江戸瞽女の唄~隼人の悪夢
そこは一面に野菊が咲いている土手だった。爽やかさの中に甘さがある、秋独特の香りが漂う中、少女の声が秋空に響く。
「ね~え!どこにいるの~?はすじろうにいちゃ~ん!」
己を探す少女の声が徐々に近づいて来る。その声から逃げるように蓮二郎は木の上によじ登って身を隠した。
「何だよ、しつこいなあいつ」
木の上から観察していると、村の方から一人の少女が近づいて来るのが見えた。年の頃は七、八歳か。キョロキョロとしながら蓮二郎の名を呼び続ける。
「出てきてよ~、蓮二郎にいちゃ~ん!戸長様とお父様から聞いたよ!祥太郎兄ちゃんと許嫁の約束をしたから、蓮二郎にいちゃんと本当の兄弟になれるって!」
その瞬間、蓮二郎の胸がきゅっ、と痛んだ。
(・・・・・・だから嫌なんじゃねぇか!おみわは許嫁の意味を知ってるのか?ふざけんな!)
蓮二郎の家は戸長で、みわは副戸長の娘である。両家は元々親戚関係にあるのだが、更に結びつきを深めようと蓮二郎の兄である祥太郎とみわの婚約が内定したのだ。
両家にとってもめでたい話なのだが、何故か蓮二郎は喜べなかった。もやもやとした気持ちのまま大好きだったみわとも顔を合わせることも出来ず逃げ出したのだが、そんな蓮二郎を三輪が追いかけてきたのである。
「はすじろうにいちゃ~ん!本当にどこに言っちゃったのよ!」
(・・・・・・うるせえなぁ。俺の気持ちも知らねぇで)
蓮二郎は心の中で呟く。おみわが産まれた直後からまるで本当の兄のように接していた蓮二郎だが、いつしか『兄妹』とは違う、淡い思いも抱くようになっていた。その気持ちが何なのか判らぬまま今日まで来たが、みわと自分の兄が許嫁同士になったことではっきりと気がついた―――――自分はみわにいつの間にか恋情を抱いていたことに。
(何でおみわの亭主になるのが俺じゃなくて兄貴なんだよ!)
村の今後、そして家同士の格、その他周辺の状況を考えればそれが一番しっくりくるのだろう。だが理屈では理解していても感情が収まらない。
(何で俺は・・・・・・次男坊なんだろう)
家を継ぐのは長男であり、次男三男はどこかの家に養子に入るか自分で別家をつくるかしなければ結婚さえ出来ない。結婚がままならないのは仕方ないかもしれないが、愛しいと思う相手を兄に取られ、『義理の姉弟』となることが悔しい。
(――――――どうすれば兄貴とみわの婚約を破棄できるのかな)
十三歳の少年は必死で考える。そして出てきた答えは決して褒められるものではなかった。
(あいつを・・・・・・『ややが産めない身体』にしちまえばいいのか?)
それは大人同士のひそひそ話であった。『伊作の嫁は石女だから離縁された』―――そんな話を聞いたのは去年のことだ。子供を産むことが女性の第一の『務め』であるから、役に立たない妻は離縁されても仕方がない――――――そんな刷り込みが蓮二郎になされていた。
(あいつをこの土手から突き落とせば、もしかしたら)
その土手はかなり急なものだった。一歩間違えばみわは頭を打って死んでしまうかもしれない。
だが兄のものになるよりは、誰のものにもならず、綺麗なままで死んでしまったほうがいい。そんな残虐な思いに支配された蓮二郎がいる木の傍にみわはやってきた。
「はすじろう兄ちゃん!そこにいるんでしょ!いい加減下りてきてよ!お父さんたちが怒ってるよ!」
「ああ、わかったよ!」
そう怒鳴るなり蓮二郎は木から飛び降り、次の瞬間みわを激しく突き飛ばした。
「―――――――!!ああ、夢か」
飛び起きた隼人は荒い息を整えながら周囲をぐるりと見回す。小さな四畳半の部屋には隼人以外誰もおらず、虫の声以外何も聞こえない。
「・・・・・・実家に帰るといつもこの夢だな」
隼人は乱れた寝間着を整えつつ床から起き上がった。父親の三回忌に合わせて実家へ戻ってきた隼人だったが、その罪悪感からか実家に泊まるとこの夢を必ず見てしまう。
否、最近は見ていなかったと言うだけでみわと共に仕事をするまでは何度も悩まされた悪夢だ。
「やっぱりみわといると夢魔も追い払ってくれるのか」
隼人は首を横に振りながらフラフラと歩き、障子を開ける。上弦の月は既に西に沈み、星明かり以外は全て闇だ。そこに蠢く気配は感じるが、今はそれに関わる気力もない。
(あの時は・・・・・・みわを突き飛ばした時は『通り魔』に取り憑かれちまったからな。気をつけないと)
日の出まではまだ時間があるだろう。寝付けるかどうか判らないが、魔が蠢く闇に触れるよりは布団でまんじりと夜を明かす法が賢明だ。隼人はぐるりと首を回すと再び障子を閉め、布団へと潜り込んだ。
UP DATE 2017.10.07
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