癖・その消失 クールは形から。私は、キスの距離にまで近づいた神谷さんを前に、平静を装って咳払いを一つしてみる。余裕のありそうな言葉も言ってみる。「これ、送られ狼ってやつ?」 「それを言うならぁ、送り狼じゃないですか?」 あー、れも、合ってるのか。私が送られたわけだし。神谷さんこと狼は、少し呂律の怪しい口調でそう言った。 彼女の一人暮らしの部屋、その玄関先で私は襲われかけている。私は完全に油断していたのだ。だって、人の肩を借りないと歩けないほどの酔っ払いが、部屋に入るなり突然に元気を取り戻して迫ってくるだなんて、誰が想像できるだろう? つまりこうだ。 神谷さんは散々に酔っ払っていた。とても一人で帰れるような状態ではなかった。そんな彼女に対して、私は類まれなる親切心を発揮して、彼女を自宅まで送ってあげた。鍵を開けて部屋に入って、そしてばたんと扉が閉まった瞬間、神谷さんは私の肩を掴んでそして私を壁際まで追いやった。一呼吸の間のできごとだった。今や彼女はキスの距離にまで私に近づいていた。形から、形から。私は胸のうちでその言葉を唱えて、自分の心が冷静さを取り戻すのを待った。神谷さんの顔は真っ赤だった。美人だな、と思った。 「泉さん。癖が代償行為の一種だって話、知ってます?」 「……なあに、心理学?」 「そんなとこです」 神谷さんの細い指が私の髪をかき分けて、そして耳に触れた。その指先はしっとりと冷たく、私は思わず体を小さくした。 「泉さんって、自分の耳を触る癖ありますよね。気づいてました?」 「……気づいてたけど」 「代償行為ですよ、それ」彼女の親指が、ゆっくりと耳の輪郭をなぞっていく。「誰かに触ってもらいたい、っていう気持ちの裏返しですよ」 くすぐったくて、私は身体をよじってしまう。神谷さんはどこか余裕のなさそうな表情をしていた。眉根を寄せて、口をきゅっと結んで。切羽詰まったような、我慢ならないような。私は彼女の濡れた瞳を見た。そして、一体どうしてこんなことになってしまったのだろう、と考えてみた。答えはすぐに分かった。それは全く、あのジントニックのせいなのだった。 私たちはそのお酒を、繁華街の中にある小さなバー(店内は薄暗く、量産型のジャズが流れていた)で飲んだ。店内はそこそこの混み具合で、私たちはカウンター席に通された。並んで腰をかけて、私は海外のビールを、神谷さんはジントニックをそれぞれ注文した。一口飲ませてもらったが、それは随分と濃いめに作られていた。私がビールを半分飲み終える前に、彼女はそのグラスを空にしてしまった。そして同じものをもう一杯頼んだ。 「大丈夫なの?」 彼女はお店に入る前から、既に相当に酔っ払っていたのだ。私がそう尋ねると、神谷さんはへらへらと笑った。 「こんなの、全然大丈夫ですよぉ。私、結構強いんですから」 「本当に?」 「本当です」 そして、眩しそうに目を細める。その瞳に奥に、ある種の熱っぽさのようなものを感じて、私は軽く首を傾げて見せた。 「なに?」 「あ、いや、」 彼女はさっと視線を外す。 「……綺麗だな、って思って」 そして二杯目のジントニックをごくごくごくと勢いよく飲む。その頬に朱色が差すのを私は見逃さなかった。それがアルコールのせいだけではないことも、私には分かっていた。 「私、口説かれてるのかな」 茶化してそう言うと、彼女は大きくかぶりを振った。そして、ごくごくごく。その様子が可笑しくて私は小さく笑った。よく言われます、とは言わないでおいた。 それから、私たちはお互いのことをぽつりぽつりと話した。何せ私たちは、今日初めて、つい先ほど出会ったばかりなのだ——私が諸用を終えて繁華街を通り抜けていた時、偶然に神谷さんと出会った。正確には、出会った、というよりも、私が一方的に彼女を認識したのだった。彼女は目立っていた。 はじめは痴話喧嘩かと思った。男女が向かいあって、女性の方が半ばヒステリックに何かをまくしたてている。