| 花
「いらっしゃい」
目の前で開かれたドア。
それを左手で押さえながら、白い歯を見せて微笑む人。
「とりあえず、こんにちは」
「なんだ、いやに硬いなあ。もしかして、緊張してる?」
「……冗談。ていうか、こんなとこ来て緊張なんかするわけないし」
「そりゃ、そうか。ま、とにかく上がれば」
彼が少し脇に退いたので、あたしはその前を通って玄関の中に入る。
微かに彼のにおいがする。
前屈みになって靴を脱いでいるとき、背後でドアが閉まり、同時にかちりと小さな音がした。
彼がドアに鍵をかけた音だ。
どうぞと言って、彼があたしの背中に手を置く。
その手に押されるようにして、あたしは室内へと足を踏み入れる。
初めて訪れた彼の自宅。
聞けば最近越したばかりだって言うから、冷やかしがてら遊びに来てみた。
巷ではよく見かける、積み木を重ねたようなありふれた作りのアパート。
煉瓦を模した外壁や、各部屋から南向きに張り出した出窓が、どちらかといえば女性の入居者を意識して建てられたようにも感じられる。
でもって、それが彼に似合っていないかといえば、実はそうでもないから憎たらしい。
「適当に座ってていいよ。今、コーヒーでも淹れるから」
おそらく自炊はしたくてもできないだろうと思われる、小さなキッチンから彼が言う。
あたしはうんと返事をして、いかにも座り心地の良さそうなカウチソファに腰を下ろす。
部屋の中はよく片付いているし、家具や内装の趣味も悪くない。
洋服のセンスや立ち振る舞いなどと同じように、こういうところにも個性みたいなものは現れる。
つまり、こいつは外見に違わず生活態度においても相当の優男だということだ。
「お待たせ」
言いながら、彼がソファの前に置かれた低いテーブルに並べたカップは、普段使いするには少しばかり高級そうに見える。
でも、もしそれがあたしのためにわざわざ用意されたものだとしたら悪い気はしない。
コーヒーには、お砂糖2つとたっぷりのクリーム。
もちろん、彼が入れてくれる。
あたしの好みをちゃんと覚えてる。
我ながら、よく躾けたものだと思う。
「どう、初めて俺の部屋を訪れた感想は?」
テーブルに肘をつき、手のひらに顎を乗せて、彼があたしを見上げてくる。
あたしはわざとゆっくりとコーヒーを飲み、それからぐるりと室内を見回して、言う。
「さあ……別に、悪くないんじゃない」
ほんのちょっとでも女の子の気配があれば、嫌って言うほどとっちめてやろうと思ってたけど、どこにもそんなもの残ってなくて。
半分はがっかり、あとの半分は、なぜか少しだけほっとしてみたり。
「それよりセンセ、ここに連れ込んだ女の子は何人目?」
「エリカが初めてだと言ったら信じる?」
「信じるわけないじゃん、ばか」
背も高い、顔だって下手なアイドルやモデルなんかに負けないくらい良い、教師のくせして生徒たちの間でさえ浮いた噂に事欠かない、そんな男の言うことなんか絶対に、絶対に信じられない。
ていうか、信じたら、だめだ。
あたしの答えに気を悪くしたのか、当の真壁センセは不機嫌そうに黙りこくった。
教師に向かってばかは言い過ぎだったかと反省してはみるものの、だからといって素直に謝るっていうのも癪に障る。
本をただせば、それが事実であれ誤解であれ、そんな風に周りに思わせるような彼の生活態度にも非があるのだし。
とはいえ、部屋の中には2人きり、この状態でお互いに沈黙はかなり気まずい。
何か話題を変えるのに都合の良いものはないかとさり気なく視線を泳がせた先に、それはあった。
観葉植物だろうか、背丈は50センチくらい、よく繁った鉢植えの緑が小さな白い花をたくさん咲かせている。
初めて目にする花だ。
他に植物らしいものはないし、あえてそれだけを育てているのだろうけど、彼に園芸のイメージはまったくなかったから、ちょっと意外だった。
「センセでも、やっぱり花に癒しや潤いを求めちゃったりするんだ」
彼は一瞬何を言われたのかわからないような顔をして、それから、あたしの視線の先にあるものに目を留め、ふっと頬を緩めた。
「ああ……いい花だろ?」
「きれいだけど、見たことない花」
「俺も、こんな花があるなんて知らなかったけど、名前に釣られて買ったんだ」
「へえ、なんて名前?」
彼は、答える代わりに思わせぶりな笑みを浮かべてこう言った。
「こんなに清楚なのに、室外に置いておいても越冬できる、見かけによらず強い花なんだ」
「ふうん……」
あたしは思わず気の抜けた返事をしてしまう。
だって、この花も嫌いじゃないけど、あたしはやっぱり赤いバラとか胡蝶蘭とかカサブランカとか華やかな花の方が好きだもの。
「まあ、花束にするような豪華な花じゃないかも知れないけどさ……俺は好きだな、このエリカ」
はい……?
「……もしかして、この花、エリカっていうの?」
「そうだよ、正しくはエリカ・フォルモーサ。ツツジの仲間だけど、花がスズランに似ていることからスズランエリカとも呼ばれてるらしいね」
……そんな普通の顔で薀蓄なんて聞かされても。
「それで、その名前に釣られて買ったの」
「可愛らしい顔をして芯は強い、一筋縄じゃいかない跳ねっ返りのお嬢様、ぴったりの名前だろ?」
「何それ、あたしのことを言ってるつもり?」
「ちょっとやそっとのアプローチじゃ簡単には靡いてくれない、実物はなかなか手強いからね、せめて同じ名前の花でも手元に置いて愛でようかと思って」
「ばっかじゃないの、変態みたい」
「だから前にも言ったろ、男は恋をするとばかになるんだって」
「信じらんない、ばか男、サイテー」
ありったけの憎まれ口を叩くあたしに、何とでも言えよって彼は笑う。
こんな男の言うことなんてこれっぽっちも信じてないけど、本気だなんて思ってないけど、でも……。
ちょっとだけ、心の中でにやっとしちゃった自分がいて。
それが何気に気分良かったりして。
もしかすると、また少し傾きかけているのかも。
いまだに大好きじゃないけど、前ほど嫌いじゃない、このとんでもない不良ロリコン教師に。
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