※お礼の小話は現在三種です。






 目覚めたときにはもう、窓の外で雨の音がしていた。
 ザアッとシャワーにも似た無数の響きは、ぐるりと家屋を囲うカーテンのように鼓膜を覆っている。耳を塞いでいても聞こえてきそうなほどに存在感の大きなそれを決して不快だとは思わない。雨自体もそこまで嫌なわけではなかった。ただ、今日は洗濯物を干せないなあとか、帰りまでに止んでなければ買い物するのは面倒だなあとか。そんな考えが頭を過っては漠然とした気怠さが増していく。それこそ、川や湖の水位を少しずつ上昇させる雨のように。
 口の中で動かしていた歯ブラシを抜き、入れ替わりにコップを手に取る。ぬるくなった湯ですすいで吐き出したとき、するりと右肘のあたりを何かが横切った。目を向ける前から正体はわかりきっている。考えるまでもない。
「……ねぼすけ」
「あは、なにそれ。新しい朝の挨拶?おはよ、シンジくん」
 悪態をついたつもりだった。本気で伝わっていないのか適当にごまかしたのかわからない笑みを声に交ぜた渚は、二本ある歯ブラシのうちの一本を指でつかむ。当然今の今まで僕が使っていたのとは違うほうだ。
 視界に入った手をそのまま目で追いかける。チューブの歯磨き粉をアクリルで出来た繊維の上に乗せ、口の中に運ぶ。ちょっと出し過ぎじゃないかなと思ったら、案の定真っ白な眉間に瞬間的な皺が寄せられた。すっとするミントの匂いがここまで届く。
「雨の音すごいね」
 しゃこしゃこと小気味のよい音を立てながら発せられた言葉で、唐突に喧騒のような響きが戻ってきた。いつの間に喪失していたのだろう。人間の耳は結構いい加減だ。
 顔を洗おうと近くにあったタオルを引き寄せる。そうだね、と相槌を打とうとしたのに、口はまったく別の動きをしていた。
「歯磨きながら携帯いじるなよ」
「んー、ちょっとだけ。あ、見て見てシンジくん」
 液晶をこちらに傾けてくる。白い染みは見当たらなかった。思ったより傷ひとつない画面の中に、今日の天気予報が示されている。
 雨をまとった雲のマーク。そこから矢印が右向きに引かれ、矛先にはオレンジの太陽があった。丸い円の周りに散らされた花びらみたいな台形が、なぜかとても愉快なものに見える。
 どうしてだろう。別に晴れでも雨でもそこまで頓着しない。疑問のまま、顔を上げた。右頬と歯の間で咥えられた歯ブラシが踊る。
「帰り晴れてたらさ、デートしようよ。夕飯の買い物もいっしょにしよう」
 目の前に現れた満面の笑み。口の端に少しだけ歯磨き粉がついているのが可笑しくて、つい唇を綻ばせてしまう。
 遠く響く雨は止む気配など今のところ微塵もない。天気予報なんてアテにならない。それでも。
「……晴れてたらね」
 そうだったらいいな、なんて。
 伸ばした指で白を拭ってやりながら、心のどこかで願う自分が可笑しかった。

(なんで歯磨きの話?と自分でも首を傾げていたら、読んでいた某小説の影響だと書き終えてから気付きました。)

( design from drew )




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