいた者にも顔が見えたのだろう。中年の女が慌てたように進み出た。研ぎ師の女房で、定期的に剣を研ぎに出すアッシュとは当然顔見知りだ。
「アシュレイ……??」
 少年がぽかんとその名を口にしたことで、愕然と凍り付いていたアッシュも我に返った。
「ルーク!!」
 顔に巻き付けた日よけ布を解き、顔を露にしながら慌てて名を呼ぶと、振り向いた少年がぎょっと目を見開いた。
「ちち……っ?!」
「すまない、俺の親戚だ。港で行き違ってしまってな」さりげなく視線から庇いながらアッシュは観客に説明し、皆に聞こえるよう少年にも言った。「すまないルーク。待たせたな」
「やっぱり。ナイル君に似てるし、そうじゃないかって思ったんだ」
「従兄弟の子なんだが……ナイルに似ているか?」
「ナイル君のほうがちょっと眉が太くて目がきつめかもしれないけど」研ぎ師の女房はみっしりと肉の付いた腰に手を当てて感心したようにルークとアッシュの顔を見比べた。
「タリアちゃんもあんた似だもんね……この子、どっちかっていうとルキアさん似かな? あんたとルキアさんも、確か親戚同士だったね」
「ああ」
 本当に親戚なのだというように肩を抱き寄せると、ルークの身体は小刻みに、ひどく震えていた。
 ルークのいる時代からは三十年も経っている。一見変わらないようでいて、世界でもっとも変化を遂げたのがここケセドニアだ。どれだけ混乱しているか手に取るようにわかり、アッシュは少しでも早く人目のないところに連れ出し、説明をしてやりたかった。
 どうやら解決したらしいと十重二十重に囲んでいた人々が散って行く中、じゃあ、と話を切ろうとしたアッシュに、研ぎ師の女房は首を傾げた。
「ルキアさんはどうしたの? 一緒じゃないのかい?」
「……ちょっと体調を崩してしまってな。しばらく残って療養することになった」
 それを聞かれたくなかったのだ。
 無関係の者にならしれっと嘘も言えようが、相手はルークの知人でもある。本気で心配してくれているのがわかるからこそ、ごまかし辛いものがあった。
 苦虫を噛み潰したようなアッシュの顔を見て、研ぎ師の女房は表情を曇らせた。
「まさか、船にも乗れないくらい悪いのかい……?」
「ああ、いや。そういうわけじゃないんだが、検査結果も出るまでかかるし、まあ……用心というか」
「そっか。……ま、愛妻家のあんたが置いて帰ってるくらいだから、大丈夫か!」
女房は太り肉の身体を揺すって呵々と笑った。「タリアちゃんはしばらくお母さんがいてくれて心強いかも知れないね。初めての出産のときはいろいろ心配だからさ! 初孫は……確か男の子だろうってことだったね、どうだったい?」
「髪や目は亭主と同じで真っ黒だった。肌の色も濃かったし、まだわからねえが顔も亭主に似たかもな」
「おや、そりゃ残念だ!」
「いや、嫁に出した娘だからな。向こうの親は得意げだったが、それでいいだろう」
 だがその、喜びに浮かれた空気を一瞬で凍り付かせた出来事を思い出すと、この街の連中には知られたくない。いずれバレるにしたって、少しでも先延ばしにしたかった。




