【市っちゃん】






          「ちょっとォ、お父さん。あのね、いくら快気祝いをしたからって、飲みすぎて石田さんたちに迷惑をかけちゃだめじゃないですか!

          それにまた具合が悪くなったら元も子もないんですからね!お父さんももうトシなんだから、気をつけて下さいよォ」
          
          朝起きて二日酔いの鈍い頭を抱えながら朝食を食べていると、がみがみと女房の小言が飛んできた。

          「わかってるよ!」

          まだ台所でぶつぶつ言っているのを聞き流して、さっさと席を立った。

          「ごちそうさん」

          「どこかに行くんですか?」

          「散歩だよ、散歩!」

          そのままコートを手に取ると、ポケットに財布をつっこんで、さっさと家を出た。

          いつもならどうということはないことがいらいらと気に障るのは、昨夜の快気祝いの席での気まずい出来事のせいだった。

          俺が胃潰瘍で入院して、ようやく退院できたのを喜んでフジミのみんなが席を設けてくれた。

          ただ、真っ先に来てくれると思っていたコンマス・・・・・いや、今は休業中の守村くんが遅刻したことが気にさわったのだ。

          今彼が一生懸命ガラ・コンサートの準備に取り掛かっていて、他人の事には気が回らないっていうことはわかっていたはずだった。

          まあ、練習ににかかりきりになっていないで、たまにはフジミに顔を出してくれてもいいだろうとは多少は思っていたが。

          もっと面白くなかったことは、付き合いも渋っていることだ。入院中のカルテット演奏を辞退したこともだが、

          仲間の祝いくらいちょっとくらい出てきて、快く付き合ってくれてもいいんじゃないか。

          それまでフジミのみんなに気を使ってくれていた彼が、あまりにも手のひらを返したような態度になんとなく腹が立っていたのだ。

          が、彼の姿をみてぎょっとなったのも事実。

          そして、そんな彼を見て気おくれしてしまった自分にも腹を立てた。

          だから彼につい悪がらみしてしまった。

          そんな自分の態度がまずいと思ったことで、ますます言ってはいけないようなことを言いつのってしまい、

          守村くんの傷ついた顔を見たことで更に悪酔いした。

          久しぶりに見た守村くんは、こいつ大丈夫かと思うほどやつれていたのだ。

          それほどまでにやらなきゃいけないことなのかと思った反面、そんなにからだを痛めてまでやらなきゃいけないのかといらだったこともあり。

          それやこれやで、すっかり酔い潰れて家まで送ってきて貰ったのだが、一晩経って酔いがさめて、昨夜の自分の行状を思い出して、

          今は自己嫌悪の真っ最中。





          「何やってんだか」

          昨夜の荒れ方については自分でも分かっているぶん、女房にまで言われたくなくて家を出たものの、散歩とは言っていたが

          いつの間にか足は守村くんの住んでいるあたりへと足が進んでいた。

          ぼんやりと守村くんと桐ノ院くんとがシェアしているという古い洋館をながめていたが、中に入るには勇気が足りなかった。

          一体何を言えばいいものか。謝罪するにしても、果たして彼は受け入れてくれるだろうか。

          「市山くんではありませんか。何かありましたか?」

          俺の背後から掛った声は、フジミのコンである桐ノ院君のもの。

          振り向いてみると、買い物帰りなのか片手にはビニール袋がぶら下がっており、中には食材があれこれ入っているのが垣間見えた。

          飛び出しているのは、長ネギか。

          「コンは買い物かい?」

          「はい。よろしければどうぞお入りください。ちょうど僕からの話もありますので」

          俺はためらったが、意を決してコンに続いて洋館の中に踏み込んだ。

          ここに二人が引っ越してきたときに手伝いに来たが、家の中には入っていなかったから、中を見るのは初めてだった。

          「お邪魔するよ」

          玄関の中へと足を踏み入れた瞬間、俺は固まっていた。

          家の中には、いっぱいにバイオリンの音が鳴り響いている。

          ぴんと張り詰め、削りあげようと集中している音。

          綺麗な音だった。

          だがそれは荒々しい日本刀の切っ先やクリスタルガラスの破片のような、生々しくまだ完成には至っていない、

          少なくとも演奏者はそうは思っていない演奏だった。

          止めることさえできないような息苦しさ、無理に止めたらそのとたんに全てが崩壊しそうな緊張感。

          「これ・・・・・守村くんだよね」

          「はい」

          桐ノ院くんはごく普通の声で言った。まるで何事もないかのように。

          こんな音を平然と聞いている。緊張もいらだちもなしに!

