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【平成陰陽記伝】
真夜中に唐突に目が覚めた。
「……はっ!」
勢い良く跳ね起きれば、汗が玉となって散った。
じっとりとした汗が肌を湿らせ、忙しなく口が喘いでは、少しでも肺に酸素を送ろうとする。
鼓動は早鐘を打ち、耳に届くのは己の心音のみ。
拳は汗を握りこみ、生温い雫が伝う。
喘ぐ呼吸。踊る心拍。
起こした上半身の背に汗が伝い、パジャマが湿り気を帯びているのが分かる。
「なんで……」
額に張り付いた前髪の向こう側には、見慣れた室内が広がっている。
当主となったあの日から、己の私室となった場所。
今時珍しい和室に合わせた家具。もとより、自身の持ち物は少ない。
欲しいといえば、大抵のものは揃えられたけど、それほど物欲があったわけではないから、必要なもの以外を強請った記憶はない。
本当に欲しかったものは今も得られてはいないけど――。
「なんで……」
再びの呟きは掠れ、音にはならない。
誰に問いかけるわけでもない。
しかし、問いかけずにはいられなかった。
本当に欲しかったものは得られなかったけど、その代わりを果たしてくれた存在。
「しょう……兄さん」
声が震えているのが自分で分かった。
夢を見た。
従兄がいた。
水椥樟。年の離れた従兄。先代当主の一人息子。自分が生まれるまで最有力当主候補だった人。
温和で聡明で、式神を従えるだけの能力はなかったけど、一族内では人望は厚く、あちらこちらに広い顔を有していた。
誰もが次期当主だと噂していた。
自分が――水椥道馬が生まれるまでは。
水椥家の当主は血筋の中で最も能力が高い者がなる。
それは水椥家が作られたときに定められた掟。
水椥家の血筋に連ねるものに科せられた約束。
式神を従えた翌年、道馬は先代から当主の座を譲り受けた。
最年少の若き当主として。最有力候補とされていた従兄を差し置いて。
道馬の両親は日本にいない。揃って海外を仕事場とし、年に一度か二度、帰ってくるだけだ。
四人いる姉の内二人は年が離れているせいもあってか、道馬の物心がつく前に自立し、一緒に住んではいなかった。
道馬が覚えている限りでは、家族が揃っている記憶はない。
それが当たり前だった。
だけど、道馬は子供だった。親が恋しかった。傍にいて欲しかった。
その望みを口にすることは出来なくって。
従兄はそんな道馬の気持ちを汲み取ってくれた。兄のように父のように傍にいてくれた。
それが、道馬が本当に求めるものでなくても、傍にいてくれる従兄の存在は嬉しかった。
それに偽りはなかった。
道馬が当主になったあとも、幼いゆえに当主らしい事が出来ない道馬を支えてくれた。
他の誰よりも道馬が当主であると認めてくれていた。
そう、思っていた。
信頼していた。信用していた。滅多に顔を合わせない両親よりも。
「なんで……樟にぃ……」
夢の中の樟は、道馬の知る樟ではなかった。
千切れた服。黒光りする身体。禍々しい光を抱く赤い目。
邪神に魂を売った樟。
立ち上る瘴気は大地を黒く染め、空気を穢した。
いつでも当たり前のように傍にいて支えてくれていたのに。
『道馬が生まれるまでは、私が次代の当主の最有力候補だったのに、少しも力を持たない、無能の親から生まれたくせに、当主になるなんておこがましいにも程がある』
吐き捨てるように言った樟。
樟は道馬の殺害を企て、それに失敗するや否や、邪神の力を使って道馬を葬り去ろうとした。
邪神に魂を売り、人ならざるものと果てた樟を祓ったのは「眠りの塚の君」こと、百年余りも眠りから目覚めた明治の陰陽師 符宮葛葉。
樟を消し去った罪にむせび泣く葛葉を前に、道馬は涙することも出来なかった。
水椥道馬は水椥家の当主。
樟が欲してやまなかった当主の座にいる。
当主は常に一番でなければならない。弱音や弱みを見せることは許されない。
だから、道馬は事務的に樟がしたことを一族の前で語った。
泣くことは許されない。自分は当主なのだから。
葛葉を恨むことはない。そうしなければ、もっと被害が拡大していただろう。誰かがやらねばならないことだった。あのとき、それができたのは葛葉だけだった。そう納得させた。
道馬には樟を祓うことが出来なかった。
当主なのに――樟を祓うだけの力がなかった。
もしも、と思う。
もしも自分がもっと当主として相応しければ、樟が認めざるを得ないくらいに当主らしい当主であったならば、樟が邪神に魂を売ることはなかったのでは。
それは可能性の話だけど、そう思わずにはいられなかった。
夢を見た。
人ならざるものと化した樟が、鋭い爪を伸ばし、甲高い声を上げながら近付いてくる夢。
道馬の命を絶つために伸ばされた黒い腕。
「どうして……」
怖かった。怖かった。
ただ怖くって、逃げることすらできなくって、一歩一歩近付いてくる樟に怯えるしかなかった。怯えることしかできなかったのだ。
あれから、もう数ヶ月経ったのに。
怖くって悲しくって苦しくって……嫌な感情が全身を巡って、どうにもならなくって。
『道馬のせいで私は……』
夢の中の樟はそう言って道馬を責めた。
道馬のせいで邪神に魂を売ったのだと。道馬のせいでこの世から消え失せることになったのだと。
冷たい、凍りつくような声音で道馬を責めた。
うだるような空気が身に纏わりついているのに、身体が震える。
どうして、なぜ今になってこんな夢を見なければならないのか。
道馬は自分で自分を抱くように腕を交差させる。
震えが止まらない。口から漏れる息は掠れ、鼓動は収まらない。
