ひじりこの鬼①



 ロストールはここのところ雨続きであった。多少、小康状態になることがあっても、陽の光は見えない。ロストールの下町では、洗濯物が乾かない主婦たちが苛立ちをつのらせている。その一方で、旦那連中は彼女らの機嫌を損ねないように、借りてきた猫のように大人しくしていた。
 雨の影響を受けるのは、主婦や野良仕事連中だけではない。冒険者だって、予定の変更を強いられることもある。
 今日も雨が降っている。しとしとと、すべてものに染み込んで蝕むような陰気な雨であった。
「レイーン、今日どうするぅ?」
 エステルが気だるげな声を出した。彼女を振り返れば、ベッドの上でノロノロと出発準備をしている。準備といったって、まるでやる気はないようで、大きな肩掛けカバンに着替えを入れたり出したりしているだけだ。
「別に急ぎの仕事もないし、今日は休みだよ」
 窓辺から外を眺めていたレインは、ため息を付いた。安宿の薄い窓ガラスに大きな雨粒がぶつかっては、川を作るように筋を作って下に流れ落ちていく。
 髪が爆発してしょうがない――墨色のくせ毛を手櫛でかき上げながら、レインはしかめっ面をした。普段からまとまりのない髪だが、湿気を含むとさらにうねって広がって、ちっとも落ち着かなくなる。
「はー、やったー! 雨の中歩きたくなーい」
 カバンの中身を放り投げながら、エステルはベッドの上に仰向けに転がった。
 エステルの気持ちはよく分かる。レインだって雨の中を歩くのは嫌だ。寒いし、泥水を含んだ靴は気持ち悪いし、惨めな気持ちになるからだ。誰だってそうだろう。
 だから、今日は休業だ。
「男連中に知らせてくるよ」
 部屋の扉に手をかけながら、エステルを振り返った。彼女はまだ寝台の上に寝転がって、頭だけをこちらに巡らせている。
 宿代も追加しなきゃいけないしね――言いながら部屋を出た。
 この雨で行き場を失った旅人たちが、宿に詰めかけている。宿屋はひどい賑わいだ。早めに部屋が取れていてよかったと思う。
 二部屋隣に取ったもう一部屋に向かう。不用心にも部屋の戸は開けっ放しだ。男部屋とはそんなものなのだろうか。その開け放たれた戸の向こうから、ゼネテスの声が聞こえてきた。
「――だからな、坊っちゃん。焦らず浅いところをゆっくり攻めてだな。それから深いところをこう、角度を変えながらだな……って――坊っちゃん、聞いてる?」
 ゼネテスとエルファスが狭い部屋の両端に置かれた寝台に、向かい合うように腰掛けている。ゼネテスはエルファスに語りかけているようだが、対するエルファスの態度はそっけない。ゼネテスの言葉を無視して、面倒くさそうに窓外へ視線をやっている。
「ちょっと、エルファスに変なこと教えないで」
 レインは開きっぱなしの入り口から、ノックもせずにズカズカと室内に入っていった。二人の間に立って、腰に手を当て仁王立ちする。
「変なことじゃねぇさ。女の子には優しく、って話さ」
「あんたに言われなくても、エルファスは優しいよ」
「……だから僕はこいつと同室は嫌だったんだ。朝から晩まで愚にもつかない猥談ばかりだ。反吐が出る」
 部屋が空いてなかったんだよ、とレインはかぶりを振った。ゼネテスとエルファスなんてどう考えたって水と油だが、だからといってエルファスを女部屋に泊めるわけにもいかない。
「それで、どうしたの? もう出発する?」
 長い銀髪を揺らしながら、エルファスが立ち上がった。月色の瞳でこちらを見上げてくる。
「いや、今日はもう休みにするよ。この雨だしね」
 それを伝えに来たんだ、とレインが言うと、ゼネテスはベッドに後ろ手をついて、天井を見上げた。
