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『三十一文字シリーズ・其の十六』



古今和歌集・巻十一 恋歌一 五二三番
「人を思ふ 心はわれに あらねばや 身の惑ふだに 知られざるらむ」
読人知らず

―その者が相手だと自分は自分ではなくなるのだろうか
   だからこの身が惑っていることさえわからないのだろうか―





「手、つないでもいい?」

人間の子供が突然そんなことを言い出したのは、それが後ろをついてくるようになってまだ間もない頃。
前を歩く妖に小走りで追いつくと、めいっぱい首を伸ばして遥か頭上の横顔へにこにこ笑いながら、そう言ったのだ。
「――ばっ、ばっかもん!!」
一拍遅れて慌てた怒鳴り声が響く。
「殺生丸さまがおまえと手なんぞ繋ぐかっ!」
「えー、だめ?」
喚く邪見とは対照的に、子供――りんは脳天気とも言える口ぶりで。
はい、とばかりに伸ばされた小さな手は拒まれるとは微塵も思っていないかのように掌を広げ、まっすぐ殺生丸の唯一の手に向けられている。
こんな子供では到底、妖のそれには届かない。
妖が、自ら動かないかぎり。
当然そんな行為に意義など見いだせず、なんの脈絡もないその場の思いつきに付き合う謂われもない。
殺生丸は捨て置くことにした。
だいたい、この手が塞がってしまえば刀を握る術を失ってしまう。
己が腕も手も、戦うためのものだ。
横顔の一瞥はほんの僅か、足を止めることもなく殺生丸は前へと進み続ける。
三歩ぶんほど後ろから、ひそひそと声が交わされた。
「ほれ見ろ。殺生丸さまも呆れてらっしゃるわい」
「そうかなー」
「そうに決まっとるっ。そもそもだな、殺生丸さまが誰かと手を繋ぐところなんか想像できるか? うう、口にするだけで恐ろしい、いや気色悪――」
「邪見」
「はぃいいいっ!」
途端に声が裏返る。
「うるさい」
「はいっ申し訳ございません!」
べつに、呆れてはいない。
不可解なだけだ。
「すごーい邪見さま。さっきね、凍ったみたいに、びしーって固まってたよ」
「やかましい! おまえのせいでわしがお叱りを受けたではないかっ」
「えー」
「えーじゃないっ」
よくわからない生き物だと思う。
求めを無視されても意に介す様子はまったくなく、それ以上言い募りもしない。
とりとめのない会話で暢気に笑っている。
「じゃあ、邪見さまとつなごうかなー」
「あほかっ願い下げじゃ!」
「んー……じゃあ阿吽、手つなご!」
――阿吽に、手はない。
飛び出した更に不可解な台詞にちらりと振り返れば、なんのことはない、阿吽の手綱を握っているだけだ。
しかしそれでも満足らしく、おもてに浮かべているのはつい先刻殺生丸に向けたものと寸分違わぬ笑顔。
阿吽も嫌がっていない。むしろ懐いているようにも見える。
邪見は大口を開けて呆気にとられている。
双方のあいだで、楽しげに喋っているりん。要らないというに食い物を運び続けた、痩せこけた人の子――。
やはりよくわからない生き物だと、殺生丸はそこで思考を切った。
考えたところで埒もない。
ただでさえ理解しがたい種の、それも子供なら尚更だろう。
向き直り、もう振り返ることのなかった妖の耳はつい先日まで知らなかったその声音を拾い続けた。



陽が傾き、月が昇り、薄暮は宵闇へと瞬く間に姿を変えた。
二日目の月は細く、雲が多いせいで星も疎らだ。
ひとり夜の空を往く殺生丸は、山と森が続く眼下を見やる。のっぺりと塗り潰された墨色の風景のなかに一点、仄かな緋色を認めてまっすぐ下降していった。
「……」
そよ風も立てず降り立った殺生丸が微かな吐息を零す。
揺れる焚き火に照らされて、りんは仰向けに四肢を投げだして眠っていた。
足先が触れる寸前まで近づき、試しに声をかけてみたが寝息は深く、起きる気配は皆無だ。なぜここまで無防備になれるのか、まったく度し難い。
阿吽も休んではいるが、完全に意識を手放したりはしない。邪見は、単なる馬鹿だ。
虫の声と木々のさやかな葉擦れに、時折火の爆ぜる音が混じる穏やかな静寂。
しばらく間の抜けた寝顔を見下ろしていた殺生丸が、踵を返した。
だが。
一歩踏みだしたところで足が止まる。
妙な違和感に後ろを見ると――毛皮の先を握られていた。
りんに。眠ったまま。思いのほか、強い力で。
どうする、と考えるまでもない。
引き抜けばいいのだ。子供がいくら力を込めようと妖には無意味なのだから。
僅かに引く。
すると指の力も強まる。
握られたそこから、熱が伝わる。
妖には熱いほどのこの温度が平常だと、殺生丸は既に知っている。
「ぅむ……」
鼻にかかった寝言を漏らしながら、りんが身じろぎする。
毛先だけを掴んでいた手が伸び、毛皮を引き寄せる。
ついには、完全に抱き込んでしまった。
しかし特に問題があるわけではなく、引き抜く容易さに変わりはない。
――そう。
あまりにも、容易で。
だから、どうすればいいのかわからなくなってしまう。
これが戦いなら簡単だ。
肉を潰し骨を砕く力であろうと弾き返し、駆逐する。いかなる力にも負けることなどありえない。
だが、これは。
二度目のため息をつく。
殺生丸はそのまま腰を下ろした。
まあ、いい。いつでもできるのだから。
目を閉じるとその部分の感覚がより鮮明になり、熱が全身にまで広がりそうな錯覚をおこす。
――朝までだ。
誰にともなく、胸中で呟いた。



【終】




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