『 ヒロさんの子犬 』 子供の頃から、大きい犬を飼うのが夢だった。 テレビドラマやアニメでいつか見たように、大きな犬の背中にもたれてのんびりと好きな本を読んだり、うとうとと微睡んでみたりしてみたい。 だからって、秋彦んちにいるような獰猛な番犬じゃだめなんだ。 そう毛足が長くて、優しい目をしていて、人懐っこい、大人しくて賢いヤツがいい。 大学からの帰り道、本に夢中で電車を一駅乗り過ごした。たいした距離でもないし、歩いて帰ってくればいいかと適当に見当をつけながら家の方向に向かって歩いていると一軒のペットショップの前を通りかかった。 そういや俺、昔から犬を飼ってみたいと思いながら結局飼った事はないんだよな。 頭の中でイメージしていたような大きな犬種は、想像以上に手がかかるのだと教えられ、子供の俺には手に負えないよ、と諭された。小さな犬なら飼っても………と言われたが、俺が欲しいのは背中としっぽで俺をすっぽりと包み込んでくれるような大きな犬であって、ころころと足もとにじゃれつく子犬は確かに可愛いが俺の欲しい犬ではないと思った。 道路に面したガラス張りのショールームの中には、その頃勧められたみたいな可愛らしい子犬達がもつれあって遊んでいた。 昨今は更に小型犬がブームらしい。 あんまりじっくり立ち止まって中を眺めていたからだろうか、中から出て来た店員に店に入ってゆっくり見ていきませんか、と誘われた。特に急いで帰る理由もなかったので、それじゃあ見るだけですが、と断って店内へと入る。 店はそれほど大きくない造りで、血統書付きの子犬達を並べたショーケースが大小いくつかと、ペットフードや首輪などの用品が所狭しと並べられ、色とりどりの洋服までもが陳列されていた。 小さなオモチャの国みたいなその売り場のちょっと奥の方に置かれた大きなケージ。 しゃがんで入れば俺でもやすやすと入っていられそうなくらいに広いその中にうずくまる黒くて大きなかたまり。 これはいったい何なのだろう。 「あれは……?」 「ああ、あの子も売り物なんですよ。ちょっと育ちすぎていてすっかり半値以下ですけれど、吠えないし頭はいいですよ。」 「………あれで子犬?」 「なりはあんなですけど、まだまだ子供です。もっと大きくなりますよ。あの子の親も大きかったから。」 「まだ大きくなるのか。」 「……そのせいで不人気なんです。最近は住宅事情もあって、大型犬は敬遠されますしね。でも実際には情緒的に安定していて、穏やかな性格の大きい子は運動さえしっかりさせてやれれば室内でも暮らせると思うんです。………いかがですか。」 「いや、俺は………賃貸暮らしだし。」 「ペット不可なんですか?」 「不可ではありませんけど………。今まで犬なんて飼った事がないから……。」 「良かったら、触ってみられますか?」 店員に勧められるまま、俺はケージに近づくと、おそるおそるその犬の背中に手をのばした。 急に触られて怒ったりしないだろうかと思いつつ、そっと背に触れると、想像していたよりも艶やかな毛並みをしている。 数回毛の流れに沿って撫でていると、眠っているのかと思う程大人しくじっとしていたその犬が、真っ黒な瞳を開いてこちらを振り返った。 きれいな目。 店員がこの子はまだ子供なのだと言ったのがよくわかるくらいに、きれいな瞳をしていた。 家に帰っても、ふと目を閉じればあの黒い瞳が瞼に浮かぶ。 買ったばかりの新刊にも集中出来ず、俺はあれ以来あの犬の事ばかり考えている。 子供の頃イメージしていたような、跨って歩ける程大きい訳じゃなかったが、ゆったりと寝そべった姿は悠々と大きくて、その背中に顔を埋めたらさぞ気持ちいいだろうと考えた。ふっさりと毛深く大きかったしっぽも……今度いったら触らせてもらおう。 こんなに落ち着かない気分にさせられるのは久しぶりで、何をやっても気持ちそぞろ……ってやつだ。 今日はわざと一駅先で電車を降りた。 あのペットショップのあの犬に逢いに行く為に。 二日続けて変な客だと思われるだろうか。 それでも昨夜のように気になって眠れない日が続いたのでは堪らないから、それならばおかしな客だと思われても自分に正直になろう。 「いらっしゃいませ。」 昨日の店員が笑顔で挨拶をしてくれる。 またいらっしゃるんじゃないかと思っていました、と言われ、少し赤くなる。 そんなに俺はわかりやすかったのだろうか。 飼われている訳じゃないから、名前で呼んでやれないのがもどかしい。 どう声をかけようか散々悩んだ挙げ句「おいで。」とケージの中へ手をさしのべた。 綺麗な真っ黒な瞳を数回またたかせて、彼はゆっくりと立ち上がる。(ケージに11ケ月、オスと書いてあったのだ。だから彼、で間違いはない。) ひきしまった綺麗な体。ふかふかの背中。思った通り大きくて長いしっぽは嬉しそうに左右に揺れていて、嬉しい事に俺に好意を向けてくれているのがわかる。 さしのべた手のひらをぺろりと舐められ、生あたたかく、くすぐったい感触に、俺は目を細めた。 「どうやら彼はあなたが気に入ったみたいですね。」 商売人の常套句だと思うのに、何だか嬉しくて、本当にそうだったらいいのにと思いつつその黒い頭を撫でてやる。 ケージから出してもらった彼は客用ソファに座った俺の足もとに寄り添う様に座って、ぱたぱたとしっぽを降り続けていた。 ………だめだ、可愛い。 大きくて、黒くて、人懐っこいコイツに、俺はきっと恋してしまったんだ。 気持ちの中で一度認めてしまうと、いくら売れ残っているからとはいえ、こいつに値札がついて売りに出されているのが我慢ならなくなってきた。 ああどうしよう。このまま連れて帰ってしまいたいが、今まで犬なんて飼った事がなくて、マンション暮らしのこの俺に、こんな大きな犬の世話など出来るんだろうか。 ぐらりと気持ちが揺れる度に彼は濡れた様な深い色の瞳で、じっと俺を見つめるのだ。 まさしく衝動とはこの事。 俺は銀行からおろしたばかりの手持ちの現金の殆どを使って(ごっそりと本の大人買いをしようと持っていたのだ)大型犬を1匹購入した。育ちすぎを理由に半値どころかもっと割り引いてくれた上に、散歩用のハーネスもつけてくれた。 家に一緒に帰って来て、一番にした事は、彼に名前をつけた事。 これでようやく彼を呼んでやる事が出来る。 「おいで、野分。」 嬉しそうに駆け寄ってくる大きな体。俺を見上げる優しい眼差し。 夢で見たとおりにその背中に顔を埋めると、柔らかくてあたたかくて、野分はお日様みたいな匂いがした。 嬉しそうに俺の頬や唇を舐めまわす野分の頭を思いっきり撫でて、俺は少し狭くなったリビングを見てまた幸せを噛みしめたのだった。 ◇ おわり ◇ SS 長谷川舞 挿絵 鈴木イチ様 20101016up 現在、お礼画面は一種類です。 |
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