彼女のヒステリックな声に、道行く人は何事かしら、と興味深そうにそちらを見ていた。私も、その道行く人々の一人であるはずだった。けれどその瞬間、彼女の横顔を見た瞬間に、色々な考えが私に降ってきた。つまり、赤い顔をしているからお酒に酔っているのだろうな、とか、歳は私と同じくらいだな、とか、今のところはそのチャラチャラとしたお兄さんも苦笑いで彼女の怒りを収めようとしているけれど、そんな彼にもやがて我慢の限界がやってくるだろうな、とか。そうした時に、彼女がどんな目に遭うか、とか。 放っておけない野良猫を見つけたときの気持ちだ。 「あの、」 私は現場まで歩み寄って、横から女性の腕をとった。金髪のお兄さんのやれやれ、という表情と、彼女の毒気を抜かれたような顔。「私の連れなんです。すみません」 そして彼女を引きずるみたいに引っ張って、そそくさとその場から離れる。人混みに紛れる。「あの、」と背後から声がする。今はそれを無視して、ぐいぐいと先行する。三回目の「あの」で、私はようやく歩みを止めた。明るいコンビニの前で振り返れば、そこには戸惑った彼女の顔があった。 「えっと……知り合い? でしたっけ?」 「いいえ。はじめまして、です」 「は、じめまして」 「どういう事情か分からないですけど、」その頃には私は、何とも言えない恥ずかしさに苛まれていた。「あの手のお兄さんに喧嘩を売るなんて、どうかしてますよ。怖いおじさんが出てきてもおかしくないじゃないですか」 「でもあれは、向こうが悪いんですよ」 彼女は聞く耳を持たない。 「私は二次会に行かなくちゃならないのに、どうっすか、なんて、いやらしい笑顔で薦めてくるなんて。私、そんなに遊んでそうな、ちゃらちゃらしたような女に見えます? ほんと失礼ですよね、ほんとにもうっ」 「二次会?」 「そうです、二次会」 何でも大学の学科で飲み会があったそうで、しかし二次会のお店へ向う途中に友人達とはぐれてしまい、そのままふらふらと歩いていたところでキャッチに声をかけられたらしい。 「携帯で連絡を取らないんですか?」 「あー、実は充電が切れてて……」 苦笑いする彼女に、私は小さくため息をついた。それと同時に、この繁華街で飲み会をするような大学には、一つしか心当たりがないことに気がついていた。そしてその心当たりは正しかった。尋ねてみれば、学部こそ違えど、私たちは同じ大学に通う同学年の学生だったのだ。私たちは目を瞬かせて、それから可笑しくてくすくすと笑った。 「まあ、とにかく」ひとしきり笑った後で、私は言った。「二次会のお店も分からなくて、携帯も使えないのだったら、今日はもう諦めて帰ったらどう?」 だいぶ酔っ払っているようだし。しかし神谷さんは頑なだった。 「いや、もう、すっかり二次会の気分なんです。このままお酒を飲まないで帰るなんて、」そして彼女は目を輝かせた。「泉さん、私に付き合ってくれませんか?」 「え?」 「一杯だけでもいいんです。これから」 「え……二次会は?」 「だから、二次会ですよ」 要するに、彼女はお酒が飲めればなんでもいいのだった。 いつもの私ならきっと断った。けれどその夜は、彼女に付き合うことにした。それが間違いだった。結局二杯のジントニックで神谷さんは潰れて、私は彼女を家まで送るはめになる。そして、これだ。背中に感じる壁の冷たさと、耳に触れる神谷さんの指。猫かと思えば狼だったわけだ。 「どうですか、人に触られるの」 神谷さんは濡れた瞳のままでそう尋ねる。私が小さくかぶりを振ると、彼女は首を傾げて、 「指じゃもの足りない、ですか」 そして私の髪をかきあげて、露出した耳に唇を寄せた。噛まれる、と思った。 そこで神谷さんは限界を迎えた。彼女は突然私から身を離すと、口元を手で押さえた。青い顔をしていた。彼女はぱっと身を翻すと、靴も脱がずに部屋の中へと駆け込んでいった。ドアを開けて、それから勢いよく閉める音。