暦で言うならば、じっとりとした夏の暑さが深まる頃。
 と言ってもカルデアは年中気温やら湿度やらが完璧に整えられた空間である。
 一年のどの季節であったとしても、人が快適に過ごしやすい温度で整えられている。
 肌にまとわりつくような湿気も、頭皮を焦げ付かせるような炎天下も、無縁だ。
 が、逆になくしてみれば恋しくなるというのが人間である。
 そんなわけで。
 ありとあらゆる環境に適応することを求められるのがマスターなのだから、無菌室めいた環境にばかりはいられないだの何だのと理由をつけて、季節の「らしさ」を求めてレイシフトするのが恒例行事となったのであった。

「やあ、今日も暑かったねえ」

 そう一人ごちて、にこにことビールを空けているのは龍馬だ。
 一次的な拠点となる古い民家に戻ってきた夕べのことである。
 マスターの時代では少し古く、祖母や祖父の家といった風情の民家は龍馬にとってもどこか馴染がある。
 庭に面した縁側に腰掛ければ、庭に並べられた盆栽の棚の向こうに赤々と沈みゆく夕日の名残が雲間を未だ鮮やかに染めているのが見えた。
 天の高い位置はすっかり紺色に染まり、そこでようやく吹き抜ける風に涼を感じるようになる。
 そこにぺたり、と足音が一つ響いた。
 縁側に腰を下ろしたまま首だけで振り返った先には、先に風呂に入ってすっきりしてきたらしい以蔵がむくむくとした犬を抱いて甚平姿で立っている。
 濃紺のさらりとした木綿生地がよく似合っている。
 さすがに仕事を終えた後でまで、あの念入りに着込んだ袴姿ではいたくなかったのだろう。
 かくいう龍馬だって、海軍服のジャケットはどこぞにひっかけたきりだ。
 霊基を編みなおせば戦闘で得たちょっとした怪我や傷程度なら癒してしまえるものの、せっかく夏を堪能しにきたのだ。
 火照った身体に浴びる温めのシャワーの心地良さは外せない。
 本来ならばいくらでも足音を殺せる以蔵であるからにして、響いた足音は先ぶれめいた気遣いだろう。
 それには素知らぬそぶりで、龍馬は喉元のボタンをいくつか緩めて手ではたはたと仰ぐようにして風を送った。
 
「以蔵さんもどうだい。ビール、冷えてるよ」
「おまんにしちゃあ気が効いちょるのお」

 揶揄うように言いながら、龍馬の隣に以蔵がどっかりと腰を降ろす。
 ふわりとほのかに石鹸の香りが漂う。
 日頃は二人して飲むなら日本酒が多いのだが、この季節、この暑さには冷えたビールが何より美味い。
 以蔵など、最初は馬の小便みたいだの、苦いだの、シュワシュワが気に入らんだのと文句を言っていたが、いつの間にか当たり前のように飲み干すようになった。
 氷を浮かべた桶の中で冷えているビール瓶をからりと一本引き抜き、以蔵へと差し出す。
 ビール瓶の隣にぷかりと浮いているのはまるまるとしたスイカだ。
 
「マスターはどういた」
「地元の夏祭りだって。お竜さんたちが一緒についていってるよ。僕たちも行く?」
「……風呂も浴びたんに、人込みに出るのはちっくとたいぎぃの」
「それじゃあ、僕らはここで夕涼みといこうか」

 二人して縁側に座り、涼しくなり始めた風に目を細める。
 遠くから、微かに祭り囃子が聞こえる。
 懐かしい音だ。
 あの独特の縁日の空気を嗅ぎにいきたいような、この夕暮れの中にとどまっていたいような不思議な心地に龍馬は口の端で苦く笑う。
 きっと、祭囃子に駆け出したくなるのは良い思い出に心惹かれているからだろう。
 まだずっと幼い頃、三つも年下の癖に龍馬よりもしっかりしていた以蔵に手を引かれて神社の境内の思い出だ。
 提灯の赤々とした光に、三味線と太鼓の音色、頬が落ちるほどに甘い飴……。

「おいこら、雑巾犬、庭に降りるなや! 誰が足を洗ってやったと思っちょるがじゃ!」


 懐かしい思い出に浸りかけていた龍馬の意識を引き戻したのは以蔵の声だった。
 ひゅんひゅんと鼻を鳴らしているむくむくの子犬を腹の前に抱えている。
 庭に降りようとしたのを抱えることで阻止した、というところらしい。

「えいえい、おまんはそこにいいや」

 片腕を緩く子犬の腹に回し、以蔵は手慰みのようにわしゃわしゃと撫でてやっている。
 もう片手で呷ったビールの瓶から滴った冷たい結露がむくむくの子犬の毛並みに吸い込まれて、ヒャウンと情けない悲鳴があがる。
 それにケタケタと笑って、すまんすまん、なんて言いながら以蔵はごまかすように濡れた毛並みをまた撫でる。
 戦闘時には獲物を狙う猛禽のようにギラつく琥珀の双眸が今は優しくまろく、眇められている。
 そのいろが好きだと思った。
 かつて、以蔵は龍馬にも同じいろの目を向けていた。

「以蔵さん、覚えてる?」
「なんじゃ?」
「昔さ、神社のお祭りに行ったろ」
「あ~……あったあった」
「その帰りに僕の草履の鼻緒が切れちゃってさ」
「……それも覚えちょるぞ。おまんがぴーぴー泣きよるから、わしがおぶっちゃるハメになったんじゃ」
「そうそう」

 以蔵は口では泣きなや、と叱るように言いながらもそれでも龍馬をおぶって家まで連れ帰ってくれた。
 暑い重いとブツブツ文句を言いながらも、龍馬を背から下ろしはしなかった。
 その時に見たいろだ。。
 しょうのないやつだ、と言いながらも優しく許すいろ。

「…………」

 龍馬は傍らにビールの瓶を置く。
 それから腕を伸ばして、以蔵の膝に収まっていたむくむくの子犬をひょいと抱き上げた。

「どいた」
「うん、ちょっと」

 子犬を自分の腹の上にのせて、そのままごろり。
 龍馬は身体を横に倒してその頭を以蔵の膝の上に乗せる。

「何しゆう」

 ゴン、とちょっとばかり強めにビール瓶の底が龍馬の額に乗った。

「痛いよ」
「痛くしたんじゃ」

 ごりごり、とビール瓶の底を自重で押しつけられる。
 叩きつけることだってできるのに、じゃれる程度の抗議で済まされているのはきっと許されているからだ。
 ふくく、と喉で笑って龍馬は目を閉じる。

「おまんはほんま好き勝手しよって……」

 呆れたような言葉が頭上から降ってくる。
 額の上の冷え冷えとした感触が遠のく。
 ぽたりと顔に落ちる冷たい雫。

「しょうもないやつ」

 額に落ちた雫を律儀に拭うついでに、大きな掌がわしゃりと龍馬の頭を撫でていった。
 あの頃と同じいろで。



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