雪ってすごいよね。
 際限なく延々と空から降ってくるわた雪に目を奪われてチャトラが何となしに呟くと、すこしむこうで膝上の本へ目を落としていたエスタッド皇が、目はそのままに、ちらとこちらを窺った気配があった。
 彼女が呟いた内容を吟味するように、口の中ですごい、だとかくり返し首を傾げている。
「――すごい――、ね」
「あー……すごいって言うとおかしいかな?……なんていうの、きれいってのとも違うし、素晴らしいっていうのとも違うし、うーん、……、……やっぱ、すごい?」
 呟きながら頁を繰る男へ説明に苦しんで、言いだした彼女の方が顔をしかめた。

 皇都から離れた山間の屋敷の一室だった。
 だいぶん慣れてきたとはいえ、長年馴染んだ都の皇帝の居室とは壁の色も天井の高さもしつらえられた家具も違って、目にするたびに別のところにいるのだな、と認識させられる。

「――冬ごもりに行くよ」

 まだ葉の色が変わるか変わらないかの秋口、ある日いきなり男に告げられ、うんべつにいいけど、と頷いたかどうかのうちに促されて馬車に乗せられ、でも冬ごもりてどこに行くの。聞く間もなく、揺られてチャトラはここへ連れてこられた。
 相変わらず説明が少ない。
 無下に扱われているわけでなく、単純に皇帝自身の性質(たち)だといまは割りきれるからいいものの、慣れるまでは思いやりにかけてるんじゃあないかだとか、気配りってやつは一体どこに行ってるだとか、わりと苦労した。
 苦労したし、不満だった。
 大切にされてないんじゃあないかと思ったりもした。
 けれどそのうち彼女は理解した。
 ……ああ、これ、素なんだ。
 皇帝は、気遣われることはあっても気遣う必要がない。敬われ、思いやりを受けることはあっても、誰かを慈しんだり思いやるような経験をせずにこれまで生きてきたのだ。
 そうしてそれが許される状況にあった。
 これはもう生育環境の差だ。本人の問題ではない気がした
 有無を言わさず馬車に放り込まれるのではなくて、一言だとしても事前に告げられたのは、だから、最大限の気配りともいえる。

 中途の車の中で、あらためて行先を訪ねると、持ち別荘のひとつへ行くのだと男から告げられた。これから迎える冬の季節、皇都は空っ風が吹いて寒いので、あたたかくなる春先まで小さな別荘に籠もるのだという。
 そうか別荘か。
 ……まあ、小さい方が部屋の中あったまりやすいもんね。
 こじんまりとした木造りの山小屋を想像していたチャトラは、到着してすぐあんぐり口を開けてその別荘とやらを眺める破目になった。

「……これ、別荘じゃないよね」
 
 たっぷり沈黙したあとの、彼女の素直な感想である。
 とりあえず想像していた山小屋ではなかった。
 居間と食堂が兼用の小さな部屋がひとつ、上へ続く吹き抜けのはしごを上ると寝台の屋根裏部屋、そんなものを彼女は想定していたのだ。
 よくよく考えれば、皇帝は身の回りのことを一切おのれでしないわけで、ということはお付きの従者だの、護衛だの、それから皇帝の身近から常に離れないディクスがいて当然ではあったのだけれど、冬ごもり、の言葉に騙された感があった。
 これはどう考えても別荘じゃあない。そう思った。
 彼女の感覚で言うなら、離宮と呼びたい。
 どっしりとした石造りの建物は、門構えからして立派だ。使用人の通用入り口と、主の入り口がはっきり分かれている。
 続く外壁には草花の彫り細工がほどこされていた。明り取りの窓にはすべて硝子(がらす)がはめ込まれていて、しかも防寒対策のためか二重になっている。
 ……ガラスを。二重とか。
 毎度ながら生活にかかる浪費の規模が違う。いっそ笑えた。
「あれだけ高価なもの無駄に二重にするとか、その神経が判らん」
 顔見知りの護衛のひとりにチャトラはそうボヤいたけれど、
「でもさあ、お前、現役譲ったとはいえ、一国の主が、豚の膀胱だの羊の皮膜だのを窓に貼りつけて土間一間の山小屋に寝起きしてたら、それはそれで悲しくなんね?」
 言われてそれもそうかと思い直した。
「必要経費ってやつじゃねぇのかな」
 そんなようにも言われた。
 たしかに想像すると、ちょっと侘しい。

