(カーニヴァル:燭+花礫)
カシャカシャと言う音が、何処からともなく聞こえて来る。何の音だろうか、とは露程も思わない。きっと、キッチンで何か作っているのだろうと言う予想が直ぐにつくからだ。そうやって直ぐに思えるようになるぐらいには、これに近い音を何度も聞いている。
 しかし、今日のそれは何時も聞いているものとは少し異なっていた。こんなにも硬質な音は、今まで聞いた事がないような気がする。少し気になって身体を起こせば、少し離れた所から神経質そうな声が聞こえて来た。その声に、ぱちりと音を鳴らしながら一つ瞬きをすれば、今度はぱたぱたと言う音が聞こえて来る。その場で見上げれば、淡い桃色に薄くセピアを流し込んだような色合いをした髪が見えた。
「なんだ、起きていたのか」
 問いともつかないような言葉に、それを向けられた子ども――花礫は、一つ肯く事で返事をした。花礫はよく理解出来ない事であるが、この目の前でエプロンを着けて手を動かしたまま近付いてきた医師――燭の言葉遣いは、花礫のような幼い子ども相手に向けるものではないらしい。らしい、と言うのは、此処に時折遊びにやって来る人たちが、そう言って来るのを単に聞いていたからだ。花礫にはこの言葉遣いで話される事が日常であるため、そう言われた所で「ふーん」と思うだけなのだが、今日も変わらず慳貪とも取れるような話し方をする燭に、結局特に何も思う事なく返事をする。
「出来上がるまで、もう少し掛かる。まだ寝てても良いぞ」
 昼寝するのも子どもの仕事だ、そう続ける燭に、今度は素直に肯こうとは思えなかった。確かに数分前まではソファーの上で横になっていた。眠る前までは本を読んでいたのだが、途中で睡魔に耐えられなくなったのだ。そのため、仕方なしに本を閉じて横になっただけであり、本当ならば寝たくはなかった。眠るのが嫌いと言う訳ではないが、どうしても本を読むよりは重要度が下がるように思えてしまうからだ。だからこそ、そう言われたからと言って再び横になる気にはなれなかった。かと言って、テーブルに置いたままになっている本を手に取る気にもなれない。
 身体を起こした際に、はらりと離れて行ったブランケットを畳んでソファーの上に置き、花礫はキッチンへと戻っていく燭のあとを付いて行く。眠る時には羽織っていなかったブランケットに、さりげなく不器用な優しさを向けてくる燭の事が嫌いではないと思いながら、花礫はその足許を見ながら付いて行く。花礫の身長では、こうしてその後ろを歩くと燭の足しか見えないのだ。随分な身長差に、早く大きくなりたいと思っていれば、燭が足を止めた。不意に視線を感じて花礫が頭上を見遣れば、燭と目が合う。
「何だ、寝ないのか?」
 珍しく少し眼を丸くした燭の言葉に、花礫は再度肯いた。これ以上寝ているのは勿体無い。その上、もう睡魔もないとなれば何かした方が良い。尤も、それはこじつけの理由であり、本当は燭が何を作ろうとしているのかが気になって仕方がなかったために、こうして起きて来たのだが。燭ならば、きっとそれに気付いた所でからかっては来ないだろう。時折此処に遊びに来ている朔と平門が相手となるとこうはいかないが、燭相手ならば問題ないと思い、花礫は小さく口を開いた。
「……何、作んの?」
 燭の隣に並び、高い調理台の上を見ようと背伸びをするが、ボールの側面が見えるだけで、他には何も見えない。これでは此処まで付いて来た意味がない、と花礫が眉間に皺を刻めば、頭上から小さな笑い声が聞こえて来た。花礫がむすっとして燭の方を見遣れば、そこにあったのは酷く優しげな笑みだけであり、不機嫌に下げていた口角が自然と上がっていく。その表情の意味を測りかねて花礫が小さく口を開いていると、「少し待っていろ」と言い残して燭がキッチンから出て行った。何処に行ったのだろうか。あとを付いて行きたかったが、待っていろと言われた手前、此処を動く訳にもいかず、花礫が手持無沙汰にその場で待っていると、燭が急ぎ足で戻ってきた。その手には小型の踏み台がある。
「これに乗れば、お前の身長でも問題ないだろう」
 燭が立つ直ぐ傍に置かれたそれに恐る恐る登れば、丁度ボールの中身が見えた。
 中に入っていたのは、よく解らないどろりとした薄黄色の物体だった。甘い香りがそこからするが、それが何物なのかが全く解らずに花礫がぱちりと瞬きをすると、燭がボールに入れたままになっていた泡だて器を手に取った。カシャカシャと言う音が再び聞こえてきて、中身が混ぜられる度に甘い香りが立ち上って来る。
「そう言えば、パンケーキを食べさせた事はなかったか」
 だから、解らなかったんだな、と微かに笑みを浮かべながら中身を混ぜ、生地の具合を時折確かめている燭は、それならば仕方がない、とまた笑うと泡だて器を止めた。ヘラでそれに付いた生地をボールの中に落とし、シンクに泡だて器を置くと次はお玉を手にする。
「今から火を使う。少し離れた所から見ていなさい」
 それと、とそこで言葉を止めると、燭は花礫の頭を一撫でした。髪がくしゃりと音を立てる。花礫が小首を傾げながら燭の方を見遣れば、矢張りそこには優しい笑みがあって、心にぽっと温かな灯かりが点ったのが花礫には解った。
