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Thanks!! 体育の日

「あれ?」
 午後2時。
 要は医局のドアを開いた。
 本日はオフなのだが、大学の方に用事があったので、ついでに病院の方にも立ち寄ったのだ。
「おう、どーした?」
 医局長が、指定席でいつもの様に週刊誌を広げている。
「医局長、せめて職場で袋綴じは開けないで下さい  じゃなくて、常盤木先生は処置中ですか?」
 当直明けのはずの七海の気配が無い。
 自宅マンションに戻っていないようだったので、てっきりこちらかと思ったのだが。
「ああ。常盤木なら、今、小学校」
 眠た気に大欠伸をかましながら、医局長が言い放つ。
「はぁ??」
 何故、そんなところに。
「朝、整形に緊急手術が入った訳よ。で、執刀に入った村上ってのが、今は開業して非常勤だが、常盤木が整形外科にいた頃の上司でな…おっ、こりゃ、なかなか」
 グラビアに目を奪われたようで、話が中途に途切れた。
「で! 整形の村上先生と、小学校がどう関わってくるんですか?」
 袋綴じの輪の中を覗き込む医局長から、週刊誌を取り上げる。
「お前ー、オッサンのささやかな楽しみを邪魔すんじゃないの。大事な嫁さんが気になるのは分からんでも無いが、心配性が過ぎると逃げられるぞ?」
「わーっ! 嫁さんって何ですかっ!」
 慌てて周囲を見回す。
 良かった、誰もいない。
「相変わらずイイ反応するねぇ」
 要の手から週刊誌を取り戻し、医局長はにやにやしている。
「で!?」
「村上先生は幾つか会社の産業医と、学校の校医を請け負ってるんだが、今日はそのうちの一つ、某私立小学校の運動会に来賓として招ばれてた訳よ。ところが、明け方からの緊急手術だろ? 身動きが取れなくなった村上先生は当直表の中にかつての部下の名前を見つけましたとさ」
「で、小学校ですか」
 どれだけ厄介ごとに巻き込まれやす人なんだ。
 今は不在の恋人の顔を思い浮かべつつ、要は溜息を吐いた。
「…そういう時ってな、人選が難しいもんでねぇ」
 嘆息する要に、医局長が言葉を付け足した。
「はい?」
「基本的には、自分がイニシアティブを握れる相手  まあ部下や後輩だよな。かと言って、極端に格下の人間だと、相手の面子を潰しかねないからNG。しかし、程々の看板を掲げられる人間は、基本的に野心家が多い。代役に顧客を持ってかれるなんざ、シャレにもならん。諸々考え合わせると、常盤木は非常に適任なんだろうねぇ。まあ、間違っても俺みたいなのには振ってこないだろうな」
 到底野心のある人間の態度には見えない医局長だが、七海が適任と言うのは理解出来た。
 元部下、准教授、野心なんか見たことが無い。
 成る程の人選だ。
 納得、納得。
 要が無言で頷いていると、医局長がオマケにぽつっと一言。
「それに、見栄えと外面はいいからなー。私立の小学校じゃあ、今頃若い母親に囲まれて大変だったりしてな」

    う。

 それが有ったか。
 小学生の母親=比較的若い女性(しかも、行事となれば粧し込んで来校している可能性大)。
 少々豊か過ぎる想像力がフル回転している後ろで、ピリピリピリピリ警告の様な電子音が  
「遠藤、遠ー藤、ぐるぐるしてっところ悪りんだけど、内科の時間外診療、行って」
「へっ?」
 医局長の声に顔を上げると、その手には受話器が握られていた。
 音の正体は内線だったらしい。
 要が、何のこっちゃと目を丸くしている間にも、医局長は内線の向こうの相手と話を進めている。
「うちの若いのそっち寄越しますんで、そこらへんにテキトーに転がしといて下さい。よろしくー」
 当然、『うちの若いの』と言うのは要のことだろう。
(俺、オフなんですけど??)
 と、突っ込む暇もなく。
「って事で、な・い・か、行ってこい」
「ええっ??」
 何でだ?
「常盤木、運動会は無事終わったらしいが…水分を摂る間も無く接待続きだったらしくてな  脱水症状起こしたとかで、今、内科の時間外診療に居るんだと」
「えーっ!?」
 せっかく酷暑も終わったこの季節に、脱水って…。
「冗談抜きで来賓のオバサマ方に囲まれて、エライ目にあったみたいだぞ、見舞ってやらんでいいんかい?」
 医局長がにやにや笑って、もう一言付け足した。
「それに、早く行かねぇ誰かが処置しちまうぞ、良いのか?」
「へっ?」
「脱水症状だろ、どんな処置すると思う?」
「脱水…軽度ならリンゲル静注ですよね  
 しかし、通常より体内の水分が足りない=血液の循環が悪い。
(と、言うことは…)
「俺なら、さっさと大腿静脈に打つね。その方が早い」
 大腿静脈。
(そうだよな、末梢より、太い血管の方が手っとり早  大腿!?)
 大腿  俗に言うふともも。
 大腿静脈はふとももの付け根からやや内側から走行している太い血管である。

