<拍手御礼SSその1>

 混雑した朝のバスの中、ざわりと空気が騒がしくなった。
 人の多さに辟易していた俺は、何とはなしに視線をそちらに向ける。
 そこにいたのは、背広姿の中年男性と――
「気安く人のお尻、触らないでくれる?」
 気の強そうな、制服を着た少女だった。
 少女は男の腕を掴んでいる。大したものだと、俺は素直に感心した。
 彼女の背後に立っていた男は体格が良く、何より強面だった。
 背広を着ていなければ、その筋の人間だと思っても仕方がないだろう。
 けれども少女の声は、怯えやその類のものを一切含んでおらず、凛としていた。
 俺は目を細めてその少女を観察する。
 背は高くもなく、かといって低くもない。年齢は丁度蘇芳と同じ、ってトコか。
 少しつりあがった、きっと自分の後ろに立っていた中年男性を睨みつけている。
 頭の何処かで、「美味そうだな」とぼんやり思った。
「言いがかりはよせよ」
 対する男は、全く悪びれない声でそう言った。低い、威圧感のある声だった。
 少女は少し眉を寄せる。
 周りはただ、それを見ている。
「言いがかり? そんな訳ないでしょうが、実際撫でてる手を掴んだんだもの」
「はぁ? それが言いがかりだって言ってんだろうが! 誰がそんなことするかよ」
「現にしてたじゃない」
 少女は全く怯えたそぶりを見せない。
 俺は素晴らしいと思うと同時に、無謀だ、とも思った。
 言葉があまりにも直球すぎる。あれではたた人の感情を逆撫でするだけだ。
 現に――男の顔は徐々に真っ赤になっている。
 ……にしても、だ。
 これだけの人間がいて、誰も男を諌めたりしねェんだから……この国のお先は暗いねェ。
 そう思った所で、俺もその『人間』の一人になっていることに気付いた。
 このまま静観していてもいいが――それは流石に後味が悪い。
 だって、ほら。
 男は空いている手を振り上げたのだから。
「っ」
 少女はびくりと肩を跳ねさせたが、目を閉じることはしなかった。
 嗚呼――それでいい。
「そこまでにしとけよ、みっともねェ」
 少女と男が揃って俺を見た。それだけじゃない。バスの中の人間全員が俺を見ている。
 ……目立つことは極力避けたかったが、この際四の五言ってられない。
 それに――どうせ、人間は自分に関わりのない事象などすぐに忘れてしまうのだから。
「ンだよテメェ!!」
「ぎゃあぎゃあ煩ェよ。嬢ちゃんの言う通りじゃねえか……大の大人が情けない」
「るせぇ、何言って」
 ぎゃあぎゃあ煩かったので、俺は手首を掴んだ手に力を込めた。
 みしり、という音がした。
 びくり、と男が身を強張らせるのが分かる。
 腹の底から黒い感情が湧きあがってくる。
 このまま手首を折ってしまおうか――と誰かが囁く。
 それは酷く良い考えの様に思えたので、俺は更に力を込める。男が呻いた。
 乗客は何も言わない。これが御国柄ってヤツか? なんて俺が思ったその時。
「ちょっと……何してんのよ、アンタ!」
 凛とした声が、鼓膜を叩いた。
「や、何って……鉄拳制裁?」
「……アンタがそれをする権利は、無いと思うんだけど」
 見上げてくる茶色い双眸。そこに宿る色を、俺は何処かで見た気がした。
「まァ、確かにそりゃそうだ。嬢ちゃん一発ぐらい殴っとくか?」
「……いいわよ、別に。なんか冷めた」
「そうかい」
 喉で笑いを転がして、俺は男の手首を解放してやる。
 男はさっきまで少女の尻を撫でまわしてた手でそこを押さえると、
 口の中で何かを呟き前の方へ行ってしまった。大方罵詈雑言だろう。
 その様子が無様で思わず笑えば、横面に視線を感じた。
 見れば、少女はじっと俺を見つめている。
「何か?」
「……どっから来たのかなぁ、って思って」
 嗚呼成程。もっともな疑問だ。
 乗客の注意が二人に向いているのをいいことに、実体化を解いて移動したのだが――それに気付くとは。
 少女に誰かに似ているような気がして、俺は笑った。
 こんな骨のある人間には、久しく会っていない。さぞかし魂は美味なのだろう。
 ごくん、と喉が鳴った。
「後ろだよ、う・し・ろ。あのオッサンがあまりにも大人げねェんで、つい、な」
「そう……? 取り敢えず、お礼は言っておくわ」
「そりゃどーも。そうだ嬢ちゃん、年寄りから一つ忠告しとくが――言葉は選んだほうがいい」
 茶色い猫の双眸は、じっとこちらを見上げてくる。綺麗な色だと思った。
 そこに少しだけ『彼女』に似たものを、見た。
「はっきり言わなきゃ、大抵の場合通じないわ」
「はっきり言い過ぎて、殴られたら損だろう?」
「……まぁ、確かにそうなのだけども」
 溜息を一つついて、少女は停車ボタンを押した。
 窓の外に視線を移して、溜息をもう一つ。
「言葉の塩梅って難しいわね。そう思わない? 水商売のお兄さん」
「全くだ」
 水商売、という単語が気になったが、それはすぐに消えた。
 確かに今の格好では、そう見えても仕方がない。
「それでも――あたしはきっとそういう風にしか出来ないんだわ」
 窓の外をじっと見つめて紡がれた言葉は、酷く重くて。
 ぱちくりと目を瞬かせる俺を余所に、少女は苦笑を浮かべる。
「なんてね。知らない人に語っちゃって、ごめんなさい」
「構わねェよ。そういう信念のある嬢ちゃんは大好きだ」
「そう?」
 バスが止まる。
 悪戯っぽく肩を竦めて、「じゃあね、ありがとう」と少女は行ってしまった。
 その背中を眺めて、 知らず知らずのうちに、俺は舌なめずりをしていた。
 今喰ってしまっても良かったが、それはあまりに早計というものだ。
 ――あともう数年もすれば、彼女は極上の魂になるだろう。
 そこでふと、気付く。
「嗚呼、成程」
 先程感じた既視感の正体。
 ――彼女は椎名に似ているのだ。
 喉を鳴らして、俺はまだ見ぬ数年後の彼女に唇を歪めた。


「あ、おはようともこさん」
「おはよう綿貫。今日は早いのね」
「うん」
「そうそう、綿貫」
「なぁに? ともこさん」
「さっきバスの中で――」

「――貴方によく似た人に会ったわ」


。。。「あなたににている」。。。
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