ここ最近の私は、とある不満を抱えている。
 私は気の長い方ではない。他人の動向にはあまり興味がないが、こと自分に関わる事象となればその一挙一動が気になってしまうし、それが自分を否定するものであれば我慢などできぬ性質だ。
 とはいえ、他人の言動にいちいち目くじらを立てるような心の小さい人間ではないと自負しているし、実際そのように行動している、と思う。
 私のそばには言葉をあやつること、特に嫌味を並べることについては誰にも引けを取らないであろう男がいる。そう、不満というのは、ほかでもない川瀬のことについてだ。

「ねえ、この店に来たのは俺とが初めて?」
 また始まった。私はもはやうんざりしきった表情を隠そうとすることすら放棄していた。テーブルを挟んで目の前に座った男から放たれた、その問いに答えぬまま私は台に置かれたカルスピに口を付ける。甘い。なかなかの割合だ。思わず口元に笑みが漏れる。ひとつ頷いて顔を上げると、頬杖をついた川瀬の剣呑な二つの瞳が、こちらをじっと見つめていた。
 はあ、とこれみよがしなため息をついてから、初めてだ、と吐き出すように答えた。
 すると川瀬から剣呑な光は消え、そう、と言って明らかにその頬が笑みに綻んだ。何事もなかったかのように、川瀬も目の前に置かれたカップに手を付ける。湯気の立つそれを一口啜ると、まあまあだとでも言いたげに小さく鼻を鳴らした。

 曰く、私の不満というのはコレだ。
 最近の川瀬はまるで口癖のように、初めてかどうか、を尋ねてくる。何から何まで、やること為すことすべてにおいて、と言っても過言ではないほどだ。
 今日はもともと外食をする予定ではなかった。新作の構想を練るためにぶらぶらと街を歩き回っていたところ、帰宅途中の川瀬と行き会った。この近くに新しいカフェーができたというので偵察がてら来てみたというわけだ。
 この初めて問答は、行く場所のみに限らない。たとえば、話題の活動写真に流行りの観光地は俺とが初めてか、服を買えばこの色を着せたのは自分が初めてか、料理をして奴の帰りを待っていれば、人のために作ったのは初めてか、などとのたまう。
 最も腹立たしかったのは一昨日の夜だ。すでに寝床に入っていた私の横に後から入ってきた川瀬は、私の顎を持ち上げて口づけてから、ああと思い当たったようにこう言ったのだ。
「キスは、聞かなくても分かるけど、俺が初めてだよね?」
 質問ですらなかった。断定だった。その言葉で完全に臍を曲げた私は、布団を奪ってその中に籠城した。寒がりな奴への、私の精一杯の抗議だった。しかしそんな些細な反抗など意にも介さず、あっさりと布団は剥ぎ取られてしまった。その後の展開はご想像にお任せする。

 とにもかくにも、この毎日続けられる初めて攻勢に私はうんざりしていた。だいたい、初めてだからどうだというのだ。川瀬の問いに応と答えると、奴は決まってニイッと口角を上げる。喜んでいるのか経験の浅い私を蔑んでいるのか知らないが、気色が悪い。問いに否と答えると、見るからに不機嫌そうに顔を歪める。初めてでないことの何が気に入らないか知らないが、この時はなんとも居心地が悪い。
 二人並んで帰途につきながら、私の頭の中は隣を歩く彼への不満でいっぱいになっていた。

