戸が鳴ったのはまだ陽も高い昼間だった。
居間に横になっていた鬼は、こんな時刻に珍しいと起き上がった。
閂を外して戸を開けると、そこには30代くらいの男が立っていた。
男を見た瞬間、鬼はどこかで見たことがあると思ったが、出てきた鬼を見て驚いた表情をし、次に笑みを浮かべたその男が、
「お久しぶりです。覚えてますか?」
というので、やはり過去に会っているらしいと鬼は知った。
だが記憶を探っても思い出せず、鬼は正直に「いや」と短く答えた。すると男は笑みを浮かべたまま言った。
「もう15年以上も前のことです。僕は薬草を探しに森へ入り、歩き疲れ、倒れていた所をあなたに助けていただきました」
男の言葉に記憶が手繰り寄せられ、着物の襟元から見える痩せた体に、鬼はやっと思い出した。あの病気持ちのヤツか、と。
「そうか15年も経つのか」
鬼の時間の流れる感覚は人のそれとは違う。15年も経てばあの時の少年もすっかり成長し、体が弱かったとはいえ若々しさがあったが、今は打って変わって儚げであり、服の端々に見える白い肌は艶っぽい。
「はい、僕ももう三十路を越えました。ですが、あなたはあの頃からちっとも変わりなく・・・」
男が鬼を見て驚いたのはそれだった。時間の流れる感覚と一緒で、鬼は年をとるのが遅いらしい。
「ああ、それで何の用だ」
「あの時僕は、お礼に来る、と申しました。時間はかかりましたが、今、恩返しに来たのです」
鬼は男を家の中へ通すと昔と同じように居間の囲炉裏を挟んで向かい合った。
酒を飲むか、という鬼の誘いを断って男は粛々と語りだした。
「昔、あなたに戴いた薬草のお陰で、母はまた畑仕事が出来るまでに回復いたしました。ただ、先年の疫病で他界いたしましたが・・・」
鬼は一人酒をあおりながら黙って男の話に耳を傾けた。
「それでもあの時、あなたが助けてくれなければ、母がまた元気になることもなかったでしょうし、僕も生きて今ここに居ることはなかったでしょう。感謝してもしきれないほどの恩を僕はずっと胸に抱いていた」
大袈裟な、と鬼は思ったが口には出さず、男の続きの言葉を待った。
「あなたにずっと返したいと思っていた恩を、それが今、叶えられることを嬉しく思います」
男はそこで一旦言葉を切って、それから少し躊躇い
「実はあなたの身に危険が迫っております」
と、一息に言って鬼を見つめた。
真剣な表情で言うから一体何事かと思えば、
「くだらない」
鬼は鼻で笑った。
「本当です。村では手練れの者を集め、徳の高い僧を呼んできているのです」
男の言葉に鬼は鋭い視線を向けた。それに一瞬ひるんだ男だったが、すぐに気を取り直して言った。
「あなたは、世に言う“鬼”という存在なのですよね。あの、闇に紛れ人を喰らうという――・・・」
鬼は否定をせず、しかしそれが答えになっていた。
「まさか・・・本当に鬼だったんですね。何かの勘違いであって欲しいと思っていました。でも、この森へ迷い込んだ者は二度と帰って来ないとか・・・なので、もしやあの時自分が会った男性がそうであったのかと思っていました。
そうすると、人間にとっては恐ろしい存在――ですが、やはり僕にとって命の恩人に変わりはない。どうか、今のうちに逃げて下さい」
男は言って頭を下げた。だが、鬼はその頭を見下ろして繰り返した。
「くだらんな」
「・・・何故?」
「人間ごときに俺が倒されるかよ」
鬼は言って、酒を飲み干すとその器を投げ捨て、男をその場に押し倒した。
「あの時の恩返しというなら、俺の相手をしろ。その方が理にかなっている」
「相手を・・・?」
男は戸惑っているようだったが、初めてではないようだった。
