「名弦さん、名弦さん」
名を呼ばれて振り返ると、髪をうしろで結んだ櫻子が目を輝かせて立っていた。
「これを見てください」
差し出されたのは、『図解!誰でもできるかんたん料理レシピ』と飾り文字で印刷された雑誌だった。
なんとなく、嫌な予感がした。
普段は下ろしている髪を結んでいるところとか、白くて真新しい割烹着を身につけているところとか。
「……それがどうかしたのですか」
「作ります! これから!」
――あにはからんやと言うべきか、案の定だと、言うべきか。
「……あなたは料理をしたことが、無かったように思いますが」
なんとか思いとどまらせようと、しかしなるべく傷つけまいと、言葉を選んでそう告げると、櫻子ははいと大きく頷いた。
「初めてです! 名弦さん、何が食べたいですか? この中から選んでください」
丁寧に目次のページを開いて、櫻子は名弦に見せてくれた。
なんだか、思いとどまってくれなさそうだった。
それではせめて、せめて一番簡単なものを選ぼうと思い、紙面に目を落とす。
『かんたん!梅のひつまぶし』
『洋風肉じゃが』
『トマト強めのハヤシライス』
――全然、簡単そうに、見えなかった。
どれもおいしそうではあったし、食欲は刺激されたのだけれど、どれを選んだところで料理初心者の櫻子に作れるとは思えなかった。
名弦は料理人ではなかったが、仮にも料亭を営んでいる身だから、それくらいはわかる。
どう考えても無理だった。
「……櫻子さん」
「なんでしょう?」
「……僕は、カレーが食べたいです」
「カレー?」
櫻子はぱらぱらとページをめくったが、見つけられなかったようだった。当然である。載っていないものを言ったのだ。
「載ってません……」
「それは残念です。仕方がないので、僕が教えます」
包丁を使って皮を剥くなどの危険な作業は全部自分が担当すればいい。名案だと思った。切って煮るだけなので手間もかからないし、時間も短くて済む。
「名弦さんが?」
櫻子は驚いたように目を見開いて、そして、頬をふくらませた。
「いやです。私、奥さんだから、私が作ります」
まずい。変なスイッチを入れてしまった。
なんと言って止めようか、と考えを巡らせている内に、櫻子は「名弦さんはおとなしく待っていてください!」と言い残してくるりと背を向けてぱたぱたと走っていってしまった。
廊下を曲がったところで、「あっ」という声と、続いておそらく転んだのあろう音が聞こえた。得意じゃないのに走るからだ、と思いながら急いで後を追いかける。
角を曲がると、転んだ櫻子が起きあがるところだった。
手を貸すと、彼女は相変わらずふくれた顔で名弦を見上げた。
「大丈夫です。カレーでしょう、きっと作れます」
「きっと、なんて言ってる人は信用できません」
「意地悪ですよ!」
「心配で心臓が止まってしまいそうなので、手伝ってもいいですか」
「……致し方ありません」
いいでしょう。
そう言って、櫻子は重々しく頷いた。
その様子が妙におかしくて、名弦の口が思わず緩んだ。つられたように微笑んだ櫻子が、そういえばと首を傾げた。
「ところで名弦さん、カレーには何が入っているんですか? 私、見たことはあるんですが食べたことはないの」
「……なるほど」
東雲。俺は今日、死ぬかもしれん。
心の中で友人に助けを求めつつ、名弦はカレーの材料とそのつくりかたを、ゆっくり説明していった。
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