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Thanks.!! 多重構造ポケット

 それは、七海は受け持ちの講義を終え、大学から病院へ移動している途中の事。
 普段なら連絡通路を通るのだが、秋晴れのその日は風も心地好く、勤務までの時間にも少し余裕があったので、少し遠回りをしていた。
 学舎の正面玄関から出て、構内の建物同士を結ぶバス通りを散歩がてらゆっくり歩く。
 道沿いを等間隔に並ぶ木々の葉は未だ緑色をしているが、それでも夏の様な鮮やかさは引き、緩やかに色褪せつつあった。
 座学の講義は肩が凝って仕方が無い。
 七海は両腕を空に、大きく背筋を伸ばした。
 講義は4コマ目だったので、今はもう黄昏時だ。
 秋風にさんざめく樹々の枝葉は、学生達のお喋りと少し似ている。
「それにしても、結構風が強いな」
 向い風を孕んで、白衣が大きく膨らんだ。
 ざあっ、と一際大きく枝葉を揺らし、突風が吹き抜ける。
 七海は、正面からぶつかる空気の塊に一瞬視界を奪われた。
「びっくりした   
 七海が目を開くと、そこはどこかの高校の校庭だった。
 風にざわめく桜並木。
その向こうには、夕日に照りつけられた校舎が緋色に染まっている。
 下校時刻だ。
 部活動の無い生徒達が、校門から外へ流れてゆく。
 それぞれが、自由な速度で。
 思い思いの表情で。
 子供ではいられない、大人にもまだなれない、たゆたう様に流れ出てゆく高校生の群れ。
(え? 何、どこだ、ここ   
 自分の職場である大学の構内にいたはずが、一瞬で見知らぬ高校へ。
(何、これ。どうなってんだ)
 見た事もない制服。
 男子校出身の七海は、足を踏み入れた事のない共学校。

 ちょっとしたパニックを起こしそうになった瞬間、ダン! と強く何かを打つ様な音が背後から聴こえた。
 反射的に背後を振り返る。
 そこに在ったのは、真新しい体育館だ。
 七海は音のする方へ、そろりと近付いた。
 そっと中を覗くと、そこで行われていたのはバスケ部の練習だった。
(紅白戦かな? ゼッケン付けてる)
 2チームに別れて模擬試合をしているところらしい。
 コート回りには、女子部の部員も見学に集まっている。
 マネジャーらしき生徒が、真剣な顔でスコアを付けている。

 ダン、ダン、ダン、ダン  

 響いていたのは、ドリブルの音だ。
 それが、ピタリと止まった。
 選手の手から放たれたボールは弧を描き、ゴールポストへ  
 
 審判役のコーチが高らかに笛を吹き、刹那、沸き上がる歓声。
 得点したのは、白ゼッケンのチームらしい。
 赤いゼッケンを付けた選手が、素早くボールをコートに入れる。
 ボールがコートを打つ力強い音が断続的に館内に響いている。
(どうして僕は、こんなところにいるんだろう?)
 その疑問が浮かび上がるのと、七海の目に或る人物の姿が飛び込んできたのは、ほぼ同時の事だった。
(遠藤…!?)
 見覚えのある背中。
 腕の形。
 横顔。
 赤いゼッケンのチームの中に、遠藤要がいる。
『1本取るぞ』と言う掛声と同時に、彼は右手を振り上げた。
 中盤のせめぎ合いを抜けたガードが、右サイドを走る彼に低めのパスを送る。
 目紛しく動き回る彼のゼッケンが捲り上がり、その背中には大きな背番号『11』の文字。
 何度もゴール下に潜り込んでは果敢にシュートを繰り返す。
(デカイ、デカイと思ってたけど、バスケ部の中じゃそれ程飛び抜けてデカイ程でもないんだな)
 180cmなどむしろ平均の様で、190cmクラスの選手がごろごろしている。
 この奇妙な現実を忘れ、うっかり七海は試合の成り行きを眺めてしまった。
 相手チームのディフェンスに弾かれても、弾かれても、我慢強く何度も打ちにいく。

  フォワードかぁ。

 どちらかと言えば、デェフェンス向きのイメージを持っていた七海には、少し意外だった。
 そして、そんな事を考えた自分が急に可笑しくなった。
(僕が高校生の遠藤を知る訳が無いのに)
 思わず苦笑する。
”遠藤先輩、ナイスファイト!”
 コートの外から、彼に送られたエール。
 女子部員か、下級生か。
 その眼差しに、七海は実習生の朝日の顔を思い出した。
 声の方を振り返り、微笑んで手を振る要の顔も、まだどこかあどけない。
 それはとても眩しく、少し胸を締め付ける光景。

(そっか…)

(これは、夢なんだ)

