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神様とちび栄純。





『おにいちゃん、だれ?』
こぼれ落ちそうな大きな瞳に俺を映して、まだ言葉もたどたどしい幼な子が不思議そうに俺を見上げた。
ぐしゃぐしゃと頭を撫でてやれば警戒心のかけらもなくはしゃいで飛び跳ねる小さな体。
間違いない。『見える』子供だ。何年ぶり、いや何十年ぶりだろうか。
『みゆき?』
舌足らずな幼い声で呼ばれた自分の名は、驚くほど温かくやわらかく胸に響いた。
それは今思えば予感だったのかもしれない。


■□


「……疲れたー」
ポツリと漏らした愚痴ともつかぬ独り言は天井に跳ね返ってそのまま消えた。
最近独り言が増えた原因は明らかにあの子供だ。話し相手がいると口がよくまわるようになるらしい。
誰もいない本殿に寝そべりちびちび酒を呑みながら、久々の体の感覚を持て余す。神事の後の脱力感が年々ひどくなるのは歳のせいか。
床の上をゴロゴロと転がって空を見上げれば、中天の太陽が少し傾いたのが雲を通してでもわかった。もうじき栄純が帰ってくる時間だ。
この春から幼稚園に通いはじめた栄純は、帰ってきたら自分の家の敷居をまたぐより先に「ただいま!」とこの本殿に駆けこんでくる。
それを「おかえり」と抱き上げるのがここ最近の俺の日課で、そうしたらお日さまや汗や土埃の匂いのする幼な子は自分にしがみついて必ずこう聞いてくる。
『御幸、さびしかった?』
入園前、「御幸がさびしがるからいかない」と大泣きして両親を困らせた栄純をなだめるために、「幼稚園であったこと、俺にも全部教えてな?」と指切りをした。
それを毎日律儀に守り、朝のおはようから帰りのさようならまでの幼稚園での出来事をひとつ残らず教えてくれる子供のおかげで、俺は年少りす組の内情に誰より詳しい。
あっちこっちに話が飛ぶ栄純のおしゃべりは俺の密かな癒しだが、帰って来た栄純は今日はきっと俺に寄りつかない。
――神事の後の俺の姿をあの子供が目にするのは、今日が初めてだから。


午前中に執り行なった夏越の大祓は年間行事の中でも重要なものの一つで、けっこうな体力というか気の力を消費する。
さすがに本来の姿に戻っての一仕事になるが、やっかいなのはその後丸一日はいつもの『省エネモード』に戻れないことだ。
まあ別にしっぽや羽が生えたりするわけでもなく、外見は髪と目の色が変わるくらいのものだが、問題はまとう気の量が桁違いに大きくなってしまうところにある。
過去に何人かいた、栄純と同じく俺が見えていた子供たち。普段は屈託のないその子らが、そのときばかりは一様に俺に近づくことさえ嫌がっていた。
「震えるほどに怖い」んだそうだ。
「……」
自然に大きなため息が漏れたのはしかたない。自分を怖がる栄純を想像しただけでわりと本気で心が折れそうになる。
いっそ元に戻るまで姿を隠してしまえばいいのかもしれないが、帰ってきて俺の姿がなければ、あの子供はそれはそれで泣いてしまうだろうし。
それに、参道を駆けて一直線に近づく小さな足音を、俺の耳はもうとらえている。
砂利を蹴散らしながら全力で走ってくる小さな足音。もういつもとは違う俺の気を感じているだろうに、ゆるまない、止まらない。
それを不思議に思って体を起こせば、ちょうど階に到着した黄色いベレー帽の園児が、ぜいぜいと息を切らせながらまんまるな瞳で俺を見上げていた。
「……みゆき?」
床に手をついて身を乗り出し、元から大きな目をさらに見開いて自分を映すその目の中に恐怖や嫌悪の色はない。
あるのはただ驚きと、それから。
「かっけー!」
「……はい?」
「御幸ピカピカだ! 変身したのか!?」
靴を砂利の上に脱ぎ飛ばして本殿に上がり、間近で俺を見上げさらに目を輝かせる。大興奮だ。
「すげぇきれい!」
「……おまえ、俺が怖くねぇの?」
「なんで?」
心底不思議そうな、警戒心のかけらもないへにゃりとした笑顔。いつもの栄純。
それがやけに胸にじわりと温かくて、ほんの少し泣きそうで。ごまかすようにいつもより少しだけ勢いよく抱き上げたら、きゃっきゃと無邪気な笑い声が上がった。
「御幸、さびしかったか?」
「……さびしかったよ。けど、栄が帰ってきたからもう平気」
「へへ!」
何十年ぶり、……いや、初めてかもしれない。
人をこんな風に優しく抱きしめたいと願ったことは。
腕の中の柔らかくて温かな重み。額を合わせて嬉しげに笑うこの子供に湧き出してくる感情は、何百年と生きてきたはずの自分でも知らない色をしている。
たまにどうしていいのかわからなくなるくらいに。
「おれ、ずっと御幸といっしょだからな!」
「栄は俺のお嫁になるんだもんな」
「うん!」
それが溢れるほどの愛しさだということも、十年後には少しばかり違う形に姿を変えていることも知らないまま。
ぷくぷくの頬に落とした「おかえり」にくすぐったげに身を捩った子供は、満開の笑顔のまま、俺の額に小さな唇で「ただいま」を返した。











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