「これは出来てからのお楽しみだ。あと少しだけ待っていろ」
 そう言うと、燭は熱してから一度冷ましたフライパンに生地を流し込んだ。今から作る物はどうやら「ぱんけーき」と言う物らしい。生地が熱せられる度に、甘い香りが強くなる。甘い物と言えば、おやつだと言う認識のある花礫からすれば、それが三時のおやつに食べる物なのだろうと言う事ぐらいしか解らないが、燭が手付き良く生地を返している所を見るのは至極楽しかった。
 ほかほかと湯気を立てる「ぱんけーき」に、花礫が視線を釘付けにしていると、燭がそれを皿に盛り付け、その上にたっぷりとメイプルシロップを掛けた。そして、その上に一かけバターも乗せると、パンケーキが数枚重なった皿を持つ。因みにもう一皿用意されていたパンケーキの方には、チェダーチーズが乗っている。
「さ、出来たぞ」
 フォークとナイフを二本ずつ持っておいで、と言いながら、二枚の皿を器用に持った燭が、先にダイニングへと戻っていく。言われた通り、引出からフォークとナイフを二本ずつ持って、花礫は燭のあとを追った。燭用の大きめの物と、花礫用の小さめの物。テーブルにコトッと言う音を響かせながら皿を置いている燭に、燭用のフォークとナイフを渡せば、有難うと柔らかで温かな声が聞こえて来る。自分用にと持って来ていたそれを手に持ったまま、花礫が席に着けば目の前の席に燭が腰掛ける。
「これが、ぱんけーき?」
 燭と一緒に両手を合わせ、いただきますと言ってから、右手にナイフ、左手にフォークを持って皿に顔を近付けた。ほかほかと湯気が立つそれからは、甘い香りが立ち昇っている。さしてお腹は空いていなかった筈だったが、その匂いに腹の虫がぐーっと鳴った。微かに羞恥を感じていれば、燭がくすりと笑い声を上げたが、そこにからかいの色は含まれていない事に安堵し、花礫は少し間誤付きながらパンケーキを一口大に切るとそれを大きく開いた口へと入れた。はぐはぐと噛み締めれば、口いっぱいに甘い味が拡がって行く。メイプルシロップだけではなく、パンケーキ自体も甘いからか随分な甘さなのだろうが、一かけら乗せられているバターが少ししょっぱくて、甘じょっぱい味が花礫の頬を自然と緩ませた。
「美味いか?」
 目の前で花礫と同じようにパンケーキを食べている燭が、花礫の方をじっと見遣っていた。花礫が緩んだ表情のまま一つ肯けば、普段は険しい顔をしている事の多い燭の眉がくたりと下がった。小さく聞こえて来た「良かった」と言う言葉に、花礫はぱちりと瞼を鳴らす。普段から尊大とも言えるような態度である事の多い燭だが――尤も、その態度に見合う実力も功績も持ち合わせているのだが――そんな燭でも多少は不安に思う事があるのだと思えば、少し不思議な気分になる。
「燭」
 フォークを皿の上に置いて、花礫はパンケーキに向けていた視線を上げた。真っ直ぐに燭を見て、そして口を開く。
「パンケーキ、美味いから……」
 ――だから、また作って。
小さく呟くようにそう言えば、燭の目が満月のようになった。しかし、それは直ぐに細められて、弓なりになった口許から優しい声色が零れてくる。金平糖のようにころころと、それは花礫の方に転がって来て、辺りが甘い香りで埋め尽くされていく。花礫が肺一杯にその香りを吸い込めば、身体がぽかぽかとするようで、優しさと言うものは温かなものであるのだと、ひしと感じた。
「お前が気に入ったなら、何回でも作ってやろう」
 それまではフォークを握っていた燭の手が、気付けば花礫の髪へ伸びていた。ぽん、と乗せられた手が、そのまま花礫の髪を撫でる。何度も何度も厭く事なく往復するその手に、思わず擦り寄ってしまいたくなるのを耐えていれば、温かな掌がゆっくりと離れて行った。それが何とも惜しくて、花礫が反射的に口を尖らせれば、その口許にパンケーキが寄せられる。それは、燭が食べていた方のチェダーチーズが乗った物で、微かに笑んだ燭が何も言わずに差し出してくるそれに口を開けば、パンケーキが口の中に放り込まれた。
「どうだ?」
「……こっちも美味い」
 口をもごもごとさせながら花礫が応えれば、燭はそうか、と言って少し面に喜色を浮かべた。それならば、今度作る時はこっちにしよう、と常よりも随分と楽しげな様子を見せ、先刻までと同じようにパンケーキを食べ始めた燭に倣い、花礫も目の前にあるパンケーキにフォークを差す。ぱくり、と口に放り込めば、矢張り変わらず甘い味が口いっぱいに拡がった。きっとこれが美味しいのは単に燭の腕が良いから、と言うだけではないのだろう。そこに優しい想いが籠っているからこそ、このパンケーキはこんなにも美味しいのだ。
常と変わらないおやつの時間だが、何故か今日は特別なものに思える。その理由は解らなかったが、目の前にあるそれが幸せの象徴に思えて、花礫はまた一切れそれを口に放り込んで呟いた。
「……美味い」





「ハッピー・パンケーキ」
(少し特別な今日のおやつ)



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