最近、気に入った蕎麦屋が出来た。
 上品な小料理屋でなく、初老の爺さんの打つ蕎麦は風味が良くて喉越しが良かった。それに、一人で飲む相手には饒舌な店主の人柄も気に入っている。
 仕事柄仕方ないのだが、堅苦しい仕来りやらそりの合わない上役や同僚と粋な店に行っても旨い酒を飲んでも正直疲れるだけだった。「つる屋」は古着屋で仕入れた浪人姿で訪れるには十分だったし、束の間でも自由に休める一時を与えてくれた。

 文月の、蒸し暑い朝だった。通り過ぎる商人達も、「暑い、暑い」と空を見上げてげんなりと足早に通りを過ぎていく。諸用で屋敷を出るのが遅くなった小野寺は、そんな人々とすれ違い飄々と歩いていた。馴染みの「つる屋」を、たまには昼間外から眺めるのも悪くない。遅くなりついでだ、と日差しの中気にもせず神田の乾いた道を歩く。「そういえば、近くに神田明神もあったな」「つる屋」の奥にあった神社を思い出し、最近体調の優れぬ母を思い出す。「早く所帯を」と詰る厄介な親ではあるが、遅くなるついでの寄り道もそう出来まい。
 まだ店を開けていない「つる屋」を越して歩を進めると、桶を手に滲む汗を額に浮かべた女が小走りに先を行く。神田明神を過ぎたのを見ると、その先の通称「お化け稲荷」にあるようだ。小野寺の好奇心が湧いて、その後を追いかけてみた。
 年の頃は、娘盛りを少し越えた様子。決して美人ではないが、愛嬌のある丸い双眸と困ったような下がり眉が妙に心に残る。
 小野寺が「お化け稲荷」についた頃には、娘はこの暑さのせいですくすく育った葉を毟っていた。既に、何日か通っているのだろう。聞いた頃にはもう誰も手をつけておらず鬱蒼とした薄暗い場所だったはず。「お化け稲荷」と聞いても怖がらずに、この暑さの中せっせと掃除をする娘の根性が気に入った。
「ごめんなさい、もう少ししたらもっと綺麗になるんよ?」
 鈴を転がしたような声だった。上方の出なのか、と小野寺は遠巻きにその様子を眺めていた。
 ふと、人の気配を感じる。隠れることもなかったのだが、娘を覗いていたと噂が立っては仕事に障る。脇の藪に素早く見を潜めた。
 見ると、「つる屋」の店主ではないか。隠れて良かったと、小野寺は胸を撫で下ろした。
 こっそり顔を出すと、娘と店主は何か話している。竹の皮で包んだ結びのようなものも、店主は渡していた。眺める二人の顔は楽しげで柔らかく、小野寺「面白そうなことになりそうだな」とにやりと笑い、そっと仕事場に向かい歩を進めた。



「小松原様、聞いてくださいよ。おっと、新しい酒も用意してきましたよ」
 「つる屋」の店主種吉が、蕎麦を食べ終わった小野寺こと浪人小松原に姿を変えた彼にちょろりを持って正面の席に腰を下ろす。あの暑い日から、暫く経っていた。

「店は俺一人。酒の相手をさせるなんざ、客として見てねぇな。勘定は払わねぇぞ?」
 小松原が憎まれ口を聞くと、種吉はまあまあと酒を勧める。 
「新しい料理人を雇おうと思いまして」
「ほう」
 注がれた酒に唇を湿らせながら、小松原はいささか興味を抱いたように嬉しそうに酒を呑む店主を見返す。
「蕎麦だけじゃ、たかが知れてます。名の知れた店じゃねぇですし。実はですね、お化け稲荷で上方で料理してた娘さんと縁がありまして」
 小松原は、僅かに息を飲んだ。下がり眉の、それでいて心根の座っていそうなあの娘。
「…面白い」
 ちょろりを奪い取ると、上機嫌な店主に注いでやる。

 
 小野寺は、小奇麗になった「お化け稲荷」の前に立っていた。あの娘がどんなに頑張ったのか、窺い知れるほどの出来上がり。心なしか、稲荷の瞳も柔和だ。
「あんな小娘一人で頑張ったんだ。せめて、恩返ししてやってくれ」
 手にしていた油揚げを包み紙のまま供えると、小野寺は足早に「お化け稲荷」から仕事場に向かう。
 途中、あの下がり眉が手に油揚げを大事そうに抱えて小走りに向かってくるのとすれ違う。
「随分とからかい甲斐ありそうだ。やっぱり、「つる屋」は面白い」

 小野寺の後ろで、風船かづらが風に揺れてふわりふわりと揺れていた。



風船かづら
花言葉・・・「あなたとともに 飛び立ち」





ついでに一言あればどうぞ(拍手だけでも送れます)
お名前
メッセージ
あと1000文字。お名前は未記入可。