Thanks.!! 医局長の所見
桜川病院ER医局長、小田切蛍雪。
彼の趣味は部下を揶揄うことである。
今、彼が主にターゲットにしているのは、研修医の遠藤だ。
最近になって職場内に恋人が出来た彼は、非常に揶揄い甲斐のある相手だ。
「お疲れ様です」
その相手が、ルーティンワークを終えて医局に戻ってきた。
「お疲れ。異常ナシ?」
小田切は遠藤の指導担当ではないが、本来の指導医が論文の追い込みで多忙な為、彼になり替わり預かっている。
「ナシっす。平和ですねー、今夜は」
ヘラっと笑ってこの研修医がタブーの一言を言い放ったので、音速でその口を塞いだ。
「もががが…!! ぁにすんですか!!」
「これだから今時の若い者は…モノ知らずで困るなぁ」
教えて進ぜよう。
救急室のジンクス。
「何なんですか、一体」
恨めしげに睨み下ろしてくる(こ奴の方が背が高いので、見下ろされるのは致し方が無い)小若僧に、先輩からのアドバイス(?)だ。
「救急ってのはな…"今日は平和ですね"とか、"暇な夜だね"って言った瞬間忙しくなるという恐ろしい法則があるんだ」
これは本当だ。
大昔から存在し続ける魔のジンクス。
「はあぁ」
現代人の若者が、"これだから年寄りは迷信深くて困る"的視線を放ちやがった。
生意気な。
「お前ね、目上の人間に対してそういう態度でいるとイジメちゃうよ?」
とか言って、耳の下に思いっきり息を吹きかけてやった。
「うわぁぁぁぁっ」
猛ダッシュ。
約3m。
医局の端から端を若者は駆け抜けた。
「慣れてるだろぉ? こんくらい」
おっと、ここまで言うとセクハラか?
まぁ、男だからいいか。
「慣れてませんよ! て言うより、何で医局長に息吹かれなきゃいけないんですかっ!」
おお。
半涙目。
面白い。
小田切の顔が緩んだ。
「そりゃ、看護師さんや女医さんにやったらシャレにならんだろ」
「だからって何で俺なんですか!」
「何を言うんだ! 俺は職場では博愛主義者だぞ? 小沢先生だってMEの崎谷だって、皆等しくターゲットだ」
「あっ、そーですかっ!! ……?? オヤ…? そう言えば、医局長的に七海さんはターゲットから外れてるんですね」
遠藤が不思議そうに首を傾げた。
「何、俺が常盤木にちょっかいかけていい訳?」
これも、かなり意地悪だろうか。
常盤木と遠藤は付き合っている。
「よくない! よくないです! …が、男性スタッフにはこれだけ満遍なくちょっかい出してるのに、七海さんだけ外れてるのが却って気になります」
「ははあ。なるほど」
「で、何でですか?」
真剣な顔で、若者が詰め寄ってきた。
「あんまりにじり寄るな、暑苦しい。俺は自分がちょっかい掛けるのは大好きだが、迫られるのは好かん! 俺に迫っていいのは家で待ってる可愛い嫁さんだけ!」
全く、恋は盲目とはこのことか。
遠藤ときたら、些細なことも気になって仕方ないらしい。
「ま、いいや。常盤木にちょっかい出さんのは、やっぱりシャレにならんからだ」
「何で!?」
恋に逸った若者は、遂に上司の胸倉を掴みあげやがりましたよ。
(おいおいおい、若者、お前が掴みあげているのは上司だぞ?)
「お前さんが一番身に覚えあるだろうが。お前の前であいつにちょっかい出したら、お前絶対本気で俺を殴るだろ」
「あ…そっすね」
と、遠藤が納得した瞬間、医局のドアが勢いよく開いた。
「すみませーん、こっちにACLS学会の資料来てないですか!?」
論文と格闘中のはずの、常盤木だった。
現在の状況を確認。
ものすごい勢いで、詰め寄る遠藤。
窓際に追い込まれている小田切自身。
それを、遠藤の背後から見ている常盤木。
どう見ても、遠藤に迫られているようにしか見えない、この姿勢。
「………………」
凍り付いたような沈黙。
常盤木はスタスタと小田切の机に投げ散らかされた資料を取りまとめると、無言で入口まで戻っていった。
「医局長、よーぉっく覚えといて下さいね」
にこやかに微笑んで、常盤木が医局を出て行った。
ヤバい。
本気で怒っている。
「…って、何で俺なんだ! どう見ても迫られているのは俺だろうが! おい、常盤木!」
どうやら、常盤木は旦那が浮気したら相手を責めるタイプらしい。
「あー、すみませんねぇ、医局長。結構本気で怒ってましたねぇ、今の笑顔」
こいつはこいつでへらへら笑いやがって。
「誰のせいだと思ってんだ…! どうしてくれんだよ、アイツ怒ったらしつこいんだぞ!?」
「知ってます」
開き直ったな。
(俺は、職場恋愛には理解のある方だが…。人の性嗜好に口出しする気もないが…)
揶揄った自分に非が無いとは言わないけれども、せめて誤解くらいは解いていただきたい。
円滑な職場づきあいの為にも。
「まあまあ、顔合わせたら、ちゃんと誤解は解いておきますってば」
部下に肩を叩かれてしまった。
(はあ…揶揄って遊ぶつもりが、やれやれだ)
小田切の口から、自然と溜息が洩れる。
「カップルにちょっかいかけると、シャレにならんな…。しばらく控えるか」
シャレにならない事は苦手である。
胸ポケットの煙草の残量を確認しつつ、小田切は喫煙室に向かった。