寝そべった体の左側が何だか寒いような気がして目が覚めた。ぶるりと一度体を震わせて重い瞼を押し上げる。薄っすらと開いた瞳で左を見ればそこにあるはずの体はなく、一人分の空白の向こうからは四人の規則正しい寝息が聞こえてきた。
己の目で左側の空白を確認してしまえば余計に寒さを感じてしまう。暗闇の中目を凝らして時計を見ればまだ早朝にも届かない真夜中だ。再び体を震わせてから漏れるのは舌打ち。クソが、どこ行きやがった。
気付いてしまえば再び夢の中へと舞い戻るのは不可能で、しぶしぶ体を起こす。その時に捲れ上がった布団の隙間から入った風のせいかトド松がううんと小さく唸ったが知ったことかと布団から抜け出した。
さて、湯たんぽ代わりの兄はどこへ行ったのだろうか。トイレか。安眠のためにもさっさと連れ戻さなければならない。静かに襖を開けて出た先の板の間の廊下は氷のように冷たくて、裸足の足を擦り合わせながら音を立てないように階下へと降りていく。普段から丸めの背中をいつもよりも丸めながらゆっくりゆっくりと。トイレだったら扉の前で黙って立っていて出てきたところを死ぬほど驚かせてやろうと決めて口元を楽し気に歪めたところで一階へと辿り着いた。
数時間前の喧騒が嘘かのようにしんと静まった廊下で消えた湯たんぽの気配を探すと、台所の方から微かな光が漏れ出ていることに気付いた。トイレじゃなくてこっちかと、再びそろりとそちらに向けて足を進める。まるで猫のような忍び足は得意中の得意だ。音を立てないように細心の注意を払いながらゆーっくりと戸を開けてわずかな隙間から中を覗けば、いつもは両親が使うダイニングテーブルに腰掛ける背中が見えた。
6人揃いの青いパジャマの上にパーソナルカラーの青の半纏を羽織ったその背中は、こんな真夜中であってもピンと真っ直ぐ伸びている。ケアを怠らないからか寝相が良いからか、寝癖なんてものとは無縁の黒髪の向こうにはゆらゆらと揺れる白い湯気。そしてその中で微かに聴こえるメロディ。ボリュームをギリギリまで落とした低く甘く響くテノールがゆったりとしたラブバラードを紡いでいる。両手で持ったマグカップを時折傾けながら紡がれる恋の歌は、普段の奴の無駄に自信満々な朗々とした歌声とは違ってなぜか邪魔をしてはいけないと思ってしまった。
テーブルの真上に取り付けられた何の変哲もないただの蛍光灯はまるでスポットライト。揺れるマグカップの湯気は演出のスモーク。ここまるで小さなステージ。奴の手には相棒のギターこそなく、即興のアカペラだけれど確かにこれはステージだった。
気付けばそこに静かに腰を下ろして、目を瞑って耳をすませていた。聴こえてくる歌は歌いところだけを歌っているのか次々へと曲が変わる。有名な懐メロのAメロ、Bメロと続いてサビを歌い上げたと思えばその次は歌詞を忘れたのかハミングになり、そこで突然最近のトップチャートに入る流行りのアイドルソングのサビだけを歌う。学生時代にハマっていたバンドの人気曲、アニメの主題歌、誰の曲かも知らないけれどよくコンビニの有線で聴くから覚えてしまった歌に何かのCMソング。よく分からない歌詞の自作らしきラブソングに笑いを噛み殺しているとお決まりのオザキに。こればかりはきちんと一曲歌い上げていた。
いつだったか、すごく昔のようにもつい最近のようにも思えるあの選抜の時。ライブをやりたいというあいつについうっかりいいねと返してしまったあの時のことを何となく思い出していた。寒くて眠れないから湯たんぽを探して連れ戻しにきたはずなのに、尻が冷えることも忘れて冷え切った廊下にしゃがみ込んで息を潜めて聴いているコンサート。観客は自分一人、選曲は謎、場所は武道館なんかじゃないけれど、これはあの時いいねと言った自分のためだけのコンサートだ。
きっとあの湯気を立てるマグカップの中身がなくなったらこのコンサートは終わるだろう。そうしたら台所から出てきたあいつを捕まえて寒くて眠れない、責任を取れと八つ当たりをして布団に引っ張り戻して戻った体温を左側に感じながら夢の中へと戻ることができる。けれどなぜかまだこの場所から動きたくなかった。
歌が途切れる。あ、もうないという声も聴こえた。ああもう終わりかと思ったら考えるよりも先に体が動いていた。

静かな廊下に響く小さな拍手の音。悴む指先、吐く息は白く尻は冷たい。それでもまだ終わらないでと思いを込めて、扉の向こうの自分だけのスターに俺は必死にアンコールを送った。



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