 そんなことを思い出しながら、山奥の瀟洒な離宮で潤沢に薪を燃やし、暖をとる。
 室内は十二分に暖められていて、チャトラには暑いくらいだ。
 その中で、皇帝は毛皮に埋もれて本を読んでいる。もともと低体温で、真夏日でもひんやりとしている。
 今もきっと、冷たいのだろうなと思う。
 彼女は男をじろじろ眺めた。
 男は、無遠慮に眺められていることを判っていて、けれど咎めることもなく、カウチにもたれたまま、彼女の視線を受け入れている。
 こんな風に皇帝を直視するのは自分ぐらいのものだとチャトラは知っていたし、そうして、その直視が自分には許されているのも知っている。
 ……こういうの、特権って言うのかな。
 だから存分に男を眺めた。
 凄絶な顔だなといつも思っている。
 ……魔性の美、とかっていうんだろうな。
 四十もとうに超えているのに、皇帝には他に見られるようなむさ苦しさだとか、生活臭のようなものが一切見受けられない。寒さが堪えるのか、冬になると伏せがちになって、そうするといつも細い食がますます細くなり、いっそう肌が青白く透き通るように見えて、彼女は妙にどきどきする。
 触れればあたたかいし、呼べば応えてくれるのだけれど、生きている感が薄いのだ。
「アンタってさ」
 降りそそぐ雪の鎖へ目を戻して、チャトラは言った。
「きれいだよね」
「――うん、……?」
 不意の賛美に答えそこねて、そこではじめて男は視線をあげた。
 伏せがちの睫毛の下から、すくい上げるように見る癖は相変わらずだ。
 そうして、この視線へ真っ向から挑む人間が自分のほかにいないことも、チャトラは知っている。
「きれい、」
「うん。オレ時々、アンタからヒゲとか生えているのが不思議になる」
「それは――、褒められているのかな」
「うん。褒めたたえてんの。なんていうか、アンタ、ちょっと、雪っぽいでしょ。雪男」
「雪」
「うん」
 彼女は応えて窓に映る皇帝へ目をやる。
「アンタ、雪、見たことある?」
「――今、見ている」
「そうじゃなくてさ。遠目から眺めるって言うのじゃなくて、こう、降ってくる奴を手に取って、じっくり見たこと、ある」
「――、」
 言うとしばらく思案する間があって、それから、
「ない――かな」
 意外そうに男が答えた。
「手に取ろうと考えたこともなかったが」
 その答えも想定内のものだ。
「まあ、ないよね。いつもいつも忙しそうだもんな。……貧乏ヒマなしっていうけど、アンタ、ものすごく金持ちなのに、ヒマないよなぁ」
「――、」
 おかしくなって笑っていると、またしばらく間があって、それから静かな衣擦れの音がしたのでチャトラは振り返る。
 男が読みかけの本を脇へ避けてカウチから立ち上がり、彼女の後ろにやってくる。読書はやめたらしい。そのまま後ろから抱きしめられた。
 顎を肩に乗せ、
「今は暇だ」
 そっと耳元に囁かれる。その少しかすれたテノールで吹きこむのは、肌が粟立つのでやめてほしいと思う。

「……オレね、ひとりでいたころ、暇なとき何もすることなかったから、雪見てたんだよね」
 そのまましばらく黙って降りしきる雪を眺めたあと、彼女は言った。
「とにかく寒いでしょ。空きっ腹だからそもそも寒いし、無駄に動くと余計に腹減るし、だから、寒いときはなるべく動かないでじっとしてるのね。風をよけて、路地裏とかで、じっとしながら空眺めてたの。この降ってくるやつひとつひとつに味とかついてて、食ったら腹いっぱいになればいいのになとか、そういう」
 あー、と口を開けて上を見上げながら彼女は言って笑う。
「空から落ちてきたやつが服に付くんだけど、あれ、こっまかい粒がたくさん集まってひとひらになってんのね。黒っぽい服着てるとね、その、落ちてきたやつの形がよく見えるんだよ」
「――かたち」
「うん。そう。もうほんと、針で突っついたら壊れちゃいそうな小さな小さな鼻くそみたいな粒なのに、細い枝分かれとか、星の形とか、うまく言えないけど、宝石細工みたいでさ。んで、しかも、ひとっつも同じ形がないのよ。似たようでも全部違う形。それが、あとからあとから際限なく降ってきて。降ってきて地面に落ちたらあっという間にそのこまっかい細工は溶けちゃうんだけど、もったいないやら、なんでこんな形になるのか不思議やら」
「――ふむ」
「こんなん絶対、偶然できるかたちじゃないよなあって、だって計ったみたいにきれいに並んでるんだよ?いびつなやつなんてなくってさ。オレぜんぜん信心深くないし、人間、死んだら天国なんてなくって、はいそこでチョン、って思ってるけど、ああいうの見ると、神さまっているのかもしれないなとか、そういうの」
 神はいる。
 そう思ってしまった。そうでなければ、このひと息で消えてしまう儚くあえかな結晶なんて作れっこない。

