恋じゃない

 駅からかけて、さかみち通りまで出たとき、私ははっとして、足を止めた。妙に焦っている自分が、はずかしくなった。べつに藤田なんか、走ってまで会いにいくようなやつじゃない——呼吸をととのえて、ゆっくり歩きだした。まったく、どうにかしていた、必死になって、まるで馬鹿みたい。
 シャワーを浴びてくる。そう言ってくるりとひるがえったユースケの白い背中を見たとき、突然に心の奥がつめたくなって、いてもたってもいられなくなって、ホテルを抜け出した。電車をのりつぎのりつぎ、ここまできた。そうしなくちゃいけない、そんな切実さが私を走らせたけれど、よくよく考えてみれば、どうしてあんなやつに会いたくなったのだろう。いっそ、ここで引き返して家に帰ろうかしら、と思った。それとも、ホテルに戻ろうか。ユースケはきっと心配している。
 言い訳みたいなことばは次々にわいてでた。藤田なんて。藤田なんて。けれど、それも長くはつづかなかった。なけなしの意気地は秋の夜に蒸発していくみたいだった。自然に歩みは早くなり、人をおいこし街路樹をおいこし、最後にはかけだした。私は何かに急かされるみたいだった。その正体も分からないまま、息は乱れて、髪は暴れた。でも、そんなのぜんぜん気にならなかった。藤田に会いたい。その一心で乾いた葉々をふみつけた。
 彼女の住むアパートに近づくと——藤田がベランダに出てたばこを吸っているのが分かった。紫煙がたゆたって、高い空にうすくひろがるのが見える。私はそこでようやく歩みを緩める。やっぱり、家にいた。あの根暗が、日曜日の夜にどこか出かけるなんてこと、きっとあるはずないもの。どうせ明日からの平日にむけて、ゆっくりお風呂につかって、英気を養うのがせいぜいってものだわ。私はそう思っていたし、実際、それはそのようだった。坂道を登るにつれて彼女のすがたがはっきりしてきた。しましまのTシャツに生地のうすそうなパンツ。そっと煙をはきだす。そのとき彼女も私に気がついた。部屋からもれる逆光のなか、藤田の目をぱちぱちとさせるのが分かった。
「や」
 部屋のましたに辿りついて(藤田の部屋は二階だ)、私はそうあいさつした。どうしたの。藤田はとまどうみたいにそう言った。べつに。私は答える。ぐうぜん、とおりかかっただけよ。
 藤田は、たばこの先端を手すりに押し付けて火を消した。
「ようやく私の魅力に気がついたのね」
 そう言って、部屋にひっこんでいった。
 私はアパートの正面口にまわって、なかへ入った。藤田は部屋のドアを開けて、私の上がってくるのを待っていた。近寄るとたばこがふわりと香った。
 私は急に、自分が汚らしい存在に思えて、怖くなった。
「シャワーを貸してっ」
 藤田はいいけど、と言ってくれたけれど、私の勢いに引いているのは明らかだった。
 玄関を通って、まっすぐ浴室へ案内してくれた。じゃ、ごゆっくり。そう言い残して、藤田はさっさとリビングの方へ行ってしまう。服を脱ぐ。私は、鏡にうつる私の姿を見射る。下着姿のおんなが私を見返している。ユースケに脱がされる予感とともに身につけた、うすみどりの揃いの下着がその目ではねた。彼の囁いたことば。指先の温度。それらがぞわぞわ肌の上に蘇ってくるのがわかった。私は逃げるみたいに浴室に飛びこんで蛇口をひねった。
 ユースケと会うのは三回目だった。
 私たちは古めかしくこじんまりとした、気の利いた喫茶店で夕食をとった。お店のいたるところで、もくもくたばこの煙がふかされていた。それで私も一本喫った。
 喫うんだね。ユースケはちょっと驚いたみたいに言った。ええ。私は頷いた。お酒をのむ。彼は尋ねた。それで、食後、私をホテルに連れていくつもりだと分かった。私はまた頷いた。彼とはじめて寝たとき——それは前回のデートの終わりのことだったけれど——彼は十分、合格点に達していた。
 ナポリタンを食べて、ワインを飲んだ。学科の悪口でもりあがった。あの先生は、もうほとんど、モウロクしてるのだわ。教科書とぜんぜん関係のないことをしゃべりたおして、講義を終えてしまうのだもの。私たちは小さなテーブルを挟んで笑った。てすさびにつまようじの揃った頭をなでていると、ユースケの手が私のそれに重なった。それは無言のおさそいだった。私たちは店を出た。