          「気に障りますか?」

          「い、いや、それより俺たちがしゃべっていると、守村くんの集中の邪魔になるんじゃないのかい?」

          「いえ、今練習は佳境ですから、バイオリン以外の事は彼の耳には入りません」

          どうぞ、とスリッパを出され、台所の方へとうながされたが、どうにも足が進まない。

          すると彼は苦笑して言った。

          「ここでは話が出来ないようでしたら、モーツァルトに行きますか?」

          「・・・・・そうさせてくれないか」

          俺はそう言うと、先にそそくさと外へと足を踏み出して息を吐き出した。

          家の中では呼吸さえ苦しくなっていた。

          コンが荷物を仕舞いこんでいるらしい音が続いていたが、すぐに家の中から出てきた。

          「おまたせしました」

          「守村くんに出かけて来る事を言わなくていいのかい?」

          「今の彼には僕の声かけなど邪魔なものでしかないでしょう。帰ったら改めて話します」

          そう言うと、僕をうながした。

          「なあ、コン。守村くんはずっとあんな調子で練習しているのかい?あんな張り詰めた練習をずっとしてちゃあ、

          からだを壊すんじゃないのかい」

          「まあそうですが、最近はきちんと生活リズムを作り上げて練習をしていますから大丈夫でしょう」

          「最近は、ってことは、それまではひどかったのかい?」

          「正月に入ってすぐなどは、音楽室に立て籠って2日ほどは出てきませんでしたね。食事などはその都度差し入れていましたが」

          そんなに・・・・・!