「――それが」
「うん、?」
 後ろからチャトラを抱いていた男が、静かに呟く。
「それが、お前の先に言っていた、雪が“すごい”?」
「ああ、……うん。そう。すごい。……だって、オレが見ている分も、見ていない分も、全部違う形の結晶が、何千、何万、何億もそれ以上も重なって、重なって、重なって積もっているとか、それがこの建物だけじゃなくてあたり一面そうなんだとか、考えたら、ちょっと頭おかしくなりそう」
 言うとふふ、と男が息を漏らして笑った。面白かったらしい。
「雪を見て、気がふれそうになるのはお前くらいであろうよ」
「……そうかもなぁ、」
 頷くと男がまた小さく笑う。今日はずいぶん機嫌がいいらしい。……では。不意に立ち上がりながら男が続ける。
「見にゆくよ」
「え」
 言われた言葉が一瞬頭で理解できなくて、チャトラは皇帝を二度見してしまった。
「は?え、ちょっとまって、見に行くって、……見に行くって、」
「ゆく」
「はぁ?……おい、待って待って待って、え、いま?」
「今」
「ちょっと、待てって、おい、んなスタスタいくなって、だって、いま、外、雪が降ってて、ものすっげぇ寒くって、アンタ、」
 形容上でなく、文字通り、ひび割れた硝子細工のような男なのだ。すこしの負荷で数日、下手すれば半月は駄目になる。
 仕方がないと割り切る部分ももちろんチャトラにもある。男の体は生まれつきのものだ。生まれてすぐに二十まで持たないと宣告されて、倍も生きているとすればそれはもう奇跡でしかない。
 当然あちらこちらにガタはきている。だましだまし、機能させている体を、だのにこの芯から身震いする寒さの中、わざわざ外気にあたりに行くのは自殺行為でしかないと思う。
「おい、待てって、皇帝、アンタ、シャレにならないから部屋いろって……!」
 部屋を出て行こうとする男が、発した言葉通り本気なのだと気がついて、チャトラは思わず声を荒げた。
 うん、と物憂げに男が振り返る。
「なんでこのクソ寒い外に行こうとするんだよ!」
「何故って」
 男は不思議そうに首を傾げる。
「その頼りない結晶は、降った端から溶けて消えてしまうのだろう――?」
「そうだよ、溶けるよ、それがなにか、」
「では部屋の中にいては見ることができない」
「いや、そうだよ、それはそうなんだけどさ、」
「――見たい」
 言われては、とチャトラは息を飲む。男の熱をはらんだ眼差しが、まっすぐに彼女を見ていた。
 男が、からかいや悪ふざけで外出しようとしているわけでないことに気がついたからだ。
「見たい」
 男は言った。
「お前の見たものを私も見てみたい」
 やめてくれ。心の中で彼女は呻く。アンタ、そんな目でオレを見るな。
「……、だからって、せっかく、ここのところ、アンタ、調子いいのに」
「――良いからこそ、だ」
 ぼそぼそと牽制する彼女に、うっすらと笑って皇帝は答えた。
「見れるときに見ておかねば」
 そう言われてしまうと、チャトラは何と返したらいいか判らなくなる。
 弱いことを知っていて、男はそそのかすのだから、タチが悪い。
「見に行ってはいけないかな」
「……、」
「チャトラ」
「うー……」
 こんなときだけ思いだしたように名前呼ぶな。莫迦。
 別に彼女が許可しなければならない謂れはないのだ。男はいつでも男の思うように行動できるのだし、それが許される立場にある。
 たっぷり三百は心の中で数えてのち、やや低い声で……わかったよ。しぶしぶ彼女は呟いた。
「話振ったオレに半分は責任があると思うし」
「――ほう」
「それにアンタ、オレが駄目って言っても、行くって決めたらたぶん行くし」
 だったらここで行く行かないの問答をするよりも、医師を呼んできた方がよほど建設的だと思った。








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