 現在は私の帰る家ともなっている池田邸に帰り着く。居間の明りを点けると、川瀬はソファーに腰を下ろした。その横に私もソロソロと座る。なんとなく間に一人分の隙間が空いているのは、川瀬への不満が胸の内で滾っているので、その怒りが距離として反映されたからにすぎない。決して、寄り添って座るのが恥ずかしいからではない。
 ちらと横を見ると、奴はその距離になんの疑問も持たず煙草を取り出しているところだった。私は意を決して立ち上がる。さあ、今日こそお綺麗にすました彼の眼前に、積もりに積もった不満をぶちまけてやろうではないか。
「…どうしたの、いきなり」
 突然立ち上がった私を見て川瀬は怪訝そうに眉をひそめる。私はそんなことお構いなしにソファーの前を大股で進むと、川瀬の目の前に立ち塞がった。
「川瀬、私は貴様に言いたいことがある」
「……」
 途端に彼の視線が鋭くなる。無言のまま私を見上げている。無言の圧力というやつだ。私は早くも怯みそうになってしまうが、ここで尻尾を巻いて逃亡するわけにはいかない。ごくっと唾を飲み込むと、口を開いた。
「貴様の、…その、言動が気に入らないのだ!」
「はあ?」
「あれはなんだ、何をするにもいちいち初めてか、などと聞いてきおって!」
「……ああ、そのこと」
 私は怒っている。怒っているのだ。だというのに、目の前の男は話に合点がいったかと思うと、あろうことか笑っている。
「おい、どういう意図で聞いているのかと言ってるんだ! ハジメテハジメテとしつこく……、私は物知らずな餓鬼ではないのだぞ!」
 こちらが怒りに不満をまくし立てているというのに、川瀬の顔は動揺も見せず、むしろ気色悪いほどのにやついた笑みを浮かべている。ああなんと腹立たしいことか。そこで私はこの川瀬の「初めて問答」の理由を思いつく。目の前の腹立たしい面を崩してやりたい一心の、単なる思いつきだった。
「……わかったぞ川瀬、貴様は嫉妬しているのだろう、」
 川瀬の笑顔が、瞬間に凍りついた。
「この私の初めてになれないということが悔しいのだな! そして、初めてを奪った人間に嫉妬しているのだ! …どうだ、図星だろう!」
 川瀬の眼前に指を突き付け、高らかに勝ち誇る。そうだ、なぜこの可能性に今まで気づかなかったのだろう。唯我独尊で横暴な独裁者である彼が、自分の知らぬところでことが進んでいるなんて、面白くないに違いない。ましてや好いている相手のすべてを手に入れられないなど、もっての外だろう。……好いている相手というのは決して自惚れているわけではない。事実しか述べていないことを断っておく。
 勝利宣言がごとく笑い出したい気持ちを抑え、しかし口元が緩むのを隠せないでいる。どうだ、反論してみるがいい。
「…………」
 てっきり嫌味な笑みと罵倒が返ってくるものと身構えていたのに、反論はひとつも返ってこなかった。川瀬は苦虫を噛み潰して粉々にして無理やり飲み込んだかのような顔で黙りこくっている。なんと、図星だったようだ。
「……、」
 私も呆気にとられて言葉を発することができない。あの川瀬が人並みに嫉妬などという感情を持ち合わせていようとは。それも、ほかでもない私なんぞのハジメテを欲しがっていようとは!
「…そうだ、嫉妬だよ」
 目の前の男はハア、と腹の奥底から吐き出したような苦々しいため息をつく。色を付けたとしたら、きっと真っ黒に染まるような声色をしていた。
「玉森くんに初めて勉強を教えた奴とか、初めて手を繋いだ奴とか、全員殺してやりたいね」
「ばっ……、」
 馬鹿じゃないのか、と叫びたい声すら出てこなかった。呆れてものも言えないとはこのことだ。私の初めてを奪った人間すべて殺して回っていたら、私の周りには誰もいなくなってしまうだろう。初めて、だなんて子供の時分にほとんど済ませてしまっている。自分自身だって覚えていないことを、今更どうして責められなければいけないのか。それよりだいたい、私は声高らかに反論する。
「貴様にはじゅうぶん私の初めてをくれてやっているだろう! 贅沢を言うな!」
 川瀬の目が一瞬驚きに丸くなる。と、すぐにいつもの嫌味たらしい笑みが目元に浮かぶ。そうだった、たくさん貰ってたね、と私の言葉をいやに優しい口調で繰り返して言う。数瞬の間をおいてその意味するところに気づくと、全身にぶわっと熱が膨らんだ。
「そ、そういういかがわしい意味ではない! 気色の悪い話し方をするな!」
「いかがわしいって? なに考えてるの玉森くん」
「ああああ違う! うるさい!」
 喋れば喋るほど、完全に墓穴を掘っている。珍しく私が優位に立てたと思ったのも束の間、結局私は川瀬の手のひらの上で踊ることしかできなかったようだ。これ以上反論を続けようとも勝てはしまい。熱く火照っている自分の顔が悔しい。離れようとする私の腕を、川瀬の手が引き留めた。振り払おうにも案外強く掴まれ叶わない。この似非潔癖症め。
 川瀬の目が、伺いを立てるように下から覗き込んできている。
「……じゃあ、今夜はどんな初めてをくれるの?」
 こんな我儘があっていいのだろうか。これだけ私のハジメテを蹂躙しておいて、まだ欲しがろうとは。問いかける口調でありながら、しかし私の否という言葉は許されていないのは、その目が語っている。私は誘いかける川瀬の目に、いつでも逃れられないのだった。

「……お前が想像もつかないものをくれてやる。覚悟するんだな、」
「上等だ」
 ふっと鼻で笑い、川瀬の顔が近づいてくると同時に腕を引かれる。反射的にぎゅっと目を瞑ると、すぐ近くに煙草の匂いを感じた。
 今夜の初めては、いつもと変わらない口づけで始まった。



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