きっとお手洗いだ。私は体の力が抜けていくのを感じた。それから少し笑った。このまま逃げようか、とも思った。しかし遠くから神谷さんの嘔吐の音が聞こえてきて、私はその考えを諦めた。 彼女の部屋は、落ち着いた色を基調とした、綺麗に整頓されたものだった。私にはそれが意外だった。酔っ払ってホストのキャッチに喧嘩を売るような人の部屋とは思えなかったのだ。 「ねえ、大丈夫?」 お手洗いの扉をノックすると、うめき声と、大丈夫です、という苦しそうな返事。それから、胃のなかのものを吐き出す音。 「吐ける時に吐いちゃった方がいいよ」 返事はなし。 しばらくして彼女は出てきた。もう靴は脱いでいた。いくらかすっきりした顔だった。平気、と尋ねると彼女は小さく頷いて、それから洗面台で何度かうがいをした。 「ごめんなさい、ひどい所を見せてしまって……」 部屋に戻って、神谷さんは私にそう言った。彼女はベッドに横になった。私はその端に腰をかけて、 「何か飲み物を買ってくる? ポカリとか」 「いや、大丈夫です」 神谷さんはそっと私の手首を掴んだ。「……ここに、いてほしいです」 私はその要望通り、しばらくそのままでいた。会話はなかった。神谷さんは目をつむってじっとしていた。私はそんな彼女を黙って見つめていた。神谷さんの指は冷たかった。私は彼女の酒癖の悪さと、強情さを想った。秋の夜の静けさが一つまた一つと部屋のなかに積み上がって、そっと私たちを包み込むようだった。 突然、神谷さんは目をぱちりと開いて、 「……うとうとしてました」 「もう寝ちゃえば? こういう時はおとなしく寝るのが一番だよ」 「でも、着替えもまだだし、お化粧も落としてないし……」そこで彼女はベッド脇の目覚まし時計に目をやる。「泉さん、電車大丈夫ですか?」 そろそろ終電の時間だったので、私はそっとベッドから腰を上げる。 「でも、神谷さん、本当に大丈夫?」 「はい。吐いたらだいぶ楽になったので」 「そっか」 見送りは大丈夫、と言ったのだが、結局彼女は玄関まで付いてきた。今日は本当にごめんなさい、と謝罪された。私は自分の靴を履きながら、彼女のしょげた顔と、私の耳を這ったその指を見た。何か文句の一つでも言おうかと思ったが、今はすっかり反省しているようなので、代わりにつまらないアドバイスをした。 「まあ、焦りは禁物ってやつだよ」 玄関の扉を開けると、乾いた秋の匂いがした。敷居をまたいで振り返る。まだ少しだけ顔色の悪い神谷さんがいる。目が合って、そして私はある予感を得た。それは流れ星のようだった。私の脳裏をさっとかすめて、そして次の瞬間には夜闇に溶けていった。捉えどころのない閃き。けれど、私には一つだけはっきりしていることがあった。私はまたね、と言わなくてはならなかった。その言葉は少し奇妙に響いて、私と神谷さんとの間を、夜の静謐さの中を、所在なさげにゆらゆらと漂った。 それは確かに、まだ私たちには扱いきれない言葉だった。けれど私は言わなくてはならなかった。持て余したその言葉を、神谷さんはそっと掬い上げて、それから小さく微笑んだ。私もつられてそうした。そして私たちは別れた。マンションを出て、少し急ぎ足で駅まで向かう。 例えば、私の自覚のない癖。あるいは、神谷さんの指のつめたさ。聞き慣れていたはずの賛辞。その全てが、私にその予感をもたらした。 信号待ちの間、そっと後ろを振り返ってみる。さっき出てきたマンション、その三階の一部屋に彼女がいる。私を見送った後、彼女はシャワーでも浴びているかもしれない。それからコップ一杯の水を飲んで、二日酔いが来ないよう祈りながらベッドに潜り込むのかもしれない。その一つ一つの動作が、もはや私にとっては特別な意味を持っていた。信号が変わった。名残惜しさをふっと吐き出して、私は駅までの道をかけ出した。 |
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