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あいしてはいけないよ



薄暗い室内で、シーツの塊が動く。
ひとりで眠るには大きすぎるベッドの上の住人は、まだまだ起きてくる気はないらしい。
すっかり朝と言える時間は過ぎ去って、もう間もなく昼食の時間だ。
さすがにこれ以上寝かせておくこともできないので、時間感覚を狂わせている遮光カーテンを潔く開いた。

「んー……、まぶしい…」
「当たり前だ、今何時だと思ってんだよ。おら、起きろ」

人肌に暖められた柔らかい掛け布団を剥ぐと、猫のように丸くなった黒い塊が姿を現す。
外気に触れた体が寒いのか、今度はだんごむしのように小さく丸まった。
ここで甘やかすといつまで経っても起きて来ないから、強引に体を引き上げる。
するといかにも不機嫌な表情で一応起き上がったこの家の主が、目元を擦りながら低く唸る。

「…俺まだ眠いんだけど」
「じゃあ昼飯は食わねぇんだな」
「………食べる」

どうやらすっかり俺の料理を気に入っているらしいこの男は、料理を引き合いに出せばある程度言うことを聞く。
今回も食べ物の魅力には勝てなかったのだろう、少し間を置いてから、結局起きる決断をしたようだ。
細い二本の腕がなんの躊躇いもなく伸ばされて、それを当然のように掴んで引き寄せた。
その勢いのまま首元にがっちりと抱きつかれて、人ひとり分の体重を受け止めた体が少し傾いた。

「おい、くっつくな」
「んふふ。良いにおい。今日はオムレツかぁ」

首にぶら下がった自分より小さい体を引きはがし、床に下す。
ふにゃふにゃと柔らかい黒髪が鼻先を擽ったせいで、くしゃみが出てしまいそうだ。

「もうすぐできっから、顔洗ってこい」
「うん。おはよう、シズちゃん」
「―――おう」

寝癖でつんつんと立ったままの髪を数度撫でつけてやってから、その姿を見送ってキッチンに戻る。
慣れ親しんだキッチンに立つと、自ずと染みついた動きをリピートするように手が動く。
いつまで経っても拭えない違和感がしこりとなって残っているのに、体の機能は今日もいたって正常だ。

一つ、朝は甘やかさない
一つ、食事はなるべく一緒に摂る

プログラム通りの行動を、俺は毎日ただ繰り返す。
普段は横暴な態度で、目元はきつく吊り上げて、束の間微笑む。
言葉はぶっきらぼうに、けれど絶対に嘘は吐かずにありのままを稚拙な言葉に込めて。
できるだけ優しく、だけど時々は喧嘩をして、喧嘩の後はためらわずに抱きしめる。

俺を支配し、形作るプログラム。
それを忠実に守ることが与えられた役割であり、唯一俺にできることだ。
そこに”俺”という自我や存在は必要ない。
全ては、”平和島静雄”を模して創られたプログラム。
“平和島静雄”が叶えられなかったことを、代わりに現実のものにするためだけに、俺はここにいる。
だから俺は、”シズちゃん”ではない。

「シズちゃん、ご飯できた?」
「待ってねぇでちょっとは手伝え」
「はーい」

すっかり眠気は飛んだのか、上機嫌で食器類を食卓に並べる黒い頭が、視界の中でぴょこぴょこと跳ねる。
目まぐるしく変化する表情を追い掛ける視線に、熱が籠る。
嬉しそうに自分の作った食事を頬張る姿を、大切にしたいと思う。
大切にしなかった静雄を、なぜだと罵ってやりたい。
俺ならば静雄のようにはしない。俺ならば、もっと優しくしてやれるのだと。

それが本当に俺自身の感情なのかと問われれば、自信はどこにもなかった。
そう思うこと自体、俺に組み込まれた単なるプログラムに過ぎないのかもしれない。
考えることができる己の機能を、この時ほど呪ったことはなかった。
疑うことなく、純粋に愛してやれたならどんなによかっただろう。

「やっぱりシズちゃんの手料理は最高だねぇ。伊達に一人暮らしはしてなかったってことだね。正直君に料理ができるなんて、これっぽっちも信じられなかったんだけど、その辺のレストランよりよっぽど美味しいよ」
「そりゃあどうも。いいから黙って食え」

良く滑る口を窘めて、形ばかりの食事を摂る。
甘い、辛い、熱いといった感覚も、美味い不味いの判断も、人と同じように働くことがせめてもの救いだ。
俺の中にある思い出と名のつくものも、愛しいと感じる気持ちもすべて静雄のものだけれど、この感覚は確かに今、俺だけが感じているものだから。

