Thanks. 優しい、日。
まだ忍が中学生の頃。
それは、夏祭りの日だった。
駅前通りに出ると、色とりどりの浴衣に身を包む人が、群れを成して歩いてゆく。
皆、一様に。
同じ方向へ。
「すごい人だな」
忍の隣で、志月が苦笑いを零した。
今日、忍が学校から帰ると、何を思い立ったのか志月は、突然夏祭りへ行こうと言い出した。
駅から徒歩十分ほど歩くと、有名な神社がある。
今日から四日間夏祭り。
普段は閑静な住宅街が別の街に変わってしまった様な人いきれ。
(潰されそう…)
人込みに不慣れな忍は、大きな流れに今にも押し流されそうだった。
色とりどりの提灯が並んで吊り下がり、どこまでも連なる人の頭の向うに、屋台の屋根がちらちらと見えている。
サンダルなんかで出掛けなければ良かった。
履き慣れないサンダルで出かけてしまった事を、忍は少し後悔した。
神社の鳥居が見える頃には、もう自分の足許が見えない程の人込みになっていた。
浴衣姿に草履履きの女性に、何度も爪先を踏まれる。
安物の香水の匂いと相俟って、響く笑い声。
食べ物やアルコールの匂いが、徐々に古い記憶を呼び覚ます。
気が遠くなりそうだった。
「大丈夫か?」
意識を何処かへ持っていかれそうになった瞬間、志月が忍の腕を掴み止めた。
そして、忍の身体を引き寄せる。
「…平気」
人の流れは後ろから押し寄せてくる。
志月が忍の身体を、半身前に出した。
そして、左腕で小さな空間を作り、歩けるだけの場所を確保した。
「あ、ありがとう」
忍の背中が、志月の胸に着く。
優しい匂いがする。
ホッとした。
それほど鍛えている様に見えないのに、触れると意外に筋肉質なのが分かる。
80キロに及ぶ機材を担いで撮影に行くからだ。
いよいよ鳥居を潜ると、そこはますます人がごった返している。
やっと拝殿の側まで来たけれど、到底お参りなんか出来そうも無かった。
「…真っ青だ」
腰を屈めて、志月が心配そうに忍の顔を覗き込んだ。
「平気だよ」
人込みは少し苦手。
だから酔っただけ。
「平気じゃない」
そう言うと志月は、忍の手を引いて、拝殿から横に逸れて歩き始めた。
拝殿の横を通り過ぎると、そこには古く大きな御神木があった。
誰も拝殿の後ろに回るような人は無く、そこはまるで切り取られたように静かな空間だった。
「少し静かにして、待っていろ」
忍を大き目の石に座らせると、志月は拝殿の表の方へ戻ってしまった。
見上げると、星も月も無く、空は真っ黒だった。
目を閉じて耳を澄ますと、遠い処から微かに祭囃子が聴こえてくる。
もうすぐ御神輿が宮入りするのだろう。
(せっかく…連れてきてくれたのにな)
どうして、外に出るとすぐにこんな風になってしまうのだろうか。
特別身体が悪い訳でもないのに。
(出掛ける度にこんなになって、呆れてるだろうな…)
自己嫌悪が忍の背中を覆う。
そして少し後を追う様に、焦燥感がじわりと滲むのだ。
もし、このまま置いて行かれたらどうしよう。
ひとりきり、この暗闇に置き去りにされたらどうしよう。
忍は、彼の求めるものを持っていない。
それを、心の何処かで知っていた。
それならば、せめて嫌われないようにするしかない。
そんな事を考えていたら、ますます気分が悪くなった。
一緒に連れて行って。
置いて行かないで。
思い出せないくらい遠い昔に言いそびれたはずのその言葉が、咽喉の奥にずっと詰まったままだった。
「…置いて行かないで」
ぽつりと、呟いた。
誰も聞いていなければ、こんなに簡単に音になる。
「 行く訳ないだろう」
背後から、呆れた様な声が返ってきた。
「え…っ?」
忍は驚いて後ろを振り返る。
「置いて行く訳無いじゃないか。何を考えてるんだ。氷を買いに行ってただけだ」
お茶のペットボトルと、カキ氷を手に持って、志月が立っていた。
「ご、ごめんなさい」
恥ずかしいと思った。
それはずっと隠していた、子供じみた言葉だったから。
「思ったより時間が掛かった。不安にさせて悪かった」
そう言って志月は忍にカキ氷の方を渡した。
少し困った顔をしていたが、彼は笑っていた。
「人込みで上せたんだろう。氷でも食べて、少し落ち着いたら家に帰ろう」
忍の座っている石の隣に腰を下ろし、彼はお茶の蓋を開けた。
その肩に、忍は自分の肩をくっつけた。
「…? どうした?」
優しい声が、耳をくすぐる。
もっと、たくさん、話してくれたらいいのに。
「帰り道、手を繋いでもいい?」
忍がそう言うと、志月は一瞬驚いた顔をした。
「構わないよ」
けれど、すぐに笑ってそう答えた。
それは、とても優しい一日だった。