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天の祈り、明日への翼 6
『全ての傷も記憶も洗い流してリセットされたはずのレノアの魂には、微かだけれどまだ彼女の想いが残っていた。アスランに伝えたい、あの子を救って欲しい……ずっとそう叫んでいた。君のことが気がかりで、ずっと癒しの夢の中で癒されることを拒んでいたんだよ。それがどれくらい困難な事なのか、比べられるものがないから上手く言えないけれど………それくらい強く、途方も無い程に深く、レノアは君の事を想っていたんだ』
純白の羽根を背負い、純白の衣装に身を包んだ彼は、そうして沢山のことを教えてくれた。
天上の世界の存在を、輪廻の欠片を、そして、逝ってしまった母の想いを。
大切な秘め事をうちあけるように、ゆっくりとやさしく。
『自分の存在全てを賭けての願いだもの。聞き届けてあげたいって思ったんだ』
冗談と思えるようなことも多かった。
というか、あまりにも非現実的すぎていっそ幻覚だと思い込もうとした。
だけど、目の前にその『非現実』の固まりが確かにいたのだから、どうにもならない。
その固まりであるところの少年天使のくれた温もりと奇跡を、確かにこの体が覚えているのだから。
学校が長期の休みに入ったことをきっかけに、久しぶりに帰った実家。
一年前に飛び出して寮に入ってからは一度も帰ったことなどなかったし、帰りたいと思う事もなかった。
辛い思い出しかない家だったから。
────いや、そうだと思い込んでいたから。
こうして久しぶりに帰ってきても、自分にとてはやはり居心地の良い空間ではない。
先程廊下で居合わせた父親は、露骨に眉をしかめてみせた。
終始無言だったけれど、
『何故のこのこと戻って来た』
そう言われているようで、咄嗟に目を逸らしたくなる衝動に駆られた。
けれど、逸らさなかった。
逸らすわけにはいかなかった。
ずっと目を逸らしていた現実と向き合うために戻ってきたのだから、こんな一番最初で躓いてまうわけにはいかないのだから。
結局その後も、父は何も言って来なかった。
暫く睨み合った後、無言のまま横を通り過ぎていく。
少しだけそれが辛くて、だけどそれ以上にほっとしたのは隠しようも無い本音。
正直なところ、覚悟は決めたとはいえ今はまだ真正面から向き合い言葉をぶつけ合うほどの勇気を持てずにいた。
屋敷にいる使用人達も、すれ違う度に誰もがどこか複雑そうな表情でこちらを伺っている。
誰もが昔からこの家に仕えてくれている人間ばかりだから、全員あの事故当時のことを知っている。
そしてそれによって生まれた主人とその息子の確執も、時が経つによって大きくなっていった決定的な溝も。
だからこそ、扱いに困っているのだろう。
分かっているが、やはり苦笑を禁じ得ない。
どこまでも自分はこの家にとって異分子なのだと思い知らされる。
だけど、帰ってきたことを後悔はしない。
針の筵なのはあの時から変わらないけれど────それでも目を逸らしていたせいで見えなかったもの、見ようとしなかったものの存在を思い出せたのだから。
「………何も変わっていないんだな、此処も」
こうして亡き母の部屋に入るのは、何年ぶりになるだろう。
あの事故の後一度だけ母の記憶を求めて入った時に見た光景と、ちっとも変わっていない。
ベッドも、机も、その上の置物も、カーテンも、何もかも。
そっと手を置いた机は、埃を被ってはいなかった。
母の生前のまま、とても奇麗なままに。
胸を刺す棘は消えないけれど、それでもそれ以上にひどく懐かしい思いが胸を満たした。
母が居たこの部屋をよく覚えている。
子供のころは、まるで母そのものを映し取ったような清廉とした色彩と優しさに溢れたこの部屋が大好きだった。
母の膝の上、子守唄を歌ってもらいながら眠りについた記憶。
せがんで一日にいくつも絵本を読んでもらった記憶。
編み物をする様をずっと横で眺めていた記憶。
沢山の優しい思い出が、此処には詰まっていた。
痛みだけしかないと思っていたけれど、ちゃんとこの部屋には、自分の中には、優しくて暖かい記憶も残っていたのだと……。
幼い頃忙しい両親に代わってずっと面倒をみてくれていたもう一人の母親とも呼べるメイド長は、父が誰もこの部屋に入る事を許していないと言っていた。
扉を閉ざし、鍵をかけ、たったひとつのそれを肌身離さず持っていると。
────ならば、この部屋を奇麗に保たせているのは、あの人に他ならないということだ。
「………父上」
写真立てに飾られている家族写真に写る、今より幾分若い父を見た。
あの人は何を想いながら、この部屋で過ごしたのだろう。
いつの間にかたまる埃を払いながら、何を。
「あの、」
部屋を出たところで、メイド長に声をかけられた。
きっと、出てくるのを待っていたのだろう。
「……?ああ、貴女か。どうかしたか?」
「お部屋にお夕食の準備をしました。どうぞ暖かいうちにお上がり下さい」
「そうか。ありがとう、今戻るよ」
「帰って来て下さった坊ちゃまの為に、今日は腕によりをかけて作りました。沢山ありますので、たんと食べてくださいませね」
「………マーナ。もう子供じゃないんだから、坊ちゃまはやめてくれ」
むず痒いような気恥ずかしいような感覚を覚えて言えば、母親代わりだった彼女はおかしそうに笑った。
「まぁ、どんなに立派な青年になられようとも、坊ちゃまは坊ちゃまです。マーナの大事な、奥様の大事な、たったひとりの坊ちゃまですよ」
昔から少しも変わらない暖かい笑顔だった。
────どうして忘れてしまっていたんだろう。
あの苦しい日々の中で、責められることにも責めることにも疲れ果てて、大事なものを見落としてしまっていたのかもしれない。
何故、自分はあの日からこの屋敷でたったひとりきりになってしまったなどと思い込んでしまったのだろう。
少なくとも彼女だけは、ずっと味方でいてくれたのに……。
母の死後暫く部屋に閉じ篭って何も食べられない日が続いたときも、不眠症になりかけたときも、彼女はとても心配して付きっきりで看病と世話をしてくれた。
その後も、父の目を盗むようにして幾度も気にかけてくれていたのに、当時の自分はそれに気づく余裕すら失っていた。
そのことに、今ようやく気づいた。
自分は、決して誰にも生を望まれていない人間なんかじゃなかった。
例えたったひとりでも、こうしていてくれたのに……。
「………ありがとう」
「とんでもございません。ささ、行きましょう坊ちゃま。せっかくの料理が冷めてしまいますよ。何しろ、このマーナが貴方さまの為に一生懸命に作った会心の作なんですから」
「マーナ」
「はい、なんでございましょう坊ちゃま?」
「………嬉しいけど、やっぱり恥ずかしいから坊ちゃまはよしてくれ」
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