 事の最中、ユースケはほとんど聞こえない声でいった。俺だけのものになってよ。私はいつものように小さく笑った。くすくす、うれしいみたいに、からかうみたいに。彼の情熱は彼の美点だった。
 佐原は誰とでも寝る。
 そんな噂のために、私はちょっとした有名人だった。そしてその噂はほとんど正しかった。実際、私は誰をも好きになったし、誰とでもベッドを共にした。年齢をとわず。性別をとわず。
 はじめて好きになったのはおさななじみのコイケくんと、学校のタニバヤシ先生だった。ふたりをいっぺんに好きになった。リストにはすぐに名前が追加されていった。スギタくん、ヤマサキ先生、カナコちゃん。小学生も高学年になると、級友たちは真の愛だの恋だのに目覚め、恋人というのは世界でたったひとりの大切な存在だ(そうして愛を胸にいっそ死んでしまうのが一番うつくしい)——そんな言説が教室にあふれかえるようになって私は当惑した。そんな世の中じゃ、私は生きていかれない。私は、ほとんど誰とだって、恋をすることができる。そう信じてやまなかった。
 そしてその考えは、年齢を重ねるたびに証明されていった。中学生では魔性の女と呼ばれた。駆け引きばっかり、そんなからかいも受けた。けれど私は魔性でもなければ、器用な駆け引きのできるたちでもなかった。単に、何人をも好きになるだけだった。みんなをひらたく、同じくらいの熱量で。
 高校生になってはじめて面倒事にまきこまれた。屋上に通じる階段の、踊り場に呼び出されて、どろぼうねこと罵られた。盗まれるほうが悪いんだわ、私はそんなことを考えながら、一方的にそのおんなのいうことを聞いていた。その頃、だれかと一緒に寝ることを覚えた。大学へ入って——佐原は心がわたあめみたいに軽いし、スウィートなんだ。どんな人間を前にしてもそいつの中に美点を発見して、そして彼がひとつでも美点を持っていれば恋に落ちてしまう、そんな女なんだ。そういうことを言う人がいた。それに反論する人もいた。いや、誰でもを好きになることは、誰も好きにならないことと一緒なんだ。俺はちがう。俺は、あの子の一番になってみせる。マチダくんやアベくんなどだ。ユースケもそのひとりだった。私は彼にも、私の心と体の一部をわけあたえた。みんなにするのと、まったく同じように。ユースケは満足しなかった。彼には情熱があった。
 藤田とも大学に入って出会った。
 はじめて会ったときびっくりした。私は彼女のどこにも魅力を見出すことができなかった。顔の造形や、髪型や仕草や、声音や気づかい——。どこにも褒めるべき点がなくて、私は困ってしまった。誰とでも恋愛可能だと、そう信じてきた私の神話の崩れた日だった。藤田とは恋に落ちない。そう断言できた。そんな態度に彼女は不服そうだった。誰とでも寝る、と、その噂を彼女も耳にしていた。
「まるで私がぜんぜんいけてないやつみたいじゃない」
 藤田は憤然といったけれど、私は何も答えることができなかった。それで、気安い友達になった。思えば私にとってはじめての友情だった。
 彼女はぼけっとしたやつだった。大学生の本分であるところのなれ合いや社交というものを鼻から相手にしなかった。その態度は人によっては超然としている、とか、サバサバしている、といった美点に映るようで、ひそかに人気もあるようだ、という話も聞いたことがある。そんな馬鹿な、と私は笑う。藤田はそんな評判も左から右へ、ぷかぷかたばこをふかしていた。
 シャワーは熱かった。浴室から上がると、藤田は誰かと電話をしていた。私を一瞥して、それじゃまたと小さく言って電話を切った。
「シャワー、ありがとう」
「いいえ」
 藤田は冷蔵庫から麦茶をとりだしてコップに注いだ。それを私に差し出して、それで、突然に何の用なの。そう尋ねてきた。
 コップをうけとって、固まってしまった。麦茶をひとくち。透明のあじわい。