「ちょっと、そんな仏頂面でご飯食べて不味くならないわけ?もっと美味しそうに食べなよ」

テーブル越しに身を乗り出し、指先で眉間を突かれる。
突然のことに目を丸くすると、驚いた様子の俺にしてやったりと笑う。
こんな風に底抜けに明るい笑顔をしたこの男の姿は、俺の記憶の中にはない。

静雄はきっと、見たことがなかったのだ。
いや、自らの意思で見ないようにしていたのかもしれない。
後戻りできなくなることを恐れて、腕の中にあるものを抱きしめて逃がさないように囲うことができずに、逃がしてしまった。

「悪かったな、元々こういう顔なんだよ」
「笑ったらイケメンなのに、勿体無いねぇ。まあ、へらへら笑ってるシズちゃんとか気持ち悪いから笑わなくていいけどね。調子狂うし」

ごちそうさま、と両手を綺麗に合わせて皿を揃えると、自分の食器を持ってシンクに向かう。
後を追って運ばれてきた食器を受け取って、二人並んで食器を洗う。

何気ない日常を、淡々と繰り返す日々が一体いつまで続くのか。
連綿と続く毎日の中に埋もれて、徐々に感覚が鈍っていくことが怖い。
だから俺は時折、俺の中にある触れてはいけない部分にあえて触れる。
あるはずもない胸が痛む苦しさも、その痛みをいっそ愛おしいとさえ思うことも、俺の感情じゃない。
じゃあ俺はいったい誰なんだと何度も自問自答しては、答えを出すことは決してしない。
そうでなければ、俺はそばにはいられない。
笑わせることも、泣かせることも、結局のところ静雄でなければできなかったのだ。
このプライドが高く、誰にも本当の自分を曝け出すことなどしない男が、甘えたり、本心を語ったり、ありのままに生きるには、静雄でなければならなかったのだ。

「シズちゃん、膝貸して」
「…また寝るのかよ」

柔らかな光がふわふわと漂うリビングで、今日も穏やかな時間が過ぎていく。
紅い瞳がゆっくりと閉じられて、程なくしてゆるやかな呼吸音が響く。
思わずその頬に手を伸ばしそうになって、寸でのところで我に返った。

膝の上に預けられた無防備な重みが、じわりじわりと俺の思考を泥沼に引きずり込む。
それでも俺は俺を忘れたふりをして、平和島静雄を演じて生きる。
決してこの男が俺の名前を呼ぶことはない。
けれどそれでいい。そうでなければいけない。

あいしては、いけない。



***



背もたれに首を預けて、静かな寝息を立てる男をじっと見上げた。
しばらく見つめてすっかり眠りについていることを確かめると、そっと起き上がる。
そうして、少し癖のある長い襟足の傍から除く白い項に、指を這わせた。

(T、S、U、G、A、R…)

並んだアルファベットを一つずつ辿り、反芻するけれど、決して言葉にはしない。
無機質に並んだこの文字を音にするということは、この日常が崩れ去ることを意味している。
今の俺に、そんな勇気はこれっぽっちもない。
居心地の良いぬるま湯のような日々に慣れきってしまった体が、怯えるように指を引っ込めた。
もう何度こんな馬鹿げたことを繰り返しているのか、数えることはとっくに止めてしまった。

いつからだったのかなんて、分からない。
それは本当に少しずつ、緩やかに緩やかに変化していったのだ。
わずかに触れた指先の優しさから始まって、一緒にご飯を食べるようになって、夜を二人で跨ぐようになって、気が付くと関係性がすっかり書き換わってしまっていた。
欲を吐き出すだけの乱暴なセックスも、瞳の奥に見え隠れする罪悪感も、初めから何もなかったかのように。

だから今度こそ、やり直せると思った。
同じ過ちは繰り返さない。絶対に手放したりしない。
くだらない感情に邪魔されて、本当に大切なものをみすみす失うのはもうごめんだ。
あの時できなかったことを、今度こそ叶えると決めたのだから。

(分かってる、分かってるけど!)

失敗できないと分かっているけれど、どうしてもうまくいかない。
日に日に恐ろしい速さで、まるでウィルスに侵されたように身勝手な感情が膨れ上がっていく。

おれは、平和島静雄を愛さなければならない。
それなのに、おれは今どうしようもなく、この男に愛されたいと願っている。
優しく微笑む瞳と、触れる大きな手のひらを、自分だけのものにしてしまいたいと。

「……ねえ、おれはどうしたらいい?臨也くん…」

答えをくれる君は、いない。




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