          彼の淡々とした言い方の中に、事の深刻さがうかがえた。それほどまでに守村くんは追い詰められているのかと。

          モーツァルトまでの道を歩く俺は何もしゃべらなかった。話そうにも何をどう言えばいいのか分からなかったのだ。

          桐ノ院くんは俺がなぜここに来たのか察しがついていただろうが、話しかけてこなかったことを感謝していた。




          カランカランと軽いベルの音と共に、モーツァルトのドア開けて俺たちは入っていった。

          「いらっしゃいま―――――」

          店主のいつもの挨拶の言葉は途中で止まった。

          桐ノ院君が連れて来たのが俺だと知って、びっくり仰天したらしい。

          あっけにとられた顔を見て、ちょっとだけ気分がよくなった。

          「石田くん、少し時間をいただいてもよろしいですか?」

          「あ、ああ。いいですよ。どうぞ。今はちょうどモーニングが終わって一段落していたところなんだよ」

          俺たちが彼の前のカウンター席に座ると、それぞれにいつものコーヒーを出してくれた。

          いかにも、もの問いたげな顔をして。

          「市山くん。僕からの話を先にしてよろしいですか?」

          「あ、ああ。どうぞコンから話してくれ」

          「ありがとう。実は石田くんとは少し話したのですが、この春からフジミを留守にすることになりました。

          渡欧してあちこちのコンクールに挑戦しようと思ってます。

          留守中の代理指揮者は、M響の連中に頼んでありますので、フジミの練習については問題はありません」

          「そうかー。やっぱりチャレンジするんだ。東コンのリベンジってわけだな。で、どこを受けるつもりなんだい。

          あれか、有名なブザンソンあたりかい?」

          「はい。ブザンソンを含めて他にいくつか、というところですかね。どれを受けるかはこれから詰めていきます」

          「なるほどねぇ。・・・・・で、コンはそのコンクール挑戦の旅に守村くんを連れていくつもりなんじゃないのかい?」

          俺のセリフに、クニちゃんは目を丸くし、桐ノ院君のポーカーフェィスの眉がぴくりと上がった。

          「どうしてそう考えられたのですか?」

          「そりゃ俺だってン十年もクラシックファンをやっているのは伊達じゃない。・・・・・なんてな。

          耳だけはそれなりのものがあると自負してるんだ。まあ、プロにゃあ負けるがな。

          んでな、コンの家からここに来るまでの間、ずっと考えちまってたんだよなァ。

          俺は今まで守村くんはコンクールが終わったら、てっきりフジミに戻ってまたコンマスを続けてくれるんだろうとばかり信じてたんだよ。

          だけどさ、さっきの練習を聞いて、そんな考えが間違っているんだってよーく分かったんだ。

          彼はアマチュア音楽家のままで終わるようなモンじゃない。必ず世界でも通用するようなバイオリニストになる筈だってな。

          今はまだ磨き上げている最中で、巣立ちもしていないようなヒナだが、きっとフジミっていう巣を飛び出して羽ばたいていくんだろう。

          今はその準備のまっ最中ってことだよな」

          そう言いながら、二人の様子を見ていると、ちらりと目を見合わせているのがわかった。

          昨夜俺が荒れていたせいで、どうやって俺の気持ちをなだめて説得するか相談でもしていたんだろう。

          ところがどっこい。俺があっさりと意見を変えたので困惑しているのかね。

          「市っちゃんはボクよりもずっと耳がいいからねぇ。わかっちゃうんだねぇ」

          クニちゃんがしみじみといった調子で言った。

          「でよォ、コンがヨーロッパに行くってことは、守村くんも連れて行ってむこうで更に修行させるつもりがあるんじゃないかと思ったわけなんだが?」

          「僕の言うつもりだった事を言われてしまいましたね。守村さんが承諾してくだされば、その心づもりでいます」

          桐ノ院くんが苦笑しながら言った。

          「向こうでは守村くんがつけるような先生は見つかるのかい?」

          「はい、僕が以前留学していた頃のつてが使えますので、彼にふさわしいバイオリニストを見つけることは可能でしょう」

          「そうかァ。なるほどね・・・・・」

          それから桐ノ院くんは、自分のこれからのもくろみをいろいろと話してくれた。

          町のアマチュア音楽家として平凡の暮らしていた俺が思いもよらない先の展望まで。

          俺がイジケていた間に、クニちゃんは桐ノ院君とこんな事をいたんだと思うと、少しだけイジケの虫がうずいたが、すぐに話の内容に夢中になった。


          なんてロマンチストなんだ、この男は!


          フジミの専用練習場を持ちたいという計画は聞いていたけれど、それはどこか実現性のとぼしい夢の話のように考えていた。

          けれど彼はそれを現実のものとして着々と実行に移していたんだなァ。

          そしてその相棒が守村くんというわけなんだ。

          若いっていうのはいいよなァ。夢があるっていうのは、本当にいいよなァ!

          もっとも、今一人ガラ・コンサートのための練習に励んでいる守村くんにとっては、今のことろ差し迫ったガラ・コンサートだけに精一杯で、

          こんな将来の計画がされているなんてこと、考えてもいないんじゃないだろうか?

          そんなふうに考えて、あのきまじめで一生懸命なコンマスが話を聞いて目を白黒させる様子を思い浮かべて、ちょっと笑えた。



          そんなこんなで二人がかりで説得されて、俺は散歩に出る前と後では全く違う気分で自宅へと戻った。

          きっとフジミのコンとコンマスはいずれ世界的に活躍するような音楽家になるんじゃないかと思うと、ちょっとわくわくした。

          そして、そんな二人の手助けを・・・・・わずかばかりでも俺にだって出来るはずだ。

          飛び立っていく者たちの足をひっぱって引きずり下ろすような真似をしちゃいけないよなぁ・・・・・。うん。




          数日後、俺は早いところ考えをあらためておいてよかったと内心胸をなでおろすことになった。

          フジミのトラブルメイカーとなってきていた鈴木ヨシ子さんが練習場で言いつのっていた言い分を聞いて、だ。


          ―――フジミをないがしろにして、自分の事にかまけている。

          もっと仲間のことも考えるべきだ―――


          つまりはそんな事を言いたいらしい。

          しかしそれはアマチュア相手にしか通らない言い分で、プロをめざしている者にはまったく違う話だった。

          俺だって仕事が立てこんでいる時はフジミを休む。みんなもそれを当然とする。

          だが音楽を道楽としか思っていない彼女には、守村くんにとって音楽とは何より優先するべきことなのだとは理解できないのだ。

          と考えたところで俺は思わず首をすくめた。

          少し前までの自分。守村くんの練習を聞くまでは自分も同じようなことを考えていたからだ。

          まったく早く気が付いてよかったぜ。

          俺は背中に冷や汗が流れるような気分を味わいながら、鈴木さんのまだ続いている文句に耳をふさぎ、背中を向けて自分のバイオリンを取り出し、

          調弦を始めたのだった。













          なんて、長いようで短い3年前のことを思い出していた。

          あれから守村くんと桐ノ院くんは海外に出発し、桐ノ院くんは幾つもの指揮者コンクールで名をあげて海外を含めた活躍を開始している。

          そして守村くんは・・・・・なんと、先日ロン・ティボー国際バイオリンコンクールに優勝しちまった。

          今夜は守村くんを囲んでの優勝祝賀会と披露演奏会が開かれることになっている。

          こんな日が来るなんて、思いもよらなかったなァとしみじみ思う。

          そういう俺はといえば、長年働いていた事務所を定年退職し、ついに完成したフジミ音楽ホールの館長兼事務長に就任する事になった。

          この先も若い二人を蔭ながら応援して、楽しく過ごしていければいいと思っている。

          「お父さん、そろそろ時間なんじゃないの?」

          おっと、女房に言われちまった。

          俺はいそいでコートを羽織り、いそいそと祝賀会の会場であるガランドウへと出かけていった。






          2012.3/16 up








 

 
 
 





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