「朝飯、市で食うつもりだったんならまだだろう? 何か食って行くとするか」
 小さなため息をついて、アッシュは日よけ布を毟り取った。すでに知人に会ってしまったからには無意味だ。妻を残してアッシュ一人が帰って来たことなど、一瞬で広まるだろう。その過程でどのような尾ひれがついていくのか、今は考えたくもない。
「あの……おれはあなたを知らないんだけど……なんでおれの名前がルークって……? ち、父上の従兄弟って本当?」
 促されて歩き出しながら、ルークはアッシュをまじまじと見つめて言った。質問の形ではあったが、実際に面立ちはクリムゾンと似ているはずだし、憶えのない街で「ルーク」の名を呼んだのだから血縁を疑ってはいないのだろう。知らない人間にそんなに簡単に付いて行ってはならない、と思わず叱りたくなるほど、無警戒に付いて来る。
「あれは嘘だ」アッシュは苦笑して言った。「便宜上の言い訳と言おうか。──ああ、お前が朝行こうとしていた市は、お前の時代にはここだった。よく見てみろ、所々建て変わってはいるが、なんとなく憶えがあるんじゃないか」
「『おれの時代』……?」
 父の従兄弟ではないらしいというのは、ルークにとってアッシュを疑う決定的な理由にはなり得なかったのか、或いは「お前の時代」という言葉がより引っかかったのか、嘘を付いたとはっきり言われたにも関わらずルークは困惑した様子で周囲を見回した。その目がみるみる驚愕に見開かれるのを確認し、アッシュは説明をしてやった。
「キムラスカとマルクトの冷戦状態が解除されたおかげで、少しずつ街の区切りが無くなってきたんだ。市は数年前に、市として新しく整備された場所に移って、ここは単なる一本の道になった。さっきの場所を見たあとだと、狭く見えるだろう?」
 道の両脇に露天を並べていたせいで、客が多くなればなるほど歩きにくく、店も探しにくくなったものだ。代々同じ場所に店を出しているから、地元の人間にはどこに何の店があるか知っているが、旅人にはわかり辛く、質の良くない店と結託した案内人──と称して近づく輩にぼったくられる旅人も後を絶たなかった。
「今の市は売り物によって場所が分けられているから、初めての利用者でも目当ての品が見つけやすいようになっている」
 アッシュはするすると裏通りを通り抜け、目当ての店へ向かった。滞りがちになっていたルークの脚が最後は小走りのようになり、その店の看板を見上げる。
「ここ知ってる……!」
「ああ。お前の知っている店主は八年前に亡くなったが、息子が後を継いでいる」

 適当に空いた席に腰を下ろすなり、ルークは店内を見回してほっと息をついた。
「おれ、もしかしたら死後の世界に来ちまったのかって思ってた……」
「お前の暦じゃ今日はいつだ?」
 その言葉を聞きとがめ、アッシュはふと問うた。
「ND2018、ルナリデーカン、ルナ、30の日」
 エルドラント突入の、大体一週間前である。
「……なるほど。ケセドニアで最も活気のある時と場所を最後に見ておこうと思ったのか」
「……!」