 そこに点滴を入れるということは…。
「一応、内科にはこっちから人手を出すって言っといたけど、あんまりモタモタしてっと内科の研修医なり看護師ちゃんなりに、脱がされちゃうかもなー」
 そう言った瞬間の医局長は、悪魔の様な笑顔。
 一瞬で想像できてしまったその場面に、ざあーっと血の気が引いた。
「ら…っ、らめえええええええぇぇぇ!!!」

 後から聞いた話、その時の要の叫び声は見事なまでのドップラー効果で医局の廊下に響き渡ったらしい……。



約20秒後、要は内科外来の前にいた。
 顔見知りの看護師が、要の姿に気付いて声を掛けてきた。
「遠藤先生じゃないですか、お久しぶり。内科研修以来じゃないですか? たまには内科にも顔見せて下さいねっ。 ああ、そうそう! 常盤木先生の処置で来てくれたんですよね?」
「そ、そうです、そうです!」
「あー…せっかくご足労頂いたのに、申し訳ないなぁ…」
 バツ悪そうに、看護師が苦笑いを浮かべた。
「え、てことはまさか、もう…?」
「あははー、そうなんですよ。今丁度処置中でして…。あ、外来3番の処置ベッドにいると思いますよ」
 聞くなり、要は3番へ飛び込んだ。

(七海さんの服を脱がせたのは誰だーっ!!)

 とは、さすがに声に出せなかったが、3番の処置ベッドに現れた要の顔は物凄い形相だったらしい(後日談)
「あれっ、遠藤!?」
 何故か、そこには七海しかいなかった。
「………あれ………?」
 拍子抜けである。
「何だよ、びっくりするじゃないか。おかしなとこに針刺したらどうしてくれんだよ」
 苦笑する七海の手には点滴用の中空針を繋いだシリンジ、その横には点滴セット一式とリンゲル液のパック。
 病衣の裾を捲り上げ、丁度針を入れようとしているところだった。
「あ、あれ?」
 七海は自分で自分の処置をしていた。
「大したことないから自分で処置しますって、さっき医局に電話入れたのに」
 さっきの電話、どうやら七海本人からだった様だ。
「……また、はめられた……!」
「何だ、また医局長に騙されたのか」
 おかしそうに七海が笑っている。
「す、すみません」
「どれだけ重症って吹いたんだあの人は。飛び込んで来たときのお前、すごい顔だったぞ」
 七海の方は、医局長がよほど重症だと騒いだ様に受け取ったらしい。
「いえ、その…」
 まさか、症状の軽重ではないところです、とは言い辛くなってしまった。
「まあ、心配してくれたのは嬉しいけど?」
 針を一旦手から膿盆に戻し、先ほど要が勢い良く開けたカーテンを、七海が閉じた。
 ふんわりと巻き付いて来た両腕と、吐息だけが触れる程度の口接け。
 根本的な部分で勘違いがあったものの、要が慌てふためいた様子で駆け込んで来た姿が、七海は思いの外嬉しかったらしい。
「えー、…その、ですね…。
 何事も無くて、良かった…です」
 七海の頭を引き寄せ、くしゃっと混ぜる。

 その瞬間  

「常盤木先生ー、出来ましたぁ?」
 がらりと、外来3番の扉が開いた。
 この時、要の身体を思い切り突き飛ばした七海に、決して悪気は無かっただろう。
 当然、様子を見に来た看護師にも何の他意も無かっただろう。
 膿盆の上に、ルゴール液=いわゆるヨウ素チンキが載っていたのも、当たり前の話。
 その膿盆が、体勢を崩した要の上に降ってきたなどと言うのは、偶然の神様に愛されているとしか言いようが無い。
 例え要が、たまたまオフで、私服で、それがよりによって薄いブルーのピンストライプのブラウスだったとしても、だ。
 しかし。
「だーかーら、職場ではやめとけっていつも言ってるだろっ」
 看護師が去った後、七海が腕組みをして言い放ったこの一言だけは釈然としないのは、果たして自分だけだろうか。

 今日も諸々の理不尽に頭を抱える要であった。


*2010/09/29



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