最初は逃げ腰だった男も、鬼の生暖かい舌が首筋を這うごとに抵抗する意思も薄れていったようだった。
男の体は痩せていたが、白い肌の滑らかさに触り心地もよく、胸に舌を這わし、男のものを口に含み、男の中を指で犯すのに、男の悶える声が耳に心地良かった。
やや解した男の入口に、鬼は自分をあてがうと一息にそれを奥までねじ込んだ。男は息を詰まらせながら背を仰け反らしていたが、痛がる様子はなく悶えている表情に、鬼は欲情して胸に激しく突き上げてくる感情のままに腰を動かし続けた。
鬼が男を解放したのは陽もすっかり沈んだ頃だった。
場所は寝所へ移り、男はぐったりと布団の上に倒れていた。
眠っている男を眺め、鬼は惜しむらくは男の体の弱いことだなと思った。
鬼は、鬼ゆえに触れずともその者の死期が見える。
突然男が咳き込みはじめた。
あの頃と同じように背をさすってやると、同じように「すみません」と小さく男が謝る。
「無理をさせすぎたか」
鬼が言うと男は苦笑して言った。
「もともと体が弱いのは言いましたね。医者にはもう手遅れだと言われました」
男の笑みには深く諦めの色が刻まれていた。
「あなたから見ても、僕の体は腐肉なのでしょうね」
妙なことを言う、と思いながら鬼は正直に答えた。
「喰えないことはないが美味でないな。性根の腐った者よりは、お前の方が美味いだろうが」
鬼のよく分からない賛辞に、男はクスリと笑って「では」と言った。
「では、もしあなたさえ宜しければ、僕を食べてはいただけませんか?」
鬼は少しばかり戸惑いを覚えたが、構わず男は続けた。
「そして、出来ればもう人を食べることをやめて欲しいのです」
鬼はすぐには答えなかった。男は続ける。
「思い上がりなことを言っているとは思います。でも、あなたが人を喰らうことで、あなた自身が苦しんでいる。僕にはそう思える。だから」
「無理だな」
鬼はにべもなく言った。
「俺はもう人間の血肉の味を覚えた。やめられる訳がない」
「いいえ、やめられるはずです。あなたは、自ら進んで人を喰らおうとしているわけではないのですから」
「――無理だな」
鬼は繰り返した。
鬼は、自分が自分として在る所以を、人を喰らうことで確かめ、そして存在しているとずっと考えてきた。何百年も。その考えが今ここで改めるなどできるわけがない。
男は「わかりました」と言った。
「ではすぐにとは言いません。今後どうか人を喰らうときは思い出してください。僕の言葉を。あなたは、本心では人を喰らうことを望んではいないはずだ、と」
鬼は答えなかったが、男を見つめる鬼の目にはいつもの鋭さはなくなっていた。
「何故、俺のことをそこまで・・・」
「命の恩人だからです」
「俺がお前を喰えばお前は死ぬんだぞ」
「僕は死ぬのではなく、あなたの血肉になるのだと思ってます。それこそ本望です」
この時、鬼の胸のうちには久しく感じたことのなかった暖かい感情が広がっていた。そして同時にそれは悲しくもあった。
長くはない、幸せ――。
鬼は男の顔に顔を寄せると初めて男に口付けをした。そして最後に
「もう一度」
と鬼は男の体を抱きよせた。
明け方、村人が集めた手練れの者と僧が鬼の塒を襲撃したが、ついぞ鬼の姿を見つけることは出来なかった。
鬼は闇に紛れてその森を去った。
また、人の姿で旅をしながら、雇われたり土地に住みついたり、そんなことを繰り返す日々が続くのだろうと、思いながら、でも、しばらくは人を喰えそうにないな、と鬼は内心で呟いた。
「ちっ、俺としたことが、食あたりか」
そう毒づく鬼の表情はしかし、笑っていた。
2008.06.07