レーチスの手元に、大切な少女を描いた、たった一枚の紙切れはもう存在しない。 きっとあの絵は、自分の息子の息子が持っているほうが相応しいだろうから。 だから、これからレーチスの中で彼女は色褪せていくばかりだけれど、 それでも、構わなかった。 彼女を忘れはしない。 レーチスはいつまでだって、彼女のために生きていくつもりだった。 「ナシャ」 彼女の名前を呼ぶと、無性に悲しくなる。 振り返った少女の銀髪がはらりと揺れた。 レースで彩られた黒いワンピースの裾がふわりとなびく。 美少女だ。レーチスは思う。 随分昔、初めて彼女に出会ったときから、 レーチスの描いた少女と、彼女は、妙に酷似している気がしてならなかった。 レーチスの思う、偶像のウラニア・ノルッセルに。 「まあ」 ナシャは苦笑した。 「私などにお声をかけてもよろしいのですか?異分子様」 穏やかな物腰。丁寧な言葉遣い。 昔はもっと優雅なんて程遠い性格だった彼女も、 数十年の時を経てしまえばこんなにも様変わりする。 とはいえ、それは彼女の愛する男のために、ナシャが苦心して成し遂げた偉業だが。 「異分子云々はともかく、ナシャに話しかけてるところが見つかりでもしたら、 多分君の旦那はブチ切れるだろうね」 彼女の夫は嫉妬深い。 ナシャのあまりの美しさに魅入られて、 彼女を寝取ろうとした男を執念深く二十年も探しているような奴。 …まったく、彼女もいい男とめぐり合ったものではないか。 「リズ君はとってもお優しいですから。 あの方が怒ってくれるから、私はこうして笑っていられるのです」 「いやあ…彼の場合、優しいのはナシャ限定だと思うけどなあ。 なんせ俺が君のこと、知り合いに似てると思って話しかけただけで、 一発殴り飛ばされたくらいだし」 「その節は大変ご迷惑をおかけしました。 でも、仕方なかったとはお思いになりませんか? 当時、私たちは巫子で、そしてあなたは、異分子だったのですから」 「……その表現はちょっと誤りだな」 レーチスはにやりと笑った。 「俺は現在進行形で"異分子"なんだよ」 「あら、私にはそうは思いませんわ」 ナシャは実に優雅な物腰で微笑んだ。 「だって、あなたは今、第九の巫子でも、過去夢の君でもないではありませんか」 「…君のその性格のいいところがすごく好きだよ」 レーチスは肩をすくめた。 「過去夢の君の能力を移す方法、編み出したのは君のくせに」 「それを実行に移したのはレーチス、あなたでしょう? それに、その魔術を考えたのは私だけではありませんもの。 フェルもシェロも、あなたの考えに一役買ったではありませんか」 「…本当に、次に俺が巫子になる日が来たら、 君とリズセムだけは敵に回したくないと本気で思うよ」 チルタは運が良かったのだと、レーチスは思う。 決して口に出すことはないだろう。 けれど、世界なんてものは、本当はもっともっと無慈悲なはずだ。 チルタにはルナやラファという理解者がいて。 ロビやギルビス、そしてラゼなどもなかなか見所のある連中だし。 巫子全員が自分本位でしかなかった、レーチスの時代とはわけが違う。 少なくともラファ達には、否、その一部、といえばいいだろうか… 彼らの中には、チルタの事情を知ろうという気概が見えたのだから。 そう思うと今回の巫子たちは随分とお優しい奴らが集まった。 本来世界と、それを破壊せんとする者を天秤にかけて、後者を気遣う者などいやしない。 それが正しいと考えるのは大概の場合悪役ただ一人で、 そして、それは少数派の意見であるはずだ。 レーチスがこうして五体満足で生きているのもまた、運が良かったからで。 それも、チルタのように優しい少女がいたからではない。 結局、世界はなにもかもが打算と思惑で動いている。 「エルディからお聞きしましたよ。 今回の赤の巫子は、現過去夢の君がいらっしゃったそうですね」 「…なにが言いたい?」 ナシャは笑った。 この花のような少女も、その腹は黒い。今だって。 聖職者の衣装に身を包み、世界平和と神の遵守を唱えながらも、 現に過去夢の君と対峙した場面になって、 彼女は真っ先に平和をぶち壊しにしようと動いた人間だ。 「いいえ? その方がいらっしゃれば、ノルッセルの未来は安泰だと思っただけですわ」 「…多分、君がいる限りノルッセルの未来はお先真っ暗だね」 やはり彼女は好きになれない。 顔はいかに似ていようとも、レーチスの愛する少女のような、 純粋さの欠片もないナシャに、レーチスは嘆息した。 愛を忘れてくれますか そうして君はしあわせになればいい (群青三メートル手前:淆々五題) |
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