多分、初めて顔を合わせたときから好きになっていた。
自分が恋をするなんて、そんな感情が残っていたなんて思わなかったが、それでも彼の一挙手一投足から目が離せなくて、ずっと目で追いかけた。
話しかけることは苦手で出来なかったし、触れられるのが恥ずかしくて手を振り払ったりもしたが、それでも構ってくれる彼が嬉しくて、何度も繰り返した。
出会って一年近く繰り返して、ふと自分の気持ちに気がついた。
なんでもない日常の遣り取りの中で、特別な言葉もない時に。
見慣れているはずの笑った顔に、ドキリと一つ心臓が嫌な鼓動を打った。
気がついたらもう、止める事なんてできなかった。
そしてその時は、案外すんなりと俺の前に現れてくれた。
二人っきりで南の孤島に潜伏しなければならなくなった日。
完成したばかりのガンダム二機のテストを行うために、一足先に身体衛生上の問題もかねて地上に降りた。
擬似重力が開発されても、所詮人間は自然発生するGのある世界からは逃れられない。
衰えてしまう筋肉。
平衡感覚。
その予防の為に、2ヶ月に一度は地上に降りる事を強制されているが、それでもお互いに地上にも潜伏地を持つ故に、二人っきりでの行動など初めてだった。
「刹那ぁ、髪切ろうぜ?」
真っ青な空の下、周りを海で囲まれたこの島は、彼と二人になっている今は俺にとっては天国だった。
そんな彼の申し入れを、簡単に断れることもなく。
本当は伸ばそうと思っていた癖毛を、優しく触ってくれるから。
シャキ、シャキ、と、細かく動く鋏の音が、波の音に紛れて耳に届く。
首に巻きつけられたシーツが海風に踊って、その度にシーツに落ちる味気ない黒髪が風に舞う。
俺の頭を勝手に動かしながら、バランスをとって鋏を入れている彼は、酷く機嫌が良さそうで、会話のない俺達の間に彼の鼻歌が響く。
お世辞にも巧いとは言いがたいが、それでも彼の声だと思うだけで胸が熱くなる。
重傷だ。
「ほい、次は前髪だ。目つむれ」
目の前に回ってきた彼が、笑顔で鋏を掲げる。
丁度真上に来ていた太陽が、その笑顔に影をつける。
それでも、綺麗で。
溢れるほどの気持ちが、ぽろっと口から零れた。
「……ロックオン」
「なんだ? 前髪切らないのか? 目に入っちまうぜ?」
「好きだ」
「…………」
一瞬落ちる沈黙。
その後、ぱちりと翡翠の瞳を瞬かせて、彼はまた笑う。
「……ほら、目つむれって」
何事もなかったかのように流そうとしているのがわかって、それでも一度言葉にしてしまったら引く事も出来なくて。
もう一度、彼の目を見て口を開いた。
「好きだ」
二度も同じ言葉を繰り返した俺に、ロックオンは笑う。
「はいはい。俺も好きだよ。だから早いところ……」
「違う。親愛ではない。恋愛だ」
元々話すことは苦手だ。
だからこういう場面で俺はどう自分の気持ちを紡いで良いのか解らなかった。
ストレートに訴えた俺に、ロックオンはもう一度瞬きをする。
その後、一つ溜息をついた。
「……前髪、切るぞ」
俺の言葉に返すことをせずに、額を押さえて上を向かせて、無理やり鋏を翳す。
そうされれば、自然と目を閉じてしまう。
目を閉じた俺の額に、少し冷たい鋏の感覚が触れた。
シャキ、シャキ、と、変わらない鋏の音。
何度も俺の髪の毛を切っているロックオンは、俺が一番快適に過ごせる髪の毛の長さを理解していて、それに合わせて前髪もそろえてくれる。
それでも今の状況では、信頼だけでは居たたまれない。
変わらずに鋏を動かされている。
手も震えていない。
余りにもいつもと変わらなくて、俺もどうして良いのか解らなくなる。
でも口を開こうとすれば切られた前髪が口の中に入りそうで、開きたくとも開けない。
いつもはあっという間に終わる前髪の散髪が、いやに長く感じた。
「……はい、終わり」
形を整えるためなのだろう、細かく動かされていた鋏の音が止んで、細かい髪の毛を弾くように、いつものようにグシャグシャと髪の毛をかき混ぜられた。
目を開ければ、首からシーツを外して、シーツについている髪の毛を大きな身振りで払っている彼の背中。
何も言葉をくれない事に、どうして良いのか解らなくて見つめた。
じっと見つめる俺の視線を感じてなのか、観念したようにロックオンは背中を向けたまま俺に言った。
「……お前、隠してる事俺に暴露してどうすんの」
「別に、態と隠していたわけではない」
ずっと、男として振舞ってきた。
医者と戦術予報士以外に、俺が女だと気がついている人間がいるそぶりは無い。
それに不便を感じた事もないし、生活上は何も問題はない。
けれど、この気持ちには障害だった。
彼は大きなシーツを畳みながら、強い海風に紛れて溜息をついた。
「いやまあ、俺は気がついてたから良いけどさ。態々胸潰して生活してんだから、男に恋心なんて抱かない方がいいだろ」
その言葉の影に、思春期特有の心の動きだと諭された事がわかって、顔を顰めてしまう。
単なる成長過程のソレならば、こんなに心が痛くなるものか。
いや、だが俺には解らないのかも知れない。
俺よりも年上の彼に言われてしまえば、うつむく以外出来ることもなくて。
「……それでも、俺はアンタが好きだ」
今の正直な気持ちはそれなのだ。
他の誰にも抱かない、独占欲。
存在の意味。