 それでなければ、これ程までに荒唐無稽な光景は或る訳が無い。
 夢ならば夢で、醒めてしまうまでの幻を楽しもう。
 七海は更にコートに近付いてみる。
 ドリブルの音や歓声だけではなく、床に擦れる靴の音や、ボールを手で弾く乾いた音までもがリアルに聴こえた。
(この頃の僕は何をしてたっけ)
 少なくとも、部活に勤しんだ記憶はない。
 どこぞの理科系クラブに名前だけを貸していたくらいか。
 思い起こせば、学校と、予備校と、渡辺家を移動するだけの日々。
(部活くらいしとけば良かったかな。ちょっと勿体ない事したかも  
 青春まっしぐらの光景を前に、七海の口から苦笑が洩れる。
 気付けば、七海はコートの真傍に立っていた。
 しかし、誰も七海に気付いた様子は無い。
 すぐ横でホイッスルを手に走る審判も、声を張り上げ声援を送るベンチの選手も、誰も七海の事など全く見えていない様子である。
(まるで幽霊にでもなった気分だな)
 いや、例えばそれが現実だったらどうだろうか?
 さっきまで大学で講義していた事の方が幻で、こちらが現実だとしたら。
 常盤木七海なんて医師はどこにも存在していなくて、遠藤要はまだ高校生で、研修医になどなってはおらず、二人が出会っている『今』なんてどこにも存在しない  
 そう考えた瞬間、現実というものの曖昧さが冷水の様に身体に染み込んでくる。
 今、自分が自分だと証明出来るものは、自分自身の意識だけ。
 そんな恐怖に足を掴まれそうになった瞬間
「危ない!」
 正面から飛んできたのは怒声と、ボール。
 真横で短く上がるスコアラーの悲鳴。
 ボールは七海の身体を突き抜けて、そのまま体育館の外へ飛び出していった。
 それを追いかけてきたのは、要。
 ボールを追う彼と、一瞬目が合った様な気がした。
 次の瞬間、ボールと同じ様に彼も七海の身体を突き抜け、次の瞬間、七海の視界から全てが弾け飛び、真っ白になった。

  …か…

 遠くから何か聴こえる。

  な……ん…

 何だろう。

  …ぶ……か…

 段々近付いてきている様な?

「七海さん、大丈夫ですか!?」
 それは、要の声だった。
「すみません、風で思い切り飛ばしちまって  
 カサ、と音を立てて、七海の視界は再び有色の世界を取り戻した。
 視界を遮っていたのは、真っ白な  何て事は無い、ただのプリントだった。
「何だ、これ!?」
「今日の症例検討会で使ったプリントです」
 いや、顔面に張り付いていた紙切れの正体はどうでもいい。
 目の前に立っているのは、七海と同じ白衣に身を包んだ要だった。
 高校生ではなく、成人して、仕事仲間として共に働いている彼が目の前にいる。
 風が吹いたかと思えば異空間へ飛ばされ、今度はまた一瞬で元の世界へ。
「夢でも見てたのか?」
 白昼夢。
 そう考えるのが、どうやっても一番合理的。
 真っ昼間ではなく、夕方だけれども。
(だよな…。あっちが夢だよな…)
 七海は大きく安堵の息を吐いた。
 それにしても、まさか、歩きながら眠ってしまったのだろうか?
「ここんとこ疲れてたからかなぁ…」
 講義、勤務、講義、発表、このところ大学構内しか移動していない気がする。
  これじゃ、高校の時と変わらないな)
 学校と予備校と自宅の無限ループをひた走った高校時代が、リアルに蘇る。
「大丈夫ですか? まさか、プリントで頭打ったとか無いですよね」
 七海の眼前で、要がパタパタと掌を振った。
「ある訳ないだろ、バカ」
 その掌を、ぺしっと叩き落とす。
  ですよねー」
 白昼夢の中では先輩顔で頼りがいもありそうな面構えをしていたはずなのだが、そこにいる彼は相変わらず図体ばかり大きな仔犬だ。

  本人に言ったら、抗議されそうだが。

(やっぱ、夢だな。うん)
 過密勤務が祟って、立ったままうっかり眠ってしまった。
 夢は、経験を元に情報を繋ぎ合わせて仮想の記憶を構築する。
 だから、知りもしない過去の出来事をも具象化したのだろう。
 しかし、どうしても気になったので、七海は一つだけ要に質してみる事にした。
「お前さ、高校でバスケ部だったって言ってたよな?
 もしかして、フォワードだった?」
 それは、自分がとても意外に思っていた事だ。
 果たして夢とは、想定外の  むしろ予想に反する物語を作り出すものなのか。
 この突拍子もない質問に、要は目を丸くしながら答えた。
「ああ、3年になってから、その夏の大会が終わって引退するまでの間だけフォワードやってましたね。ホントに短期間ですけど。
  って、あれ? そんな話しましたっけ?」
 丸まった目が、更にくるっと回る。
「いや?」
「ええ? じゃ、何で知ってんですか〜??」
「……夢のお告げ」
「はあ!?」
 
 そういう事にしておくべきだろう。
 或いは、時空なり次元なりのポケットに一瞬滑り落ちてしまったのかもしれないが  
(こんな話したら、本当にどこかで頭打ったと思われるのがオチだからな)
 多重構造世界など、現実的には立証不可能なのだから。

 そして、どれだけ交差していようが、無限に拡がっていこうが、今、こうして存在しているこの世界が一番大切だ。
 今がとても満ちているから。
「さて、そろそろ医局に入っとかないとマズいかな」
 そう呟いて、隣に並ぶ恋人の背中を右手で強く押した。
「は、はいっ!」
 緩やかに壊れてゆくトワイライトゾーンの残光を背に受けながら、七海は要を伴い、具象化された現実の最たる場所  高度救命救急センターへと、足を向けた。


*2012/10月