 ルークは、命の期限を感じ取りながら、このオールドラントの美しさ、好きな場所、愛する人々一つ一つを愛おしむように見つめ、別れを告げていたのだろう。当時のアッシュはルークがすでに乖離を起しており、決戦の後生き残ることが出来ないだろうと思っていたことも知らなかったし、彼の内面にそんな苦しみや決意があったことも知らなかった。アッシュはルークがその後も生きて、子供まで儲けていると知っていたがゆえに、そんなことに思い至らなかったのだ。だから知ったのは、その後何年も経ってからのことだ。
「安心しろ。それから二十九年経ったが、お前は元気で生きている。今はグランコクマにいるから、すぐに証拠を見せろと言われたら困るんだが」
「えっ?」
 ルークが弾かれたように顔をアッシュに向けた。すぐには信じられないことだったのか、驚いたというよりきょとんとした表情が本来の歳そのままに見え、可愛らしさに思わず笑んだ。
「お前は、今も生きてるんだ。音素が乖離していようが、たまに腕が透けようが、今だけの話、怖がることはない」
 ルークがむき出しの腕を隠すように両腕を掴み、驚愕に満ちた顔をアッシュに向けた。
「……あんた、一体誰なんだ? 確か……アシュレイ、って呼ばれてたよな?」
「それは偽名だ。ここではそう名乗っているから、お前もそのつもりで頼む。俺の名はアッシュ・L・フォン・ファブレ、ファブレの系図にはそう記載されている」
「──アッシュっ?!」
「しっ」
 ルークが奇声を上げたのと同時に、給仕の少女に声をかけられ、アッシュは壁に貼られた汚い文字のメニューをいくつか注文した。その日その日の仕入れによってあるものが違うので、決まった定番メニューは多くないのである。
 自分の好みそうなものばかり注文されたのに気付いて、ルークが再び目を見開いた。
「な、なんでおれの……?!」
「長い付き合いだからな」
 なにせ互いに一人で生きて来た期間より、一緒に寄り添って来た時間のほうがはるかに長い。
「……そろそろ三十年の付き合いになるのに、その間お前の口から一度も時間を超えて未来へ行った、などという話を聞いたことがないのが少し気になるんだが……。お前、なんで死後の世界だなんて思ったんだ」
「未来──さ、三十年……? ここ、ほんとに? おれ……ほんとにそんなに生きれんの……?」
 おずおずと不安げな上目遣いが昔のルークを思い出させる。ああ、こんなふうに自信のない顔をしていたと不憫にも思うが、尻に敷かれっぱなしの現在を思えば逆に新鮮にも、可愛くも思えた。
 思えば、このルークは息子どころか娘よりも歳が下なのだった。確かに妻の前身であることに間違いはないのだが、こうやってみるとルークへの感情はグランコクマで初孫を抱き上げたときに感じたのと同じ種の愛おしさだ。妻への愛情とも、我が子らへの愛情とも違う、とても近しいが、同時に少し遠い。このルークは彼の世界のアッシュに属する者であり、同じ音素振動数を持ちながらすでにアッシュ自身のレプリカではないということなのだろう。
「ああ。元気だ、ものすごく」
 ほっとしたような、だが信じがたいというような、中途半端な表情でルークは曖昧に微笑み、テーブルの木目をなんとはなしに指先で辿りながら口を開いた。
「……コーヒー豆を買おうとしたら、馬車から樽が倒れて滑り落ちるのが見えたんだ。店番の婆ちゃんが零れた豆を傍で拾っててさ、とっさに突き飛ばしたところで体中の音素が膨張して弾けるように乖離する感覚があって……やばい、って思ったところまでしか記憶がねーから、てっきり……」
「……ん? ああ……なんかそういう話をナタリアから聞いたような気がするな……」
 なにせ三十年も前のことだから記憶はかなり曖昧だ。だが、「半日意識が戻らなかったからベルケンドへ飛んで大騒ぎした」と聞いた時、後遺症の類いは何もないのかとやきもきしたような気がする。言われればエルドラント突入の少し前だったかもしれない。あの頃はルークが気になって仕方がなかったのに、素直に心配を口に出すことができなかった。ルーク自身も非常に落ち着いていたが、こうしてみれば決戦の時まで保てば良いとの開き直りもあったのかもしれない。
 アッシュは腕を伸ばしてルークの頬に触れ、撫でた。妻とは違う、あくまで少年の頬。男でも若い分、張りとなめらかさが違う。
 だが若いころのルーク──ルシファはもっと美しく、肌が内側から輝いてまるで真珠のようだったと、どこか張り合うような気持ちを抱きながら、アッシュは振り切るように頬から手を離し、朱金の短い頭髪をくしゃりと撫でた。
「実体があるように思えるが、どうなっているんだろうな。お前が元の時代に戻った時にベルケンドにいたら、あの件で間違いないんだろうと思うが……ああ、そのときには、ここでの記憶がないのかもしれんな」
「……信じらんねえ」
「何がだ?」
「あんたが本当にアッシュなら……なんでそんなに優しい目でおれを見んの?」
「……」
 日付を思えば、アッシュなりに精一杯歩み寄ろうと努力していたはずだが、帰還してきた当時の妻の警戒っぷりを思い起こせば、その努力が当時のルークになんの感銘も与えていないことは明白だった。
「今のお前を愛しているからだ。だから三十年前のお前を可愛く思う、なにも変じゃないだろう」
 からかいたい気持ち半分、がっかりして自棄になったのが残り半分の半分、残りを「もしかしたらここでの記憶は残らない」という勘に賭けて、アッシュは極めて真っ当な本音を正直に告げた。何を言われたのかすぐに理解出来なかったらしいルークがぱちぱちと瞬きし、ややあって混乱したように首を捻った。

「おまちどおさま~!!」

 元気な少女の声が何かを言おうとしていたルークを遮るように弾け、テーブルの上に注文した料理が並べられた。
 変わらない料理の数々に、ルークが初めてほっと力の抜けた表情を見せる。ホットミードのジョッキをルークの方に滑らせてから、アッシュはエールの注がれた自分のジョッキを持ち上げて乾杯の意を示した。
「な、何に?」
「不思議な邂逅と……」アッシュはあるはずのない出会いと、本来なら嬉しく思わなければならないはずのもう一つの出会いについて思いを馳せた。
 発覚のタイミングから、バツの悪さと、年齢の不安ばかり感じていたが、本来これは喜ぶべきことなのだ。「孫の誕生と、また新たな命が一つ芽生えたことに」
「孫?!」
「俺もお前ももう四十七だからな。娘は十六になったらすぐにマルクトに嫁に行っちまったし、おかしかねえだろ」
「えっ……はっ?!」

 聞きたいことは多いが、何から聞けばいいのかわからない。というより全く話が理解できていない様子でジョッキを両手で包み込んだまま目を白黒させているルークに、アッシュは実に愉快な気分でエールのジョッキを掲げてみせた。


リクエストをお受けしたのが2011年のことですので、もうご覧になっておられないかも知れませんが、れいと様、大変お待たせして申し訳ありませんでした。「IF」での出産話と聞いた時点で、私的にこのタイミングが一番好きだと思い。(2015.03.21)





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