「帰る」
 荷物をとって、踵を返す。藤田は小さく笑った。水道でも止められてるの。そうからかった。
 私は本当に、何をしに来たのかしら。何が私を走らせたのだろうか。こんな、ひとつの魅力を見つけ出すのも大変なやつのために。私は不思議だった。
 玄関でもう一度シャワーのお礼を言った。髪がいつもとちがう匂い。別れ際、藤田は、あ、と思い出した。そういえばね、私、恋人ができたの。
 私はさようならを飲み込んだ。
 藤田は頬をゆるめた。内側から、明るい気持ちのこぼれるみたいな笑みだった。
「学科の、滝田くん」
 そうなの、と言った。あんたを選ぶなんて、よっぽど物好きね。
 あら、と藤田は首をかしげた。私、意外と人気あるみたいなの。佐原は、とうてい、理解してくれないだろうけど。
 さようなら。私は部屋を去った。カンカン、階段を降りた。しらないシャンプーが香った。滝田くんも、そのうちに、この匂いを身にまとうことがあるのだろうか。
 アパートの裏手、藤田の部屋のましたに回ると、彼女はベランダに出てたばこに火をつけるところだった。彼女は私を発見した。彼女は目を丸くした。私は、秋の夜をそっと溶かしこんだその瞳に反射した、私自身の涙をみた。
 藤田が何か言おうとした。そのときには、私はかけだしていた。静かな坂道にばたばた、私の足は一生懸命に動いた。けれど心は藤田の部屋に置いてきてしまったみたいに、何も考えることができなかった。どうして逃げるみたいに走るの。どうして頬がこんなに熱いの。どうして景色が歪むの。こんなんじゃ、とても、まっすぐ走れない。
 駅ちかくのコンビニまでたどり着いて、そこで座り込んだ。荒い息が耳にうるさかった。深く吐き出して、つめたい空気を吸い込んだとき、また涙がぽろぽろわき出してきた。
 ね、知ってる? 私は藤田に聞きたかった。私、たばこを喫いはじめたの。あなたと同じ銘柄。けれど、まだあんまり、喫い方が分からなくて、かたちばっかりあなたのものまねで、それで、ときどき咳きこみながら、たばこを喫っているの。
 そのことを、知っている?
 私はわけが分からなかった。分からないまま、なにものかによって泣かされていた。ユースケの背中を見たときの青い切なさ。切実に、藤田に会いたいと思った。それで走った。その根源で脈をうつ私の、友情のかたちをした名前のつかない感情。でも恋じゃない。恋とは、私がユースケやマチダくんやアベくんに抱く感情のことだ。躊躇なく、心と体の一部を与えてしまえる、そういう関係のことだ。風がふいた。髪のしらない匂い。
 秋の夜はいけない。涙のとどまることをしらないから。私は、緑と白の煌々とあかるい店先に、座り込んで、膝に顔をうずめて、しばらく固まったままだった。そうして、そこから永遠に動けるような気もしなかった。
 携帯が震えた。
 ぼやける視界に、ユースケの名前が映った。
「——な、佐原。いま、どこにいるんだよ」
「……ね、恋ってなんだか知っている?」
「不慣れと非日常のことだろ——泣いてるのか?」
「いいえ」
 見上げた夜空の光が目のふちで滲んでいた。それは秋に飲み込まれてしまうような錯覚だった。はやく家に帰らなくちゃ。そうしてシャワーを浴び直す。私は、いつもの私の匂いに包まれ直されて、それからベッドにもぐりこむ。目が覚めれば、ぜんぶ元に戻っている。私はもとの私を取り戻す。
「泣いてなんかないわ」
 電話を切って、そっと立ち上がる。バッグからたばこの箱をとりだして、中身ごとゴミ箱になげすてる。このゴミはやがて処理場に運ばれて、大火力で燃やされてしまうだろう。そうして最後にのこる細かな灰が、きれいに蒸留された結晶であればいい、とそう願った。
 家へ帰ってシャワーを浴びた。それからベッドにもぐって——藤田の匂いは洗いおとしたはずなのに、鼻孔の奥をまだしらない匂いがくすぐるようだった。秋の夜は長かった。月の雫の部屋にこぼれる、美しい晩だった。



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