拍手ありがとうございます。お礼は一種類です。 ◆深爪の温度(鴇沢と昴)
ぱちん、ぱち、と音がして顔を上げると、鴇沢が新聞紙の上で手の爪を切っていた。なんとなく黙って観察してみれば、一本の爪を切るのに何度も角度を変えて丸くしている。十本分すべて切り終わると、今度は丁寧にやすりで整え始めたので思わず感嘆の息を吐いてしまった。 「……あ、あの、昴? うるさかった?」 「ああ、いや、全然。丁寧だなーと思って見てた。きれいにしてんな。見せて」 「お見せするようなものではないんだけど……」 「いいじゃん」 照れる鴇沢の手をとって、まじまじと検分するように眺める。縦に長く、ゆるく弧を描いた美しい爪の先にはほとんど白い部分がないほど深く切ってあった。ささくれひとつないきれいな手なのに、痛々しい印象を受ける。 「こんな深爪して、痛くないのかよ」 「平気だよ」 「もうちょい残して切ったらいいのに」 指先を撫でながら言うと、鴇沢はなぜかみるみるうちに顔を赤くした。 「き、傷つけたら困るから……その、あの、す、するとき……」 そして消え入りそうな声でそう呟いて、昴の手をきゅっと握った。 「あ、あー……なるほどね……そりゃ……」 こまやかな気遣いをどうもありがとう、とでも言えばいいのか。この空気をどうしてくれよう。 つられて照れてしまったのをごまかすために、昴は「俺の爪も切って」とせがんだ。 「ええっ」 「ちょうど伸びてきたなって思ってたから。俺の爪も、やすりもやって」 「無理だよ、怖い! 人の爪なんて切ったことないし、昴のなんて……失敗してけがさせたらいやだし」 「ちょっとくらい平気だって。向かい合ってるとやりにくい? 膝載ったほうがいい?」 「ま、まって……」 怖じ気づく鴇沢の左隣に体をくっつけて、手のひらを広げて見せる。ていねいにやすりをかけられた爪が、なんだかとてもうらやましいような気になったのは事実だった。爪なんか、適当に切ったって構わないと思っていたのに。 ぐいぐい押しつけると、根負けした鴇沢が「もう……」と言いながら昴の手を取った。長い指が、すっと昴の右手の指先を撫でる。 「姿勢これで大丈夫?」 隣にくっついたまま尋ねると、鴇沢はうなずいた。 「やりにくかったら変えてもらうね」 「ん」 ふー、と息を吐いて、鴇沢が左手でしっかりと昴の手を握った。思いがけない力強さに一瞬驚いたけれど、手のひらの温度に安心もする。 膝の上にチラシを敷いて、まず親指の爪に刃を当てた。ちらっと横顔を見ると、まるで職人みたいに真剣な顔つきだった。 ぱちん、と最初のかけらが落ち、すこしずつ角度を変えて二度三度同じ音が響く。一本の指に、なんて時間をかけるんだろう。じっと見つめているあいだにむずむずしてきて、落ち着かなくなってきた。 「昴、動かないで。危ないから」 「ごめん」 咎められてからは意識して動かないようにしたけれど、やっぱり背筋がくすぐったいような気がして笑いそうになってしまう。 自分ではないだれかに爪を切ってもらうなんて、本当に幼い頃ぶりだった。 鴇沢は、自分の爪を切るときとは違い、昴の爪は白い部分を一ミリ程度残して切っていく。爪切りだけでもすでにやわらかく丸いカーブを描く自分の爪先に感心した。自分で切るときは、あちこち尖っているのに。 そんなに大切そうに扱われると、自分の手なのになんだかとてもいいものみたいに錯覚してしまいそうだった。 「右手の爪を、右手で切るのって変な感じ……」 右手の五本を切り終えると、鴇沢はふうっと息を吐いて呟いた。 左手を差し出しながら昴は笑う。 「あー、そうだよな。俺は、人に爪切ってもらうのって、くすぐったいんだなって思いながら切ってもらってる」 「だからもぞもぞしてたの?」 鴇沢は笑って、左手もしっかりと握った。外を歩くときに手を繋いだりするのとは全然違う、がっちりと捕まえられたようなやり方もむずむずする一因かもしれない。 「昴の爪のかたちはきれいだね」 「え、そうかな」 「うん。つるつるしてるし」 表面をすっと撫でられると、いままでのむずむずとはまた違う、ぞくっと背筋が粟立つような感覚があった。これ、むずむずっていうか……、と考えたけれど、鴇沢の様子をうかがうととてもそれどころじゃなさそうだな、と諦めた。 丁寧に十本すべての指の爪を切り終えたあと、やすりに持ちかえて磨き始める。 しゅ、しゅ、というかすかな音を聞いているうち、だんだん眠くなってきた。鴇沢にもたれかかっているほうの半身はあたたかいし、世話をされているのは心地がいい。 どうにか寝入らないように堪えているうちに、すべての爪がととのえられた。最後に息を吹きかけられて、そのくすぐったさにとうとう笑ってしまう。 「おしまい。どこか引っかかるところとかない?」 「全然。うわー、すげー! いま人生でいちばんきれいかも。やばいな、これ思ってた以上にうれしい。ありがとう」 「どういたしまして」 「またやってくれる?」 「うーん……たまになら」 困ったように笑う鴇沢がかわいかったのでくちづけてから、使った道具を片付ける役を申し出た。 翌日は、仕事中に自分の指先が目に入るたびにちょっとうれしい気分になった。 ネイルに興味なんてすこしもなかったし、するほうの気持ちもまったく分からなかったけれど、今ならすこしわかる。自分の爪を装った女の子たちはこういう気持ちなのかもしれない。 普段は気にしていなかったが、自分の爪が視界に入る機会は意外と多い。 きれいにしてもらえたことがうれしい。でもそれ以上に、作業をしているあいだの鴇沢の、真剣そのものの表情が好きだと思った。 丸くなめらかな自分の爪を見ながら、今度こっそり高級な爪切りを買ってプレゼントしようと決めた。 〆 |
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