「まー、そうだろうな。――よしっ、ちょっくら酒場にでも行ってくるかね」
「まだ朝だぞ」
 呆れる――というより嫌悪感を丸出しにしたエルファスに、朝飯だよ、朝飯、とゼネテスは意に介する様子もない。
「坊っちゃんも一緒に来るかい」
「誰が行くか」
 エルファスは不快感を顕にしてゼネテスを一蹴し、レインの後についてくる。
「宿代、追加で支払ってくる」
 と言いながら、レインはエルファスを伴って部屋を出た。ゼネテスがニヤニヤ笑いながら、二人の背中にひらひらと手を振った。
「――まぁ、ゼネテスのことはともかく、宿代払ったらエステルも一緒に朝ごはん食べに行こう」
 騒がしい廊下を歩きながら、お腹へっちゃったよ、とレインは笑った。彼女の隣を歩きながら、うん、とエルファスは頷く。
 狭い階段を軋ませながら一階に降りる。雨宿りを求めて、一階の喫茶スペースや軒先にも何人かたむろしていた。金にもならないのに居座られて、女将の機嫌は悪そうである。
 延泊を告げて金を少しだけ余分に払うと、女将の機嫌は余分に払った金の分だけよくなった。これで、急に宿を追い出されることはないだろう。
 さて、それでは朝飯に出かけようかと、二人が二階へ戻りかけたときだ。宿屋の入り口を激しく押し開け、雨粒を飛ばしながら男が二人駆け込んできた。雨合羽からしずくを滴らせ、彼らはカウンターの奥にいる女将に詰め寄った。床をひどく濡らされた女将の顔が険しくなる。
「女将、ここに『勇猛なる稲妻』が泊まってるだろう。取り次いでくれ」
 階段に足をかけていたレインは、自分の通り名が聞こえてげんなりした。こういうとき、いい報せであることはまずない。無視して二階に上がろうとしたが――、
「『稲妻』さんならあそこにいるよ。あの、背の高いお姉ちゃん」
 女将がぶっきら棒にあごをしゃくった。雨合羽姿の男たちがこちらを振り返る。目が合うなり、血相を変えて駆け寄ってきた。
「あんた……あんた、『稲妻』かね」
 二人の男のうち、中年のほうが詰め寄るような調子で尋ねてきた。連れは年若い男で、こっちはおそらく丁稚だろう。
 そうだけど、と認めながら、レインはかぶりを振った。
「今日は休業だ。何の依頼も受けない」
「使いの者が帰って来ないんだ。もう予定から三日も過ぎてる上に、この雨だ。探しに行ってくれんかね」
「さっきも言ったが、今日は仕事はしない。よそを当たれ」
 レインは言い捨てて、エルファスの手を引っ張って階段を一段とばしで駆け上がった。男たちが慌ててその後ろを追いかけてくる。
「城塞都市跡に行ったんだ。あそこから怪我人を連れて帰れる冒険者なんて、いくらもいない。頼むよ」
「城塞都市跡ぉ? 何でそんなところに使いをやったんだ」
 足を止めて振り返ると、レインの上背に威圧されたように、男たちがたじろいだ。彼らもそれほど小柄というわけではないが、威嚇するような彼女の圧力に怯えている様子である。
 騒ぎが聞こえたのか、ゼネテスが部屋からひょっこり顔を出している。
 レインは少し声のトーンを落として、さらに威圧するように彼らを睨みつけた。
「……あんたら、酒蔵の人間か。タルモルゲの汽水を自分たちで取りに行ったね」
 男たちはしどろもどろに弁解にもならない言い訳をした。レインは呆れて大きく息を吐く。
 たまにこういう事がある。要するに、彼らは冒険者への依頼料をケチったのだ。怪物のはびこる遺跡の奥に湧く水を、身を守るすべを持たない人間が持ち帰るのは難しい。当然、冒険者を雇って護衛にするか、彼らに採ってきて貰う必要があるが、大抵の場合、賃金は高くなる。持って帰る品物の荷運び代が加算されるからだ。
