覚えてない、と水谷は言って頭を抱えた。どこまで覚えてるの、と聞くと、彼は長い時間をかけて記憶の糸を辿った。それはずいぶん細い糸だったのだろう。辿って辿って、けれど結局それはぷつりと途絶えてしまったらしく、彼は観念したように、ぜんぜん、と答えた。
「帰らないってだだこねてたのは?」
「…だれが?」
「店の階段でこけて落ちた」
「……おれ?」
「ビールこぼした」
「……いつ?」
「とりの唐揚げにタバスコだばだばかけてどつかれてた」
「……えっ俺そんなことしてな」
「その唐揚げ俺が食った」
「……ごめんなさい」
しゅん、と水谷は項垂れた。投票権を持ち納税の義務を負う男の仕草には到底見えない。
「いーよいーよ。どこまで覚えてるのか確認しただけ」
「んで俺、上がり込んじゃったんだ。ごめんなー」
水谷は室内をくるりと見回して、いっそう小さくなった。
「いーって。たまにはこーいうのも悪くないよ」
ペットボトルを手渡すと、彼はしおらしく礼を言ってからそれに口をつけた。こくこくと飲み下す様子を、俺は注意深く見つめた。
酒の力って、すごいな。
ほんとに、忘れちゃうんだなあ。
アルコールに全身を冒されて玄関先で眠りにつこうとした水谷をなんとか部屋まで引きずって転がし、その肩に毛布をかけた。昼間はともかく、最近は夜になるとぐっと冷える。毛布に包まりながら、なお舌足らずに何かを喋ろうとするから、その口をキスで塞いでやった。うるさいよ、と俺が言うと、水谷はけたけたと笑って、さかえぐちのキスは甘いねー、と言った。どういう意味だそれは、と問い質す間もなく水谷は寝息を立て始めてしまい、部屋には俺ひとりが残された。
あれはどういう意味だったのかともう聞けないことは、多分俺にとっては幸運なことなんだろう。
水谷は深く溜息をついた。
「俺もう二度と酒飲まない」
「できもしない誓いを立てるなよ」
くすくすと笑うと、水谷はまたしゅんと小さくなった。ほんとに怒ってないから、とりあえず買い出しでも行こうか。切り出した俺の誘いに、水谷はしおしおとついてくる。収支で言ったら俺の方がプラスだよなあ、なんて、まさか口にすることはできない。
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お題を出すったー(http://shindanmaker.com/6531)より。
ちなみにお題は「記憶喪失の男」「鳥」で秋の話、でした。
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