酸




「蓮二さん」


 いつからそう呼ばれるようになったのか、定かではない。

 前の大会の時は確かに「柳さん」だったと記憶しているから、今月に入ってからということになるのか。


「蓮二さん!ちょっと聞いてくださいよ~!」

「どうした、赤也」


 微笑みながら、まるで母鳥が雛を抱え込むような仕草で、蓮二は赤也の髪を撫でた。

 赤也は擽ったそうに肩をすくめて、何事かを語りかける。



「真田ァ!よそ見してっとボールぶつけるぞぃ!」

「むっ…!」


 そう言われ、慌ててボールを返したが、上がったロブはあえなく丸井の餌食となった。


「ヒュ~!天才的ぃ!」

「ちっ……」


 コート整備をしても取りきれなかった水溜りに、思いきり足を取られる。

 靴に、ユニフォームに、泥が跳ねた。

 蓮二は、こちらを一瞥すると、すぐにまた隣に居る赤也の方へ向き直った。


「……」


 顔にまで跳ねていた泥を手の甲で拭う。

 触れた先から、じくじくと溶けてゆくような感じが、いつまでも消えなかった。

 




 『蓮二』


 花の名を冠した、その名前。

 初めてそう呼んだのは、いつだったか。

 言っても喜ばんだろうから口に出したことは無かったが、耳障りの良い、字面も綺麗なその名前を、ずっと好ましいと思っていた。


「蓮二」

「何だ、弦一郎」


 呼べば、柔らかく返してくる声。

 振り返る仕草。


「どうした?」


 眉間に寄る皺も、首を傾げる様子も、ふとしたときに漂う香りも。

 蓮二を形作るすべてが、俺にとっては、


「おい、何だと聞いているんだ」

「痛っ…」


 突然、頬を抓られて驚いた。


「何だ。何をする」

「それはこちらの台詞だ。人のことを呼んでおいて、無視とは一体どういう了見だ」

「……呼んでいたか……?」

「ああ。どうかしたのか?ぼんやりして」

「いや、すまん。なんでもない」

「話を続けても構わないか?」

「ああ、何の話だったか」

「だから、赤也だよ。新しいメニューを考えてみたんだが、どうかな。あれにはまだ時期尚早か」


 蓮二は、面白くてたまらないといった表情を隠しもせず、ノートを取り出してパラパラと捲った。

 その指先が、白くて長ければ長いほど、


「……少し、甘やかしすぎではないのか」


 また、俺の何かがドロドロととろけてゆきそうになる。


「そうかな。まあ、みるみる伸びてゆく様は面白いからな。飽きが来ないし」


 そんな顔で、語るな。


「赤也は、もっと様々なプレイスタイルを身につけるべきだな。視野を広くした方が良い」


 その唇で、俺以外の名前を呼ぶな。


「蓮二」


 俺以外に、その名前を呼ばせるな。


「ん?」


 その目で、……


「……」

「…弦一郎」

「あ?」

「…後輩に嫉妬してどうする」

「……なんだと?」

「無自覚なのか?まあ良いが……あまり怖い顔をするなよ。男前が台無しだ」


 蓮二の、蜜のように透き通った目玉からとろりと視線が零れ落ちて、


「っ……」


 またも、俺の心を焼いた。






『酸』 終わり  







ついでに一言あればどうぞ(拍手だけでも送れます)

あと1000文字。