 そこで、若い丁稚を送り込むことがあるが、こちらも多くの場合は道に迷ったり怪物に襲われたりして、帰還できなくなる。そもそも、こういう『何かものを持って帰ってくる仕事』は冒険者の仕事の中でも難しい部類に入る。素人が簡単にできるのなら、冒険者の仕事にはなっていない。
「だいたい、ギルドを通さない仕事はしない。まともな冒険者ならみんなそう言う。自業自得だ。ほかを当たれ」
 二人を置いて自室に戻ろうとしたレインの足もとに、男たちがばっとひれ伏した。汚れた床に額を擦り付けて這いつくばるように頭を垂れている。
 突然のことに、レインはぎょっとして後退りした。
「どうか……っ、この通りです。どうぞ、手を貸してください」
 中年の男がすがるように彼女の足に手を伸ばした。だが、その手がレインの靴先に触れるより先にエルファスの杖が、無慈悲に男の手を打ち据えた。男が火に触れたようにさっと手を引っ込める。
「レインに触るな」
 男たちは這いつくばったまま、怯えた表情でこちらを見上げてくる。エルファスを放っておくと、彼らをそのまま灰にしてしまいそうだ。
「エルファス、いいから」
 エルファスをなだめながら抱き寄せる。腕の中の彼は不満げだ。すると後ろから、おぉーい、とのん気な声がかかった。ゼネテスである。
「そろそろ場所変えねぇかい? いい加減、朝飯も食いたいしよぉ」
 ゼネテスの言葉にハッとする。騒ぎを聞きつけて、各部屋から野次馬が顔を覗かせている。どいつもこいつも、若い娘が男を土下座させている様子に興味津々といったところである。
「……わかった。話は聞く。場所を移そう。――ゼネテス、エステルを連れてきてくれ」
 あいよー、とゼネテスは癖のあるブルネットをガシガシかきながら、二つ隣の部屋へと歩いていった。


 話を聞くといっても、宿屋で話した以上のことはない。彼らはとある酒蔵の連中で、酒造りにタルモルゲの汽水が必要になった。いつもなら冒険者ギルドに依頼を出すのだが、決して安くない依頼料が惜しくなった。そこで酒蔵に勤める若いのを城塞都市跡にやって、連絡がつかなくなったのだ。
「――あんた、某酒造の番頭さんだね」
 飯屋の軽食を平らげて楊枝をぴょこぴょこさせながら、ゼネテスが目の前に座って脂汗をかく中年の男を指差した。
「あそこの若旦那とは飲み仲間でね。よく知ってるんだよ。旦那さんはこのこと知ってんのかい」
 番頭はボサボサの眉毛を八の字に下げて、うつむいた。脂汗を手ぬぐいで忙しなくふきながら、あぁ……だの、うぅ……だの、呻くばかりだ。
 その様子に、ゼネテスは頬杖をついて小さく息を吐いた。まぁ、知らねぇんだろうな、とくわえていた楊枝を取って、手の中でポキリと折る。
「あそこの旦那はまっとうな商売人だ。信用を落とすようなことは嫌う。あんたが勝手にやって、収拾がつかなくなったんだろ」
「……そのとおりでございます」
 番頭は見るからにしょぼくれてしまっており、何だか十も二十も老け込んだように見えた。一緒に来た丁稚の男が、居心地悪そうにこちらと番頭を見比べてキョロキョロしている。
「何だ。結局、欲をかいた自業自得ではないか」
 エルファスが汚物を見るような目を番頭へやった。番頭も丁稚も、いよいよ立つ瀬がない。
「金、金、金。お前たち商人は、金がすべてを解決してくれると思っている。お前が死地へやった使いの者を戻してくれるように、この金のコインに命じればよいだろう」
 エルファスがギア硬貨を指で弾いた。金貨は軽い金属音を立ててテーブルに落ち、その上を転がった。番頭の前に置かれた手つかずのティーカップに当たって止まる。カラカラと回ったあと、金貨は動かなくなった。
