Web拍手用 原稿用紙10枚以下の短編小説
『僕と先輩と白い夏』
「暑い……」
太陽の猛威から逃げ込んだ木の陰に身を沈め、時折流れてくる涼しく乾いた風に身を任せ、全身から吹き出る汗を気にも留めずに、芝生の上に横になりながら僕は思わず呟いた。
毎週日曜日恒例の陸上部の自主練習が終わり、帰宅前の一休みと日陰に逃げ込んだのだまでは良かったが、心地良い空間に抱かれてしまった今では帰るのが億劫になってきた。
せめて日差しが少しでも弱まれば、と思いながら上半身を起こして視界を遠くへ向けるが、山の向こう側にも雲一つ無く、快晴の一言で済みそうな程で、放って置けばどこまで、どこまでも伸びて行きそうな青空が広がっている。
――どうやら、今日の天気は期待には応えてくれる気は無さそうだ。
元々解っていた事ではあったけれども、現実を直視しない限り疲れ切った僕の身体は動こうとはしてくれないので、あえて確認しただけだ。
もっとも、確認した所で緩みきった僕の身体が直に如何こう出来る訳ではないけれども。
「――もう、夏が近くまで来てるって感じだね」
ふいに聞こえて来た声につられて後ろを振り向く。
最初に見えたのは、部活用の指定ハーフパンツから伸びる健康的な太腿だった。
視界一杯に飛び込んできた太腿に、気恥ずかしいものを感じて視線を上げていくと、Tシャツの上から学校指定のジャージを羽織り、小麦色の肌に汗を滴らせながら、僕が今まで見ていた方角を、眩しそうに見つめている先輩が立っていた。
「あ、あぁ……夏ですか」
僕は動揺を隠すように平静を装い、面白くも何とも無い、オウム返しのような返事をするのが精一杯だった
薄手のTシャツが汗のせいか肌に張り付いており、薄っすらとブラジャーの輪郭が見えてしまい、見慣れている筈の先輩の姿に鼓動が大きく 高鳴り、何故か先輩を直視出来ず、僕もまた空を見上げた。
そんな僕の姿を見てか、小さく先輩が笑ったような気がしたが、わざわざ確認する事が出来る訳も無く、妙に気恥ずかしい思いを抱えたまま、 如何する事も出来ず八つ当たりのように変わらずに広がっている空を睨みつけると、先程までは居なかった闖入者である一匹の鳶(とんび)が悠然と飛んでいる姿を見つけた。
鳶は何をする訳でも無く、風と戯れるように空を縦横無尽に飛び回っている。
「――」
「――」
二人とも何を言う訳でもなく柔らかな沈黙に木陰が満たされていくのを感じながら、鳶を『ぼぉ』と見上げながら、先輩も鳶を見ているのだろうか、と思ったが、それを問い掛けても締まらないと思い――
「確かに暖かくなってきてますね」
――と当たり障りの無い事を呟きながら、先程の先輩の言葉をぼんやりと考える。
『夏が近付いている』と言うのは如何言う物なんだろう。
昔、友人に尋ねた事があったけど、その時は「お前、馬鹿だろ?」と言う答えしか返って来なかったな。自分でも、我ながら馬鹿な質問をしたと反省はしているが、如何しても僕には理解しがたいものなのだ。
意味は解る。理解も出来る。だけども、感覚として僕には解らないのだ。
「ん?どうしたの?」
いつの間にか僕の隣に立っていた先輩が、少しだけ怪訝そうな表情で覗き込むように僕の事を見てきた。
如何やら僕の思う所が表情に出ていたようだ。
普段ならば何でも無いと誤魔化していたけれども、話の切っ掛けになればと思い、笑われる覚悟で正直に白状する事にした。
「いえ、その……夏の気配とかっていまいち解らなくて……」
「――ん〜、夏ねぇ?」
我ながら訳の解らない事を言っているな、などと思いつつ苦笑を浮かべている僕の予想に反して、先輩は可愛らしく首を傾げて真剣に悩み始めた。
「そんなに悩まなくて良いですよ。何と言うか、そのフィーリングって言うんですか?先輩にとっては解らないでしょうし――信じられない話かもしれませんけど、感覚的な『モノ』って言うのが如何も僕は昔から苦手で……人の気配とかなら後ろに感じたりしますけど、夏の気配って漠然とし過ぎて理解できなくて」
「――眼に見えて、実感できるモノじゃないと解らないって事?」
「まぁ、極端な話ですと、そう言う事ですね」
汗ばんだ髪を掻きながら、何とも言う事が出来ずに僕は曖昧に笑った。
そんな僕と空を交互に一瞥した後、先輩は少し悩むように眉を顰めて眼を閉じる。
「夏ってさ――夏って良いよね」
一呼吸を置いてから先輩は目をゆっくりと開き、眩しそうに鳶がいつの間にか居なくなった遠くの景色を見渡しながら呟いた。
「今日みたいに太陽がガンガン照りつけてきて、胸が詰まる様な熱さを感じながら冷たい水を飲むと私は思うんだ……夏がきたんだなぁって」
幸せそうな溜息を吐くように言葉を吐き出しながら、光の加減で瑠璃色に見える大きな瞳で先輩が、僕の人よりも少しだけ冷めた部分を見透かす様に覗き込んでくる。
「ぶっちゃけ、夏なのか如何かは誰にだって解んないし、自分勝手にそう言うのを感じた時って言うか……何て言うか、こぉ、グッとしてギュッとして、暑くて、熱くて、だるくて、もう動きたくなくなる時もあるけど、やっぱり、ウズウズワクワクし始めるんだよ――私は、それが夏の気配って奴なんだと思うな、きっとさ」
「……そう言うもんですか」
嬉々と喋る先輩に見惚れていた、と思う。
それを悟られるのが恥かしくて、僕は平静を装うとしている努力が空回りして居るのが解る、少しだけ上擦った声で小さく頷くのが精一杯だった。
そんな僕を見ながら、先輩は意地悪そうな――ソレで居てどこか照れた様な笑みを浮かべて、さっきよりも近い距離で僕を覗き込んでくる。
「だから、さ――今年の夏は、二人でクタクタになるぐらいに騒がない?」
前振りの無い夕立の様な言葉が、僕の耳に降って来た。
言葉を理解して僕は目を大きく見開くと、悪戯が成功したと喜ぶチェシャ猫がほんの、ほんの少しだけ照れながら笑っているような先輩の笑顔が、視界一杯に飛び込んできた。
健康的に焼けた小麦色の肌。
ゆっくりと頬を滴る汗。
風になびく短い黒髪。
夏ってだけで楽しく笑ってられる先輩。
「私と一緒に、ワクワクしないかな?夏って奴をさ」
高鳴る胸の鼓動に合わせる様にただひたすら頷きながら、その時に始めて僕は実感して居た。
別に恋を自覚した事じゃない。
そんなものはとっくの昔にしていた。
そんなんじゃない、そんなんじゃない、そんなんじゃくて。
僕は初めて夏の気配を――僕と先輩の二人の夏を感じていた。
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