相変わらず言葉には出来なかったが、俺はせめてもの意思として、拳を握り締める。
暫く沈黙して、波の音だけがあたりに響く。
今日はいつも彼が従えているAIロボットも居ない。
真に二人っきりの空間には、どちらかが口を開かなければ会話は生まれない。
シーツも畳み終わって、鋏の間に挟まった髪の毛を取り終わった後、大きな溜息と共に言われた言葉は、俺を失意のどん底に叩き落した。
「……好きって思ってくれて嬉しいよ。でも悪い。俺にはお前は可愛い妹にしか思えない」
「……いもうと」
それは、胸を潰して男としてふるまっているからという理由ではなくて、外見的要素がどうのという事でもなく。
純粋に俺は、彼の恋愛対象にはなり得ないという事。
「正直言うとさ、何にも言わなかったけど、俺は最初からお前が男の振りしてるって気がついてた。でもそれは俺だけじゃなくて、アレルヤもティエリアも気がついてる。おやっさんもだ。皆お前の事わかってて、それでもお前が可愛くて、お前が頑張ってる事を邪魔しないように気をつけてた。ある意味共同戦線みたいな感じでさ。だけどソレは恋愛感情じゃなくて、家族に対しての感覚なんだ。少なくとも俺はずっとそう思ってた」
皆が気がついていたなんて、そんな衝撃的な事実よりも何よりも、俺には彼の拒絶が悲しかった。
だから続いている言葉は、波の音と同じようにしか聞こえない。
周りを流れる音楽のように、初めて恋愛を意識した相手の声を耳にしていた。
「好きって感情は嬉しいよ。俺だってお前のことは好きだし。恋愛とか関係なく、人間としてお前の事好きだ。可愛いと思ってる。だけど……それだけなんだ」
髪の毛を切ってくれるのも。
食事に誘ってくれるのも。
ドライヤーが嫌いな俺を追い回して、無理やり髪の毛に温風を当てていたのも。
妹、だから。
うつむいてしまっていた顔をゆっくり上げれば、彼は少し寂しそうに笑っていた。
「ごめんな」
寂しそうに、謝る。
そんな顔にも胸が躍って、馬鹿だと思う。
「……いや、かまわない」
本当は泣いてしまいたいくらい、ショックだ。
なんとなく、彼は俺の全てを受け入れてくれるような気がしていたから、余計にそう感じるのかもしれない。
それでも、悲しそうに太陽の下で笑う彼に、思ってもいない言葉が口から飛び出す。
空は気持ち良いほどの快晴で、海風も爽やかで。
そんな空気の中では、涙なんか出てきもしない。
だから俺は、普段と変わらない表情で、俺の気持ちを受け入れなかった彼を受け入れた。
「お前、可愛いよ。すぐに良い人が見つかるさ。俺が保障する」
「可愛い、か」
俺の呟きを問いかけと勘違いしたロックオンは、何故か勢い込んで肯定してくれる。
「可愛いって、マジで。あと3、4年もしたら、すげぇ美人になるって。俺が保障する!」
あまりの必死さに、泣きたいと思っていた気持ちも薄れてしまって。
「……ふっ」
何年も忘れていた笑いを思い出してしまった。
肩を震わせて笑ってしまう。
こんなコメディがあるだろうか。
俺を振った男が、俺の魅力を力いっぱい叫ぶ。
それでも心は軽くはならなかったけれど。
笑いすぎて涙が溜まった目を擦れば、相変わらずロックオンは無造作な俺の動きを止めた。
「こら、そんな力いっぱい擦ったら……」
慌てたように腕を取り上げて、一瞬だけ目を合わせて、逸らせて。
そして持っていたシーツで俺の顔を拭いてくれた。
いくら払ったからと言っても、なんとなくまだ残っていたようで、俺の目の中に小さな痛みが走る。
「ロックオン、髪の毛が目に入った」
「ええ!? わりぃ!」
「シャワーを浴びてくる。そのシーツも洗濯するから渡してくれ」
いつものように事務的に言葉を発すれば、ロックオンはやっぱり少し寂しそうな顔で笑って、シーツを手渡してくれた。
しっかりとシーツを受け取って、彼に背中を向ける。
服の中に、切った髪の毛が入っているような感覚がして、くすぐったい。
背中に視線を感じながら、俺は自分に割り当てられている簡易の部屋に入った。
力説してもらった魅力は、自分ではわからない。
だけど一つだけ救われた。
彼の賞賛が心地よかった事。
こんな気持ち、簡単に捨てられるはずもない。
それなら俺のすることなど一つだけだ。
いつか、妹なんて言葉が出ないような、そんな女になる。
その時にもう一度、俺は恋心を彼に伝えようと思った。
そう考えて、俺は身に着けていた胸を潰すサポーターをゴミ箱に捨てた。
いつだって俺に乗り越える気持ちを与えてくれる男を、諦められるはずがない。
人と触れ合えるようにしてくれて。
そして今、自分をさらけ出す勇気もくれた。
お前が俺に対してしてくれたように、俺も何度でもお前に繰り返す。
服を脱ぎ捨てて、少し冷たくしたシャワーを頭からかぶって、激しい水音の中で俺は誓う。
「いつか……見てろ」
一人きりの決意表明を聞いている者がいるなど、俺は想像もしていなかった。
自分の世界に入ってしまう子供であったと、後に俺は痛感する事になった。
シャワールームの外に居た人影になんて、気がつく事が出来なかった。
その人影が、安堵したように、そしておかしそうに笑ったことなんて、当然知らなかった。
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