 番頭も丁稚も、うつむいたまま口をつぐんでいる。
「エルファス、もういい」
 レインが制すると、エルファスは腕を組んでそっぽを向いた。番頭たちに背を向けて、もう興味をなくしたような冷めた顔をしている。それを確認して、事情はわかった、とレインは番頭たちに向けて手をかざした。
「少し、みんなと相談する。席を外してくれ」
 ぜひ、よいように……――番頭は深々と頭を下げて、消えるような声でつぶやいた。それに合わせて丁稚の若い男が慌てて、同じように頭を下げる。番頭は立ち上がり、丁稚を促してとぼとぼとカウンターの方へと下がっていった。丁稚が何やら慰めようとしているふうだが、番頭は聞く耳を持っていない。丁稚を無視してカウンターの隅の席に座り、こちらを気にしてチラチラと振り返っている。
 二人が充分に離れたところで、どうする、とレインは口火を切った。
「個人的には、はっきり言ってあんまり行きたくない。雨の中、城塞都市跡まで行かなきゃいけないのがすごく嫌だ」
「城塞都市跡までは僕がテレポートで飛べる。――だが、僕は見捨てたいね」
 エルファスはツンとして言った。猫じゃらしに飽きた猫のような態度で、少し冷めたルーマティーを傾けている。
「ボクは、助けてあげたいかな」
 エステルが続ける。
「お使いの人がかわいそうだよ。早く助けてあげないと、死んじゃうかもしれない……。それは、やっぱりよくないよ」
 もう死んでるかもよ、とゼネテスが意地の悪い笑みを浮かべた。それに、エステルが一瞬、口ごもる。
「お、お葬式とか……」
「死体は担がないぞ」
 レインが嫌そうな顔をした。それにエルファスが言葉をつなげる。
「僕がその場で葬式を上げてあげるよ」
「もうっ、みんなひどい!」
 エステルが立ち上がらんばかりに声を荒らげた。彼女がドンッと両の拳でテーブルを叩くと、上に乗っている空の皿や茶碗がガチャンと鳴った。エステルは形のいい眉を吊り上げて、一同を見回している。
 冗談、冗談、とゼネテスがパタパタと手を振って笑った。それから、
「俺も個人的には助けたいな。やっぱり、知っちまったもんを放置するのは寝覚めが悪いぜ。――何より、この雨だ。他の冒険者連中も行きたがらないだろうよ」
 だったら――とゼネテスはエルファスを指差した。エルファスはちらりと視線をゼネテスに向けて、不愉快げにわずかに顔をしかめた。
「坊っちゃんのテレポートが使える俺らが行ったほうがいい――というのが俺の意見だが、まぁ、最終的な判断はリーダーに任すよ。レインの判断に従う」
 僕も、とエルファスが言った。
「行きたくないのが本心だが、君が行くというなら手は貸すし、手は抜かない。すべて君の意志に従う」
 エルファスはいつものように、満月めいた瞳をこちらに向けている。
 エステルも、アーモンドのような瞳をこちらに向けて、
「ボクは行きたいけど、でも、レインが行かないって言うならそれに従うよ」
 三対の目にそれぞれ見つめられ、レインは沈黙した。窓を見る。相変わらず外は薄暗く、鈍重な鉛色の分厚い雲が空を覆っている。少し雨脚が強くなったのか、ザァザァと音を立てながら雨が街を濡らしていた。飯屋の窓ガラスに打ち付ける雨粒を見ていると、何だか、もう二度と晴れの陽を拝めないような気分になってきた。
 レインはたっぷり考えて、ひとつ頷いた。
「……わかった。あの二人を呼んでくれ」




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