情けない。夢に怯えて震えているなんて。
寝てしまえば良い。全てを忘れて再び布団にもぐりこめば良い。
だが、視線は闇に彩られた虚空を睨んでいる。
横になった瞬間に異形と化した樟が現れたら、目を閉じた瞬間に襲い掛かってきたら。
頭では分かっている。樟は消えた。跡形も残さず永遠に魂さえ滅んだ。
だけど、映る闇。そこから、何かが出てきそうな妄想に囚われる。
動くに動けず、道馬はじっと息を潜めていた。
どれくらいそうしていただろうか。
過ぎ行く時間は曖昧で、力を込めた拳は色を失っている。
目覚めの刻まで遠いこの時間は、静寂のみが世界を支配している。
部屋には、静寂を破るようなアナログ時計は置かれていない。
それを今ほど恨めしく思うことはない。
誰か、誰でも良い。この静寂を破ってくれないか。
過敏になった聴覚が物音を探るが、風が時折、窓を揺するくらいで生き物の気配は感じられない。
音が怖いのに、音が恋しい。反する思いを抱きながら膝を抱える。
あとどれくらいしたら夜明けは訪れるのだろうか。
怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。
びくりっと肩が揺れた。
何かが視界の隅で動いた。身体が強張るのが分かる。心臓が再び音を奏でる。
「主?」
耳に響いたのは、ここ数日で聞きなれた声。
落ち着いた低い声音には怪訝そうな色が込められていた。
「あま……うつり?」
「どうかなさいましたか?」
視界に広がる衣。
足音も立てずに傍に寄ってきた道馬の式神――天写はその場で膝を折り、顔を覗きこんだ。
僅かに窓から漏れ出でる月の光がその蒼い髪と美しい顔を映し出させた。
道馬は顔を上げ、天写を見上げる。
「なにか……あったのですか?」
伸ばされる手。心配そうに覗き込まれる瞳。
その手が、夢の中の樟の手と重なった。
咄嗟に、伸ばされた手を強く振り払う。天写が目を見張るのが分かった。
我に返った道馬は、後悔の念に唇を噛み締めた。
「なんでも……ない」
「嘘はいけません」
即答が返る。
視線を避けるように道馬は俯いた。
「本当に、なんでもないんだ」
「……我が主」
膝を抱きこむ道馬の肩に、おそるおそる天写が触れる。
道馬は力なく首を振った。
「なんでもない。本当に……なんでもないから」
弱みを見せるわけにはいかない。例え、それが自分の式神であっても。
水椥の当主だから、当主である以上、弱みを見せてはならないから。
天写は道馬の両肩に手を添えた。
肩に伝わる体温が温かい。
いつの間にか震えが止まっていることに道馬は気付いた。
天写が今、どんな表情を浮かべているのか、下を向く道馬には分からない。
「我が主」
鼓膜に響く優しい声。
「私は貴方の式神です。貴方の手足です」
ゆっくりと、言い聞かせるように告げる。
「どうか……傍にあることをお許し下さい」
肩から手が外される。視界に蒼い髪が入った。天写が頭を垂れたのだと理解する。
手を払ったことを言っているのだろうか。
ぼんやりとした頭でそう考える。
強くならなければならない。水椥家の当主として相応しく――。
「俺は……水椥家の当主だよな?」
声が震えていないことを信じたい。
「貴方が水椥家の当主です」
間入れずに言葉が返って来る。
揺ぎ無い言葉。その言葉が、すとんっと胸に響く。
水椥道馬が当主なのだと、真っ直ぐの言葉が染み渡る。
背に天写が手の平を当てる。
暖かな温もりが背中を上下する。強張った身体から力が抜けていく。
「我が主。お休み下さい。心配なさらなくても、この天写がここにいますから」
道馬は顔を上げた。蒼い双眸と視線が絡む。
天写は微笑んだ。
「お休み下さい」
道馬は黙って頷き返すと、布団に横になる。
天写は布団の脇に身を置きながら黙って道馬を見つめる。
傍らに天写の気配を感じながら、道馬は再び眠りについた。
健やかな寝息が聞こえる。
天写はそっと主の顔を覗きこんだ。
成長途中の幼い容貌。
「我が主……」
道馬が何を恐れているのか、天写には分からない。
式神と術者は不可侵の絆で結ばれている。だからと言ってその考えや感情の全てを把握できるわけではない。
人間――自分のような存在よりも遥かに短い生と儚い命を抱く弱い生き物。
その一瞬一瞬を眩い光を放ちながら生きることができる生き物。
容易く壊れてしまう肉体を有しながら、その意思は強い。だからこそ、それに惹かれる。
「私は……主をお守りいたします」
それは決意。
「もう、二度と失うわけには……」
守れなかった。守りたかった。守らなければならなかった。
目を閉じれば、失われた人の姿が蘇る。
長い烏羽玉(うばたま)の髪。端正な顔。優美な立ち姿に何度見惚れた事か。
永久にあるとは思っていなかった。それでも終わりまで傍にあろうと決めていた。
なのに――。
あのとき、どうして傍を離れてしまったのだろうか。
せめて傍にいれば、貶され、拒絶されても傍にいれば、何か変わったかもしれないのに。
「んっ……」
小さな呻きに驚いて目を開けば、道馬が寝返りをうったところだった。
そこにいるのは今の主。まだ幼く、身の内に宿る力を発揮する事ができない幼い少年。
頭を振り、過去の記憶を払う。
どんなに悔んでも過去は過去。けして変わることはないのだ。
「……我が主」
終わった過去に囚われている場合ではない。
今、この幼い主が何より大事なのだ。
「私が守りますから」
天写は眠る道馬の手の甲に、誓いを立てるように唇を落とした。
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